夢見た“予防ゲーム訪問” (通信第44号掲載済み)

宇治市内に3月にオープンした4階建ての(社福)京都認知症総合センターの2階フロアで行われている“認知症カフェ”に二度目の訪問。私は20数年前に病院で行われていた通院高齢者専用のカフェ的な集まりに一度だけ呼び出されて抹茶接待を担当した経験がある。
その時に夢見た“予防ゲーム訪問”が同じ病院系列の施設で実現したのだ。カフェに、職員さんの誘導で集まって来られるレベル・症状が一人ずつ異なる方たちを迎えると、介護保険制度が整ってきたお陰で、たとえ一人暮らしで認知症を発症しても、今日の食事、明日の心配もなく、安心して暮らせる社会制度(GH)の実現が、かつての時代を知る者としては、言葉もないほど有り難く、胸に迫るものを感じる。

ゲームの前の自己紹介も、臨機応変の変則スタイルで即応した。ルール説明をしても、理解意欲も無いような方は、どこ吹く風の表情。記憶に留める方もおられる中で、誰も傷つかないように淵あり、瀬あり式に流していく。これはさしずめ、集団の中での無言の個人授業とも言えるだろう。

「1から10」の指数えは、何故大切か、「1から10」の指数えでは、何故これが大切か、意義の説明をキチンと言う事が大事になる。
症状が進行している人に対しても、説明を大事に言う理由は、「自分も列座している」という認識で、聞く姿勢をきちんと保っている・・・、つまり社会人としての形を保っているという気分に浸って頂くチャンスとするためである。形を保つことで人格が保持される。
「1から10」の動作は、指を一本ずつ屈伸させるのだが、目的は指関節の屈伸によって、全身の血流促進の為のウォーミングアップの意味であり、数を数える習慣を取り戻すという、異なる二つの目的がある。口を大きく開いて、大きな声で「1から10」を言う、という慣例的発声も皆との協調性を養うものであり、大きな声を発することで気が晴れる。
このような幾つもの効果につなげる意識で、リーダーは一層おおきな明るいトーン、換言すれば声の調子によって誘導するので、皆との協働、自分も列座同権で発声しているというような、一種の人間宣言というような空気を、僅かでも醸成させる。だから、リーダーは気を籠めて、ゆっくりの「1から10」、速度を上げての「1から10」、終わった途端の、それも1秒で円座を一周して全員を褒める方法を、その都度繰り返すことが重要。結果として皆さんの、人格(存在)を認めてもらった〜、とでも言いたい満足げな笑顔を引き出すのだ。その意図と微少な結果を見落とすと、「1から10」のゲームが無駄な時間というようなマイナス思考に陥る。
だから私はリーダー養成講座の時と同じように気をこめて、「1から10」を丁寧にくり返している。誰一人、イヤなムードを発散されないのが嬉しい。

ゲームその1が次々と進むにつれて、リズム感を失ったような人が、次第にリズムに乗れるようになり、全身で「愉快さ」を表出される。リーダー冥利に尽きる場面となる。
初回訪問時とは打って変わって、二度目ということで全員がリズムに乗り、楽しむようになられた。

解散してから、カフェの責任者と変化を認め合うことが出来た。来月も訪問の約束が受け入れられた。ヨカッタ〜、と膨らむ思いで帰途についた。
後ろ向きの人を前向きにさせるのは、腕力では無い。自ら向きを変えさせる・・・この貴重な「やらせ」。是を私は誰から習っただろう? (髙林實結樹)