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川西断酒会 ☆酒害に悩む本人と家族の方へ☆ 「必ず立ち直れる」と信じてください
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2015/05/04のBlog
[ 20:12 ] [ 三田市断酒友の会例会ご案内 ]
三田市市花さつきーーー>
更新10月23日です
三田市断酒友の会例H29年4月~H30年3月ご案内
下記クリックPDFサイズA41枚プリントできます

会場 三田市立フラワータウン市民センターTEL079-562-5555
三田市武庫が丘7丁目3番地1
☆月曜例会: 毎月第2・4・5月曜日 19:00~20:30
 (当日祝日の場合、13:30~15:30に変わります)
☆火曜日例会: 毎月第1・3火曜日19:00~20:30
 (当日祝日の場合、13:30~15:30に変わります)
アクセス
フラワータウン駅(神戸電鉄公園都市線)北860m徒歩11分
 駐車場あります(施設利用者無料)
2015/02/20のBlog
[ 21:17 ] [ 川西断酒会例会月別ご案内 ]
写真ーーー>角田久美子さんデザイン(酒害者の子供さん)

更新H29.年5月3日です。

会場の都合にて変更が、あります問い合わせ下さい。

平成29年5月11日から木曜日例会、開始時間6時50分~8時40分閉会
☆平成29年6月7日から水曜日例会、開始時間6時50分~8時40分閉会
平成29年4月から平成30年2月 川西断酒会例会予定ご案内
予定にて、会場都合にて、休会または変更あります。
ご出席される場合、事前に、確認下さい。

問合せ先 事務局 馬場 072-776-1581 、 080-4398-1570
baeso6120@ymobile.ne.jp
2014/08/26のBlog
[ 17:19 ] [ アルコール関連問題ドイツヒント ]
写真ーー>東大阪市市木 クスノキ
東大阪市アルコール関連問題会議が、東大阪断酒会の例会参加者、ひがし布施クリニック受診者の現状を把握するために実施したアンケートの調査結果です。
大阪市保健所出展転載させていただきました.


アンケートをPDFにて閲覧プリントできます。
[ 17:06 ] [ アルコール関連問題ドイツヒント ]
写真ーー>東大阪市市花 梅花
東大阪市アルコール関連問題会議が、東大阪断酒会の例会参加者、ひがし布施クリニック受診者の現状を把握するために実施したアンケートの調査結果です。
大阪市保健所出展転載させていただきました.


アンケートをPDFにて閲覧プリントできます。
2014/06/13のBlog
[ 22:52 ] [ てんとう虫のおじさんのつぶやき ]
怒りのコントロール
今から20年ほど前、断酒して5~6年、上の娘二人は、小学校低学年。
下の二人の息子たちは、保育所だった。
私自身は、まだまだ、気持ちが安定せず、ガマン我慢の断酒だった。
疲れて帰宅すると子どもたちの黄色い声に、イライラ…。
(煩い)(黙れ)の罵声を浴びせる日々を送っていた。
同じく帰宅した家内から(あんた、何言うてんの)(気ぃよう、遊んでるだけやないの)(一番煩いのは、あんたや)(ガマンでけへんねん、やったら出て行って、離婚しましよ)と 散々だった

これは、どないか せなあかん と考えついたのが、(スキすきチュー作戦)だった。
直ぐに、カーッと怒るのではなく、(そんな悪いことする子は、お尻ペンペンか、スキ好きチューか?どっちがえ)と、 問い掛けることにした。
こどもたちは、決まって(スキ好きチュー)を選ぶ。
ぎゅ~っと抱きしめて、頬っぺに(チュー)。

子どもたちは、嬉しそうに笑い声を立てるし、何よりも、私自身が落ち着く。これをするようになって、大声で叱り付けるのが、随分と減った。

実は、もう一つ衝撃的な出来事があった。
子どもらと街のお風呂屋さんへ行った折り、入浴の手順を子らに事細かく指導していた。
その後、入浴中のおっさんが、何やら、我が子らに話し掛けていた。

(あのオッチヤン、何言うてたん)と尋ねると、(お前とこの、おとん、いちいち煩い奴やなあ)っていうてたよ!と、あっけらかんと返事が返って来た。
それはズキッとする程の衝撃だった。 過干渉の母親に振り回されて、「良い子」を演じて来た自分自身の嫌だった過去に思いに馳せ、(アカン!アカン)これやったら、母親と同じや!!と猛反省。

子どもとの距離を取る事が、次の課題となった。
その頃、保育所主催の子育て講演会で、講師が子育てで、躾を始め、色んなことをしてやろうて思っては、いけません。

「安定・安心の衣食住」を与える事だけ充分なんです。と言うのを聴き、確信となりました。


さて、怒りのコントロールで最大の難関は、連れ合いとの関係です。
長年の飲酒生活の中で、皮肉を云われては、反発するという、夫婦ゲンカの道筋が出来上がっていて、ちょつとした事で、ドツボに嵌まる事が続きました。
また、家内が職場での出来事を話し始めると、露骨に嫌な顔をし、「こうしたら」「ああしたら」…と解決法をアドバイスをする始末。

ただ、ただ、「聞いて欲しいだ」という事が長い間、分かりませんでした。
ところで 、皆さんは、「住いは人権」という言葉を聞いた事が無いでしょうか?
我が家もご多分に漏れず、ごくごく小さな二階家に子どもが4人。幼い時はまだしも、成人の子が四人。私たち夫婦で合計6名が暮らすという極めて狭隘な住環境でした。
長男は、大学生になると勉強する場所が無と、とうとう一年程、友人宅へ家出してしまいました。

また、2年前、二女が事情があってシングルで出産する事となりました。
肝心の自宅は築40年を超えて床が、波打つなどボロボロの状態。これでは、孫育てが出来なと退職金で 近くに、これもまた小さな中古の三階建を購入。
それまでの古家は、リフォームする事になりました。

この間、私の母親が突然死するなど、書き尽くせない程の困難が次々と起こりましたが、「家族力」で、どうにか乗り越えて来ました。
ここで、私が学んだ事は、自分さえ良かったらよから、運命共同体である家族全体のいく末を考えて最善の道を選択して行くしかない事。
いつまでも、「アル中はジコ中」の甘えでは済まされな事。
時には「家族会議」をも、しながら、特に家内とは、こちらから良く話し合いをする努力をして来ました。

今は少し落ち着き、実は、三階建ての家には、私と息子の3人が暮らし。
自転車で、1分間、直線上の、リフォームの済んだ二階家には、家内と娘二人と孫、4人が住み分け事になった。
つまり夫婦間で云えば、期せずして「オンデマンド婚」を実行中です。
今のところ、息子たちとも、じっくり語れるし、また、孫育てにも、距離をおいて係われる。家内との関係も新鮮ですね。

てんとう蟲おじさん

下記クリックにてPDFにて閲覧プリントできます。


2014/05/12のBlog
[ 05:58 ] [ 家族の体験談 ]
●『やっとたどり着いた断酒会』三重断酒新生会山崎 智子ーーー>ここから
●『やっと夫婦になれました』三重断酒新生会坂口 純子ーーー>ここから
●『娘と歩む断酒の道』香川県断酒会太田 富子ーーーここから
●『・・・・・・・・・』広島断酒ふたば会佐渡 順子ーーーここから
●『あまりにもいろいろありました』三重断酒新生会栗田 幸子ーーここから
●京都府断酒平安会 壬生支部 東江 和美
「私と父のラストチャンス」ーーーー ここから
●京都府断酒平安会 山科支部 阿部 実智代
 「酒と決別した主人の営業部人生」---------こちらから
●兵庫県川西断酒会 S/B
 「断酒会でつかんだ幸せ」----------こちらから
 「断酒会を信じて」----------------こちらから
●奈良県断酒連合会 南大和断酒会 荒川 弥生
 「大好きなお母さん」-------------こちらから
●大阪府高槻市 石村 健二
 「恵子の軌跡 水中毒と闘う Ⅰ」--------こちらから
 「恵子の軌跡 水中毒と闘う Ⅱ」--------こちらから
2014/03/26のBlog
[ 16:11 ] [ てんとう虫のおじさんのつぶやき ]
写真--->てんとう虫
バランスの取れた生き方を!!

「百薬の長とはいえ、百(よろず)の病は、酒によりこそ起これ」徒然草の一節である。
吉田兼行は、今から660年程前、鎌倉時代末期に、アルコールの功罪を看破していた。ところが、先日の大阪府断の一日役員勉強会で、講演されたDrは、アンケート結果を示し、内科医の多くが、自分の患者にアルコール問題は無い…とする回答を寄せていると云う。
アル中への偏見と共に、医療界でも認識の後れがあるならば、早期発見・早期介入が困難となり、助かる生命も助からない。
そして、もう一人挨拶に立った、あるpswは、体験談を聞いて一番腹のたつ事…として「自分がしっかりして無いと、断酒出来ない」とする体験談だ…と言い切った。「アルコールに対して無力である」事から逸脱した、自慢気な体験発表になっていることを危惧されたのだろう。
本人の様々な苦しい挑戦を経て、ようようにして「安定」した断酒継続になると…「無力である」事から、自慢の断酒になり勝ちである。しかし真理から外れると後から来る人達への悪しき見本となる。
そして前述のpswは、私にとっては、とても気になる事も話された。
「断酒会から離れても、断酒を続けている人は、たくさんいる。離れると再飲酒する…などとの脅しは、もう止めましょうや!!
人間(ひと)として成長するには、どうしても断酒会が必要だ…と断酒会の積極面を押し出して行こうと云う主旨であった。
これが、正しいとすれば、私の持つ、ある種の後悔が解消される。かく云う私も、酒が止まると直ぐに断酒会を離れ、断酒20年にして、再入会をしたからである。
戻って6年近くになるが、例会は、本当に人間(ひと)を成長させるところだ…とつくづく実感している。
ただ、批判的に云うと、「聞かす体験談」や「自慢の体験談」が横行している所でもある。
私自身もっともっと、バランスの取れた人間にならねば…と改めて思いを強くしている。
〈てんとう蟲おじさん〉
2014/03/22のBlog
[ 11:14 ] [ 川西断酒会総合案内 ]
写真ーーー>川西市 市木サクラ
平成29年9月1日 更新

川西断酒会会則

公益社団法人 全日本断酒連盟
兵庫県断酒連合会
NPO法人 兵庫県断酒会
川西断酒会

第一章 名称及び所在地

第一条 本会は、兵庫県川西断酒会と称す。
第二条 本会の事務局は、会長又は事務局長宅に置く。

第二章 目的及び事業

第三条 本会は、会員相互の協力及び当人の努力により、断酒をまっとうし、より良 い、家庭環境と、よりよき社会人としての建設に励み広く社会福祉に奉仕 することを目的とする。
第四条 本会は、第三条の目的を達成するために、次の事業を行う。
1. 定期例会、役員会、総会を開催する。例会は、原則として家族同伴を建前とす る。
2. 諸集会、講演会、研修会及び記念大会の開催。
3. 各都道府県内断酒会及び友好団体との交流により、断酒の普及に努める。
4. 酒害相談。
5. 機関紙の発刊、その他の必要な事業。
 
第三章 構成及び運営

第五条 本会は、原則として、川西市周辺に居住する者をもって構成される。
第六条 本会は、アルコールを断とうとする者、及びその家族並びに本会の主旨に賛 同する者を会員とする。
第七条 本会は、役員会にはかり、顧問を置くことができる。
 本会は、役員会にはかり、会員から相談役を、選出して総会にて承認 す る。
 相談役は、役員会に出席して意見決議に参加出来る。

第四章 会議

第八条 会長は、定期的に役員会を召集し、役員会は、年度予算、事業計画等の 審議を行い、総会に於いて、上記案件を会員にはかり決議する。
 又、年度末には、経理決算、事業報告を文章にて提示する。

第五章 役員及び任務

第九条 本会は、次の役員にて構成される。
 会長1名、副会長3名、渉外部長1名、事務局2名、会計1名、会計監査1 名、支部長3名とする。
 但し、事務局は、会長又は副会長が兼任することができる。
1. 会長は、会を代表し、会の責務を総括する。
2. 副会長は、会長を補佐し、会長に支障ある時は、その職務を代行する。
3. 会計は、本会の経理を担当する。
4. 会計監査は、経理の監査を行う。
5. 支部長は、支部例会を円滑に行う。
第十条 役員の任期は、1年とし、年度末に改選し、留任及び兼任を妨げない。
第十一条 役員は、役員としての体面を汚し、又会の運営を妨げる行為あるときは、 役員会にはかり解任することがある。

第六章 部会

第十二条 本会は、第四条に掲げる事業を行う為、必要な部会を設置することがあ る。部会に必要な構成、規定、又は要綱は、役員会の議を経て会長が決 定する。

第七章 会年度及び会計

第十三条 本会の年度は、毎年3月1日より翌年2月末日迄とする。
第十四条 本会会員は、第十五条第一項に定められた会費を納入しなければなら ない。
第十五条 本会運営の必要経費は、会費、寄付金及びその他の収入を当てる。
1. 会費
会員は、 月額 1,000 円
 家族は、 月額 500 円とする。
 但し、必要な場合、総会にはかり臨時会費を徴収する事がある。
2. 寄付金は、会員及び、その家族または、一般からの篤志に仰ぐ。
3. 弔慰金は、次の如く会費より支出するものとする。
 会員本人死亡の時 10,000円
 会員同居家族死亡の時 5,000円
4. 各事業の経費は、会費より支出する。
5. 交際費等の支出は役員に一任する。

第八章 懲罰

第十六条 本会の会員は、次の事項に該当する場合、総会にはかり除名することが ある。
1. 会の目的に著しく相反する行為のあった場合。
2. 会の運営を故意に妨げる行為のあった場合。

第九章 家族会
4 家族会会長の承諾を得て、開催することができる。

付 則
1. この会則の各条項の改訂は、総会の決議を経なければならない。
2. この会則は、平成29年9月1日より施行する。


内 規
1. 定期例会
 毎週水曜日 18時50分~20時40分
 川西市総合センター
 川西市日高町1-2
 072-758-8398
2. 断酒表彰について
断酒 色紙 断酒継続 3ケ月 色紙贈呈
断酒継続 6ケ月 色紙贈呈
断酒継続 1年から10年までは、毎年贈呈 色紙+断酒表彰状
11年以降は、5年ごと   色紙+断酒表彰状
11年以降は、希望者には、毎年贈呈  色紙+断酒表彰状

以上
2014/03/12のBlog
[ 08:33 ] [ てんとう虫のおじさんのつぶやき ]
バランスの取れた生き方を
「百薬の長とはいえ、百(よろず)の病は、酒によりこそ起これ」徒然草の一節である。
吉田兼行は、今から660年程前、鎌倉時代末期に、アルコールの功罪を看破していた。ところが、先日の「ある断酒会の一日研修会」で、講演されたDrは、アンケート結果を示し、内科医の多くが、自分の患者にアルコール問題は無い…とする回答を寄せていると云う。
アル中への偏見と共に、医療界でも認識の後れがあるならば、早期発見・早期介入が困難となり、助かる生命も助からない。
そして、もう一人挨拶に立った、あるpswは、体験談を聞いて一番腹の立つ事…として「自分がしっかりして無いと、断酒出来ない」とする体験談だ…と言い切った。「アルコールに対して無力である」事から逸脱した、自慢気な体験発表になっていることを危惧されたのだろう。
本人の様々な苦しい挑戦を経て、ようようにして「安定」した断酒継続になると…「酒に対して、無力である」事から、自慢の断酒になり勝ちである。しかし真理から外れると後から来る人達への悪しき見本となる。
そして前述のpswは、私にとっては、とても気になる事も話された。
「断酒会から離れても、断酒を続けている人は、たくさんいる。離れると再飲酒する…などとの脅しは、もう止めましょうや!!
人間(ひと)として成長するには、どうしても断酒会が必要だ…と断酒会の積極面を押し出して行こうと云う主旨であった。
これが、正しいとすれば、私の持つ、ある種の後悔が解消される。かく云う私も、酒が止まると直ぐに断酒会を離れ、断酒20年にして、再入会をしたからである。
戻って6年近くになるが、例会は、本当に人間(ひと)を成長させるところだ…とつくづく実感している。
ただ、批判的に云うと、「聞かす体験談」や「自慢の体験談」が横行している所でもある。
私自身もっともっと、バランスの取れた人間にならねば…と改めて思いを強くしている。
〈てんとう蟲おじさん〉
下記クリックしていただくと、PDFにて閲覧と印刷できます
2013/11/25のBlog
[ 10:11 ] [ 断酒例会のあり方吹田市断酒会 ]
写真ーーー>角田久美子さんデザイン(酒害者の子供さん)

断酒例会のあり方


〈『指針と規範』、『松村語録』、「大阪府断酒会役員一日勉強会資料」を参考にして吹田市断酒会が作成したものです。
それを大阪府断酒会研修部が注釈、加筆しました。※部分〉

1.例会では 会員は断酒歴・断酒会歴に関係なく平等です。しかしながら、会員それぞれの生活や環境も違いますから、話される体験談は千差万別であり、すべての体験談が個々人の大切な人生の一こまであり、尊重されるべきものです。本音が語られていれば十分過ぎるほどに十分であり、こうでなければという体験談のおしつけやほかの人の体験談についての批判はやめましょう。
また、例会中は私語を慎み、ほかの人の体験談を熱心に聞きましょう。「熱心に聞く努力を止めるようになると、実際経験したことが無数にあるにもかかわらず、話せることが段々と少なくなり、自分を語るのにマンネリ化し、同じ話のくり返ししか出来なくなるのです。」(『松村語録○24』)

 ※体験談の押し付けや、新しい人に対しても一律に『例会では体験談に始ま っ て、体験談で終わる』と言うようなことは控えるべきだと思います。時期が来れば理解されます。特に病院から来られている人には配慮しましょう。
 ※例会中の私語は絶対してはいけない。語っているひとに迷惑です。
 ※例会中にお茶等を入れに回らないこと、例会が始まる前か間の休憩時間にするべきです。親切の安売りしないこと、例会の運営の支障になります。
 ※出されたお菓子・アメ等をパリパリ、ぽりぽり音を出して食べないこと参加されている方にとって、非常に耳ざわりです。

2、体験談について 体験談は「言いっぱなしの、聞きっぱなし」が基本です。
飲んでいたころの言動を包み隠さず口にすることで、自分の問題行動とこころ
の動きを確認することができ、それを聞いている人は、埋もれていた記憶を呼び覚まして自分の体験を思い出すことができたりします。
記憶の糸を手繰っていく作業はしゃべっていくうちに、当時のことを急に思い出したり、また、これ以上は恥ずかしいからしゃべりたくないと思っていた枠を話の延長で外して口にすることができるようになります。そのためには、体験談を途中でとめてしまうと折角の内容が引っ込んでしまうことがあります。
そのための「言いっぱなし」であり、例会場では何をしゃべってもいいという意味ではないのです。特に入会の新しい人は過去を振り返るきっかけになるためにということで、体験談が少々長くなっても途中でとめないで話してもらう様に配慮しましょう。
一方、体験談は深く、細かく掘り下げれば掘り下げる程、個人のプライバシ-にかかわる内容になってきます。本人は何よりも周りの人を信頼した上で、口にしたことが、例会が終わったあとその内容が外部へ漏れたらとんでもないことになります。体験談の内容は「聞きっぱなし」で、本人以外は絶対その内容を口にしないくらいの取り決めがあってもいいのではないかと思います。
例会終了後、本人に対して例会で語られた体験談の内容を話題にする人を見かけますが、体験談は人に聞かせるものですが、自分の過去を振り返るために語られるものであり、他の人がそれを聞いて自分の過去を思い出すためのきっかけになるもので、体験談を聞いてあの人はああいう人だと判断するためのものではないということです。
また、体験談の中で自分自身の体験を語らずに、ほかの会員のことを話題にするのはやめましょう。私たちは、個々の体験談をその人本人の口から直接聞くために、例会に出席しているのですから。

 ※『言いっ放しの聞きっ放し』の原則は守る。
 ※例会で話したことは絶対に外に漏らさないこと、特に家族の体験談は要注意。
 家族は体験談を話さなくなります


3.新入会の方に対して 心から温かく迎えましょう。新しい方が参加された時に話される体験談は最初のうちは少々わき道にそれることもありますが、勇気を奮い起こして話を続けるうちに次第に過去の掘り起こしができるようになってこられます。少々長くなっても出来るだけ辛抱強く聞いてあげるようにしましょう。
 新しい方の体験談に対するアドバイスは、体験談の中で直接取り上げて答えるのではなく、「そのアドバイスはやはり自分の体験発表の形でなされるべきだ」(『松村語録○52』)とされています。そして励ましのことばも、例会中ではなく、始まる前、休憩時間、終った後などにかけていくようにしましょう。

 
4.受付について 出席名簿は代筆を頼むことなく、必ず本人が記帳しましょう。時間の途中での退席などの事情がある人は、前もって司会者に伝えましよう。
病院等からの紹介状があるときは、支部長に渡すようにして下さい。

※出席証明を渡す時の注意点:必ず両手で手渡ししましょう、投げるように渡されると不愉快になります。


5.司会をする時に 例会の開始時聞と終わりの時間(例えぱ7時~9時)を厳守しましょう。「酒のために生活の折り目切り目を失っていた私達が、断酒して社会に適応するために一番手近にあってやれることが、この時間励行でもあるのです。」(『松村語録○28』)また、参加者にとって、たとえその例会の内容が素晴らしいものでも、時間オーバーになると帰りの交通機関が気になり、イライラして全てが台無しになってしまいます。
司会者が体験談に注釈をつけたり、アドバイスをしたりすると、ほかの人の体験談に触発されて湧いてくる「自分も本音を語ってみよう。」という気持ちにまで影響を与えてしまうことがあります。参加者同士の体験談が交換される中で次第に生まれて来る断酒への決意という例会の雰囲気を壊し、逆に参加者の反感をかって例会への不参加につながってしまいます。体験談の受け止め方、感じ方は人ごとに違うことを十分に認識して、司会者は例会の進行のみに徹してください。
また、新しい方に対して、体験談のたびに励ましのことばをかけるのはやめましょう。断酒の道を歩み出したばかりの新しい方は、往々にして「自分は生徒で周りは先生」だと錯覚されてしまう場合もあるようです。
断酒会は上下関係のない仲間関係という組織であり、例会において交換されるお互いの体験談を通じて会員同士が教えかつ教えられるという自助グループです。新しい方の体験談から断酒歴、断酒会歴の長い人も十分に学ばせてもらい、自分の断酒の糧にさせてもらう訳ですから、その体験談に対して一方的に「頑張って下さい。」という発言はおかしいということになります。
※司会者が体験談を語るときは、参加者が全員体験談を語り終わって時間が余ったときです。司会は進行のみに徹す。


6.支部長の役目
※例会の最後に支部長が挨拶する訳ですが、せめて直近の行事報告をする事は大事なことだと思います。


7.家族について 家族の誓いにもあるように「アルコール依存症は家族ぐるみの
 病気です。病気だから治さなければなりません。」断酒会では、家族も酒害から共に回復していくために例会に出席して、それぞれの体験談を語ります。自分の家族ではなく、ほかの会員の家族の体験談を聞いて、過去の記憶を取り戻すことがよくあります。
 給茶等は家族の役割だとまかせることなく、貴重な体験談を語ってくれる仲間として、家族も会員と同じ立場で例会に参加していることを認識しましょう。
 本人が入会する前に家族だけで参加されている方もおられます。本人は飲酒がまだ続いており、飲んでいるときの気持ちを何とか理解したいという思いでおられます。私たちには、例会において近況報告や決意表明でなく、ひたすら酒害体験を語っていくことが求められます。

 ※給茶等は家族の役割ではありません、例会に参加する事が大切です。家族も給茶等をしていればいいとは思わないで下さい。


8.その他 会員間での金銭の貸し借りはやめましょう。特に、先輩が立場を利用したような貸借関係は絶対にやめてください。新しい方にとっては断りきれません。貸しても借りても問題が起きた時に気まずくなり、やがて会を離れる原因に繋がります。仕事の世話もしないほうがいいようです。仕事での関係が出来ますとそれが上下関係につながります。
個人や会の批判はやめましょう。新しい方が例会出席を重ねて断酒会の印象を自分自身で感じ取り、自分なりの断酒会との関わり方を築き上げていく前に、先輩会員が自分の意見をおしつけると偏った先入観を与えてしまうことにもなりますし、断酒会についての誤った理解の原因にもなりかねません。
会員には、色々なタイプの人がいますが、断酒に対する前向きな姿勢さえあれば、断酒会はどんな性格のひとでも受け入れる大きい包容力を持っており、個人差を理由に批判されることはないと確信して下さい。
「例会で学んだことをただひたすらにこつこつと積み重ねることによって、まず自分自身の改善に全力を集中する人。自分自身の改善は行動の中から自然にできると考えて、例会だけでなく酒害相談、教宣活動と最初から幅広く動く人。例会は安らぎを与えてくれる場所と考えて、ゆったりとした表情で座っている人。例会は厳しさを教えてくれる場所と考えて、いつも緊張した表情でいる人。暗い過去を主にして体験発表をする人。明るい現在の生活を主にして体験発表する人。
断酒に真剣に取り組む姿勢は同じでも、性格の違いから来る断酒方法論はさまざまです。そうした時、どちらの考え方が良いか悪いかを、断酒会は論じるような愚かなことはしないのです。基本的な断酒会の持つ理念さえ理解されていれば、方法論はその人その人の体験の中で少しずつ変わったり、または変わることなくしっかりと自分の心の中に定着するのです。日常の実践活動が真剣になされていればとやかく批判されることはないのです。」(『松村語録○37』)

※会員同士での金銭の貸借はしない。
※会の批判や個人の批判はしない、会のことは例会の中で言うべきでは有りません、別の場所で役員と話すこと。個人の批判は絶対しない事。


9.最後に例会の検討 新人の定着が悪かったり会員の離脱について、来なくなった人にだけ原因があるのではなく、会の運営や例会にも問題があることも考えられます。定期的に役員会などで会や例会の中身の検討をしていきますので、疑問に思うこと、気付いたことがあれば、遠慮なく役員まで伝えるようにしてください。
 
 ※例会の中で気まずい思いをすると、次から来なくなります。
 ※会を離れる最大の原因は会員同士と会員と家族の人間関係の不和からです。
以 上
松村語録
1. 例会には必ず出席しよう。
2. 一人で止めることはできない、無駄な抵抗は止めよう。
3. 断酒に卒業なし。
4. 今日一日だけ止めよう。そして、その一日一日を積み重ねよう。
5. 前向きの断酒をしよう。
6. 例会には夫婦共に出席しよう。
7. 例会の二時間は断酒の話のみ真剣に。
8. 自分の断酒の道を見出だそう。
9. 断酒優先をいつも考えよう。
10. アル中は心身の病気である。
11. 例会で宗教や政治の宣伝をしてはいけない。
12. 酒害者の最大の敵は自分自身であり酒ではない。
13. 自信過剰は失敗のもと。
14. 失敗したらすぐ例会へ。
15. アル中は一家の病気である。
16. 断酒会は、酒害者の酒害者による酒害者のための会である。
17. 酒害者は酒のため墓場へ行くか、断酒会で酒を断つか二つの道しかない。
18. 会員は断酒歴に関係なく平等である。
19. 自覚なき酒呑みの多い中で入会された勇気に敬意を表する。
20. 断酒会員には普通の人より何か優れたところがある。
21. 節酒は出来ないが断酒は出来る。
22. 飲酒に近づく予防のため自己の酒害を常に認識しよう。
23. 酒害者に対する奉仕は自分の断酒の糧である。
24. 仲間の体験をよく聞き、自分の断酒を再確認しよう。
25. 家族、同僚の協力を得るために、絶対飲んではいけない。
26. 断酒会に入会すること。
27. 最初の一杯に口をつけないこと。
28. 時間励行。
29. 仲間に励ましの手紙を書こう。
30. 全国組織の拡大につとめよう。
31. 厳しさのないところに断酒なし。
32. 実践第一。
33. 他力による断酒ではなく、自力、自覚の上に立つ断酒であること。
34. 失敗しても悲観するな、成功への糧とせよ。
35. 消極的だが初心者は酒席に出ないこと。
36. 姓名を堂々と名乗り、断酒会員であることを明確にせよ。
37. 各人の性格の相違を認め、各人が自らの体験を通じて体得せよ。
38. お互いが欠点や失敗を話し合って、裸の触れ合いが出来るように努めること。
39. 酒の奴隷になるな。
40. 断酒会員であることを誇りに思え。
41. どんなことがあっても会から離れるな。
42. 条件をつけて断酒をするな。
43. 酒害者の最後の一人までも残すな。
44. 素直な心で話を聞こう。
45. 一年半したら会の運営に参加しよう。
46. 私の屍を乗り越えて断酒会を益々発展させて下さい。
47. 一県、一断酒会。
48. 会員は人に疑われるような場所に行くな。
49. 初志貫徹。
50. 君と僕は同じ体質だ。断酒するより他に生きる道はない。
51. 語るは最高の治療。
52. 例会は体験発表に始まり体験発表に終わる。
53. 聞くは最高の治療。


2013/11/20のBlog
写真ーーー>角田久美子さんデザイン(酒害者の子供さん)

断酒一年を振り返り
和歌山市断酒会友綱 橋口孝一

昨年のちょうど今頃、兵庫県川西断酒会の皆様のご好意により体験談の投稿という機会を与えていただけました。
本当にありがとうございました。
一年後、またこのような機会をいただきましてありがたく思います。

断酒会に入会して一年が経ち、県外研修なども一巡して昨年行かせて頂いた地を訪れると一年間の自分自身の変化を感じることができ、嬉しく思うことが数多くあります。
断酒会に入会させていただいて良かったと幸せに感じる一瞬です。
 
家族への償い。

家内や娘のことを考えた時、同時に父の酒に想いが向っていきます。
殴られた母の腫れあがった顔が思い浮かび、今も冷静な気持ちを保つことの困難さを感じます。
 
私が中学二年生のとき、父に愛人ができました。
毎夜愛人が家にやってきて、母の手料理が振舞われる。
父と愛人の宴に母が酌をする。
ひとしきり食べて飲んだ後、二人はご機嫌になり何処へともなく消えていく。
毎晩繰り返されたそうです。

私は塾通いで知らなかったのですが、ある日妹から聞きました。
 許せないと思い父に抗議をしました。
当時私の家には木刀がありました。
酔っている父は木刀で私に殴りかかりました。
寸前、母が私の盾になってくれたのですが、木刀は母の頭に当たり血飛沫が上がりました。
母は「きゅーん」という声を発し倒れました。
今もその「きゅーん」という動物が絞められたような声が耳にこびりついて離れません。
 私はすぐに救急車を呼んで欲しい、母が死んでしまうと父に頼んだのですが、呼んでくれませんでした。
「格好が悪い、呼べるか」父はそう言って自分で飲酒運転をして母を病院に連れて行きました。
病院では階段から落ちたと言ったそうですが、そんなはずはない、とお医者さんに叱られたそうです。
 
物心ついた頃から父は怖い存在でした。
同時に母や祖父母、叔父や叔母には「お父さんは偉い人、立派な人」そう言われ続けてきましたが、私には理解することができませんでした。

父には私の気持ちがある程度は分かっていたのだとは思います。
父なりに努力はしてくれていましたが、私は怖くて、苦しくて逃げていましたから、父は余計に焦っていたのではないかと思います。
父がもし本当に愛情のない人だったら私はもっと楽だったのかもしれませんが、飲んでいないときに見せる父の愛情には応えたいという気持ちがありました。

中二当時のこの一件があってから私は迷いなく父を憎むようになりました。
「殺してやる」何度も思いました。
父に「誰のおかげで飯が食えるとおもってるんや」とよく言われましたが、本当に悔しくてたまりませんでした。
ですから私は酒が嫌いで、酒飲みが嫌いで、家族すら幸せにできない男は屑だと思っていました。

自分が酒を飲むなど、ましてやアル中になるなど思いもしていなかったのです。
19歳になり進路のことで父と喧嘩になり、家出をしました。
叔母に援助してもらって六畳一間のアパートを借りました。
アルバイトを終え、アパートに帰ってから飲むようになりました。

二ヶ月ほどたったころ風邪を引いて寝込んだのですが、熱が下がっても部屋から出られなくなりました。
朝も昼も夜もなく飲み続ける日が始まりました。
当然アルバイトも行けなくなり、最初は心配して来てくれていた友人たちにも愛想をつかされ、結局5ヶ月足らずで実家に戻りました。

実家に戻っても荒れ狂った生活は直らずに、部屋から出ず、朝も昼も夜もない生活は2年近く続きました。
青春期の貴重な時間を飲んだくれて棒に振ってしまいました。
やがて就職もでき、結婚し、娘も一人授かりました。
アルコールに関してはかろうじて社会生活は営めるけれども、相変わらずひどい状態でした。

家族だけは泣かせていない。
当時はそう思っていました。
いや、今思えば思い込みたかっただけでした。

娘が思春期になり口を利いてくれなくなりました。
最初は年頃の女の子だからと軽く考えていました。
やがて家内を通して聞く娘の言葉に驚きました。
「パパは自分のことしか考えていない。
自分勝手」「パパは家族の気持ちを少しも分かろうとしない」「私はパパに何一つしてもらったことがない」「お祖父ちゃんを見習って」。

かつて私が父に対して抱いていた思いと一緒。
それどころか「お祖父ちゃんを見習って」とは。
確かに私が家出をし、2年間荒れ狂ってから父は少しずつ変わっていきました。
ですから私が昔の父の話をしても、家内も娘も信じてくれませんでした。

その言葉で気づけばよかったのですが、アルコールに狂っている私は耳を傾けませんでした。
「子供には親の気持ちは分からない」自分に言い訳をしていたのです。
昨年三月私は酒が原因で会社を首になりました。三度目です。

朝から飲んだくれていました。
娘と些細なことで喧嘩になり、馬乗りになり首を絞め、殺しかけました。
ぐったりしている娘をほったらかし飲み続けました。
気がつくと病院で手術を受けていました。
川へ飛び込んだそうです。

怪我の治療のため1ヶ月入院しましたがその間に娘は家を出ました。
ついに私は全てにおいて父以上のアル中になり、最低の父親になってしまいました。
4月になり今度は新阿武山病院に入院しました。
入院中断酒会に導いていただき、高槻を始め病院から通えるたくさんの断酒会にお世話になりました。

8月になり退院し、和歌山市の断酒会に入会させていただけるようになりました。
例会や研修会でたくさんの体験談を聞かせていただき、自分は一体何をしてきたのか考える機会を与えていただきました。
また愚痴なのか、言い訳なのか分からない、そのときどきの自分の気持ちも体験談として聞いていただけました。
何処へ行っても、どなたも黙って拙い私の話を聞いてくださりました。本当にありがたく思います。

家族に償いたい。
そう思っても実際には難しいことです。
かろうじて離婚を踏みとどまってくれた家内に申し訳ないと思っても、今までの苦しみを少しでも取り除きたいと思っても、自分の考えの甘さを実感されるばかりです。

娘に償いたいと思っても、家を出て、連絡先も教えてもらえません。
当たり前です。
せめてもと思ってACのことを調べたりお話を聞かせていただくと娘への償いのつもりがいつも自分の子供のころの記憶に戻ってしまいます。

自分はどうしてアルコール依存症になったのだろうか? 
体質なのだろうか? 
生まれつきの性格なのだろうか? 
思いましたが、生まれつきにしてしまっては母に申し訳なく思います。
父がアルコールに問題があったからだろうか? 
父のせいにしてはいけません。

現に同じ親に生まれ、育った妹は酒を飲みません。
今考えているのは自分が狂っていたのは、父を殺したいほど強く憎んだからだ。
父の酒を憎んだからだ。
憎しみの気持ちが自分を父以上のアル中に、最低の父親にしてしまったのだと考えています。

「人を呪わば穴二つ」とは陰陽師から来ている言葉だそうですが、単なる戒めの諺ではないと思います。
心の法則だと思います。
目には見えない法則だと思うのです。
多くの方の体験談からそう思うようになりました。

そして解決の方法は、体験談を聞いていただき、自分を振り返る。
何度も何度も繰り返すと、自然と和解したい気持ちが生まれてくる。
思ったら実際に行動に移すことだと考えています。

娘や家内に償いをするときに、同時に父とも心の底から和解することが必要だと思っています。
家内や娘だけだと本当の意味での償いができないように思うのです。
父と和解し、心の底にある憎しみという毒を消さないと自分を許せませんし、家内や娘に対しても浅い償いしかできないのではないかと思います。

今父はすっかり弱くなり、認知症が進行しています。
現在の父を見ても、もう憎いという感情はおきません
。しかし、体験談を語るとき、記憶の中の父は今でも怖く、憎いのです。

「お父さん、あなたのおかげで生まれることができて良かったです。
育ててもらえて良かったです。
本当にありがとう」、記憶の中の、あの憎かった父に心の底から感謝できる日が来ることを信じて、きっとその日が来ると信じて、多くの方の体験談から学ばせていただきたいと思います。
 
断酒会に出会えてよかった。
一年前も思いましたがもっと深まりました。多くの皆様に感謝をしています。
2013/11/17のBlog
滋賀県断酒同友会 大津支部30周年 瀬田支部4周年 記念誌 寄稿
「命の絆」 京都府断酒平安会 東江 清一
写真ーー>京花シダレヤナギ

滋賀県断酒同友会大津支部が三十周年を迎える。村田支部長はじめ支部員の皆様誠におめでとうございます。
私も断酒会を知って三十数年になります。
今私が常に心がけている事がある。
一日を笑顔で過ごす事、大切な事だと思っています。

愛宕登山の時先輩のSさんからなりげない言葉「これからはその笑顔でいこうや、貴男は笑顔が良い」と。それまでの私は断酒会の内であまり笑う事が無かったかもしれない。今思えば宝物を頂いた気持だ。
私は近江の郷大津に昭和十七年夏に生まれる。
その時分親父が蒲鉾職人として日々精いっぱい家族を守っていました。
その親父も仲々の酒飲みでした。

終戦のあおりで親父は慣れない土木業についた、長男の私を一人前の蒲鉾職人にすることが親父の夢だったと聞かされていました、その土木業の仕事で事故に遭い片足を切断する、其の後の親父は裏社会の人達都の付合いが多くなり、そのためか生活苦から一家心中するところまでおいつめられる。

見るに見かねた蒲鉾屋の親方の長男が、当時七才でガキ大将であった私を使ってくれる事になる、義務教育を受けないで世間の荒波の内に入っていった、その時分コロッケ一個三円、蒸しパン一個三円、その蒸しパンを持ち帰り家族の糧として生活をしていました。
昭和二十三年の頃である、母親が弟を身籠っていました。

今思えば学校に行かず仕事に着いた私は両親のためになった男でした。
その私を見込んだ蒲鉾屋の親方が私を奉公人としてつかってくれる事になる、もちろん学校も認めてくれました、それから私が善悪の道をさよう男になり酒も覚えバクチの使い走りをする様になる、しかし仕事だけは、一生懸命覚えた。
十七才の時親方の反対を押切って女中してた女性と結婚する、そのため蒲鉾屋を離れる事になる、昭和三十六年の事でした、昭和三十六年の事でした。

昭和三十八年九月長男出生する、一年七ヶ月トラックの運転をしながら家族を守る、その時分は何かにつけて酒を良く飲んだ、その頃の酒の飲方はましな方だった、突然私の視力が悪くなり運転手の仕事が出来なくなる、再度私は頭を下げて蒲鉾屋に戻れることになる、

その時分日本は東京オリンピックで盛り上がっていた、私が近畿代表でパラリンピックでメダルをもらうことが出来た、各方面の著名人から盛大な歓迎を受ける、その時親方が名誉な事だと私に工場長のポストを用意してくれる、

それ以後の私は有頂天のなり我を忘れ酒に溺れてゆく事になる、昭和四十ニ年長女出産、二十五才にして山科に大きな家も新築出来た、益々有頂天になり我の強い男になっていく、仕事に行き帰りに深酒する、段々と切れなくなる、妻が夜の商売に着く、酒でボケた頭で思う事は妻に対しての嫉妬妄想でした、

その後三重県に単身で責任者として仕事に行く、その仕事も酒を飲みに行った様なものだった、その時、三重の断酒会の例会をすすめられるが私自身その気にならない、三重から帰ると家族が宇治黄檗病院を用意しててくれました、

副院長の広兼明先生に主治医になってもらうが酒は止められない、受診をぬけ出して病院の側の万福寺で酒を飲んだこともある、今度は岩倉病院で杉浦先生に主治医になってもらうが酒の方は中々止められない、黄檗と岩倉の入退院のくり返しの度に、私の家族が姿をかくす様にになる、酒でボケた頭でしたので離婚されたと勘ちがいをしてたのか連続飲酒の状態で家族をうらむ事しかなかった、

私から家族が離れた後、色々な仕事に着く、時には裏組織の仕事をした事もある、酒を止める気があるはずもない。

昭和五十二年に平安会に入会はしたものの例会の帰りに飲んだ事もある。
大津支部が膳所本町に看板が出てました昭和五十五年六月の事です、支部長は川北氏でした、彼の自宅で例会が開けれていあました、そして幼稚園を借りて開かれたことを知っていましたが、

私自身は酒は止められない、大津支部が膳所本町の今の例会場の二階の畳の部屋で例会が開かれてた時、私は院内生として出席をしていました、私にとって思い出深い例会場である、十四回の入退院のくり返しの中で、岩倉病院に入院中の時幻覚のひどさから右手が半身不随になる、それ以後杉浦先生を勘ちがいから飲み続ける中でうらむ様になった事もある、

ある日酒が切れて飲みたくてしかたがない時に、母親に浜大津の駅から電話をする、母親が涙を浮かべながらワンカップを持って来た、母親は着物を質に入れて酒を買ってきたとのだと言う、どうしょうも無い男になつてしまった、それから大津の実家に帰る、たまりかねた母親甲西町の母親の里の山の中で私と死んでくれと言った、

その一言で止める決意をした、

十五回目の入院を大阪淀の水病院一週間、その一週間は私のラストチャンスでした、病院のスタッフの方々の協力でさらに決意をかためる、退院後例会出席を続ける、

父親が自転車で豆腐を売りながらこの私に断酒会に通えともうけの少ない中で交通費を出してくれる。涙が出るほど嬉しかった、それからしばらくして仕事に着く、例会出席のおかげで酒は止まってましたが、

一人の同期のKさんに私の仕事先ででだまされてジュースの中にアルコールが混入されているとも知らないで飲んだため連続飲酒になる、この時ほど人間不信になったことはない。

昭和六十二年末に岩倉病院退院後知り合い再婚した今の妻と無所属で例会出席を続ける。
平安会に度々再飲酒のためか入会認めてもらえない、それでもガマンしながら例会出席で自分のブザマな体験談を語り続けた、その後約一年で入会を認めて頂いた、そして今があります。

大津の小学校の同窓会に何年か前に出席をした時笑顔で迎えてくれた男二人、一人は私が酒でどうにもならない時に私の前で君に売る酒は無いと酒を全部捨てた方、もう一人は同じガキ大将であった今は議員になっておられる方、この方は私の断酒を喜んで滋賀全国大会虹の会や大津支部記念例会に出席して頂いて励ましの言葉を頂いた。大津支部長村田氏とはOB会のおたぎ会等で共に頑張っています

、彼にも娘さんが居ります、彼の娘さんと山科駅で会った時、娘さんに今度村田君が飲んだらきびしい対応する様に言ったことがある。何回もの精神病院の入退院のく返しで身も心もボロボロになった。

できるならこれから酒を止める方々に私の様になってほしくない。
私の娘がやっと結婚を決意してくれました、これほどの喜びの感動はない。
ガンとアルコール依存症の闘いの中で私を支えてくれた妻に感謝する、二人で海外の断酒会や日本全国断酒会等に歩き続けたかいあって今酒止め続けて生きている、命の尊さを知り、命を大切にしながら妻と二人三脚で断酒会の中で仲間と共に命の絆をつくってゆきたい。

下記クリックしてください、PFDにて閲覧プリント出来ます。




2013/11/04のBlog
写真ーーー>奈良県県花奈良八重桜

『お酒の問題でお悩みの方へ』奈良県断酒連合会が、PDF
にて掲載了解いただきましたので、閲覧下さい

その1からその7まで、B5 20ページです

下記クリックしてください その1PDFコピー閲覧できます
2013/10/28のBlog
[ 10:49 ] [ 自己診断アルコール依存症を知る ]
写真ーーーWHO本部
AUDIT(おーでぃっと)
AUDITは1990年代初めに、世界保健機関(WHO)がスポンサーになり作成されたスクリーニングテストです。
 WHOはアルコール関連問題の低減を主導しており、その重要な手法の一つが簡易介入です。
このテストは、簡易介入の対象者をスクリーニングする目的で作成されました。
その対象者とは、アルコール依存症までには至っていない危険な飲酒や有害な使用レベルにある人です。
 テストは自記式で、10項目からなり、各項目の回答にしたがって0点から4点の点数が付与されています。
すなわち、テスト全体では最低が0点、最高が 40点です。
このテストの特徴の一つは、世界共通なカットオフ値を設定していないことです。
このテストが使用される場所の飲酒文化に従い、カットオフ値を自由に変えることができます。
危険な飲酒のカットオフ値は世界的には8点です。
また、アルコール依存症の場合には13点にしているところが多いようです。
わが国では15点あたりが妥当だと考えられています。
 AUDITは多くの国で使用されていますが、地域、年齢、性の違いを超えて高い妥当性が報告されています。
AUDITは邦訳されていますので、下記日本語版です。


・テストは、自記式で、10項目からなり、各項目の回答に従って0点~4点の点線が付与される(選択肢の前の数字が点数を意味する)。

・AUDITのカットオフ値は、20点以上がアルコール依存症レベルの「問題飲酒」、10点以上20点未満が健康被害のある『危険な飲酒』。

・AUDIT-C、AUDITの最初の3項目、1..2.3.の合計得点で判定する。カットオフ値は男性が5点以上女性が3点以上で『危険な飲酒』。


1.あなたはアルコール含有飲料をどのくらい頻度で飲みますか?

0 飲まない 1 1ヶ月に1度以下 2 1ヶ月に2~4度 3 1週に2~3度 4 1週に4度以上


2.飲酒するときには通常どのくらい量を飲みますか?
ただし、日本酒1合=2ドリンク、ビール大瓶1本=2.5ドリンク、ウイスキー水割りダブル1杯=2ドリンク、焼酎お湯割り1杯=1ドリンク
ワイングラス1杯=1.5ドリンク位、梅酒小コップ1杯=1ドリンク=純アルコール9~12g

0 1~2ドリンク 1 3~4ドリンク 2 5~6ドリンク 3 7~9ドリンク 4 10ドリンク以上


3.1度に6ドリンク以上飲酒することがどのくらいの頻度でありますか?

0 ない 1 1ヶ月に1度未満 2 1ヶ月に1度 3 1週に1度 4 毎日あるいはほとんど毎日


4.過去1年間に、飲み始めると止められなかったことが、どの位の頻度でありましたか?

0 ない 1 1ヶ月に1度未満 2 1ヶ月に1度 3 1週に1度 4 毎日あるいはほとんど毎日


5.過去1年間に、普通だと行えることを飲酒していたためにできなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか?

0 ない 1 1ヶ月に1度未満 2 1ヶ月に1度 3 1週に1度 4 毎日あるいはほとんど毎日


6.過去1年間に、深酒の後体調整えるために、朝迎え酒をせねばならなったことが、
 どのくらいの頻度でありましたか?

0 ない 1 1ヶ月に1度未満 2 1ヶ月に1度 3 1週に1度 4 毎日あるいはほとんど毎日


7.過去1年間に、飲酒後罪悪感や自責の念にかられたことが、どのくらいの頻度でありましたか?

0 ない 1 1ヶ月に1度未満 2 1ヶ月に1度 3 1週に1度 4 毎日あるいはほとんど毎日



8.過去1年間に、飲酒のため前夜の出来事を思い出せなかったことが、どのくらいの頻度でありましたか?

0 ない 1 1ヶ月に1度未満 2 1ヶ月に1度 3 1週に1度 4 毎日あるいはほとんど毎日


9.あなたの飲酒のために、あなた自身か他の誰かがけがをしたことがありますか?

0 ない 2 あるが過去1年にはなし 4 過去1年間にあり


10.肉親や親戚、友人、医師あるいは他の健康管理にたずさわる人が、あなたの飲酒について心配したり、
 飲酒量を減らすように勧めたりしたことがありますか?

0 ない 2 あるが過去1年にはなし 4 過去1年間にあり


2013/07/13のBlog
写真ーーーー福知山市花キキョウ
「平安の祈り 」京都府断酒平安会蘆田 幸治
神様私にお与えください
自分に変えられないものを受け入れる落着きを
変えられるものは変えていく勇気を
そして二つのものを見分ける賢さを
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
皆様こんにちは。
昨日お休みだったので、同郷の同級生仲間が体を壊し入院したので、ドライブがてら、お見舞いにふるさと福知山に行きました。
仲間も、思っていたよりも元気そうで一安心。いろいろゆっくり積もる話もできて、いい時間を過ごせたよ。
福知山に帰ってきても、実家には帰れないよなぁーーー・・・・・・・
っとか、話しているうち、両親はまだまだ元気だろーけど、大好きな婆ちゃんは・・・・・
すごく会いたくなってしまった。
今確かに突っ走るテンションであるのは、注意しているんだけど・・・
勇気振り絞って、逢いにいった。

泣きそうになった・・・・
でも、先に婆ちゃんが号泣した・・・・
死ぬまで会えないっと、思っていた・・・・・っと。
元気そうで、ホッとした。うれしかった・・・
心配かけてごめんね、今ちゃんと自力で生活出来とるから・・・・
っとしかいえんかった。
来てよかった・・・・ここまでは・・・・・・・・・・・・・・・・・・
婆ちゃんから思わぬ一言・・・・
「お父さんに出会ったかぁ???」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
母型の祖母です、親父の話題がなぜ、すっとでたのか???
なんでかな???

叔父さんから事実を知らされた。
親父が三度目の脳梗塞で倒れ、入院していると・・・・・
さっきまで仲間の見舞いにいっていた病院の下の階に…
虫の知らせだったのだろうか・・・・
ガンで手術をしたという話は仲間のおかん様伝えではきいていたんだけど・・・
そのあとは何も伝わってこなかったので、元気なものと思っていた・・・
先週の日曜日にもおかんが岩倉病院家族会にきているっという情報がはいっていたし・・・
叔父さんも絶対出会えと・・・・
そんなこというても、親父が会うけないやんっという私に・・・・・
そんな状態ではない、心の準備をしてから出会えっと・・・
心の準備もできないまま、約五年ぶりに両親に出会うことに急遽なった。
車いすに乗っている父・・・あの怖く威厳のある父はそこにはいなかった・・・
そこにいたのは・・・言い方悪いが、痴呆の老人・・・
私を見て怒るどころか、笑ってた・・・・
叔父さんが「これだれかわかるかぁー???」
っとの問いに・・・
笑いながら「幸治」・・・・・・それは、忘れていないらしい・・・
でも、私がしてきたことは・・・・・忘れた???
ショックでかすぎるよ・・・・・言葉が出ん・・・・・・・口から生まれた私が、言葉につまったよ・・・
もう元の状態に戻ることはないらしい・・・・・・・・・・・・
その後、おかんと語った・・・・
おかんっという生き物は強いなぁ・・・・・・・・
そして、改めて子供の事よーわかっとるわ・・・
「あんた、お父さんの状態見て世話するために、実家に帰ってこようと考えはじめとるやろ・・・・・」
図星やった・・・・・・・・
私は、この状態の父をおかん一人に世話させるのは・・・・・っと、おもった。
普通の家庭なら、普通の流れなのだろう・・・・・
「戻ってきてくれるか???」っと、おかんの口から出るのが普通なのかもしれない・・・・・・・・
ここから先私は、自分が情けなくなった・・・・・・自分のしてきたことの大きさを痛感した・・・・・・・・・・・・
おかんの口から出た言葉は・・・・・・
「お父さんは施設に入れる・・・福知山にあなたの帰るところはありません・・・・・あなたが帰ってきたら、お父さんの心配だけやなしに、あなたの心配までお母さんはせんなん・・・・かえってくることなど、考えないで・・・・・っと」
今頑張って酒やめて社会復帰して自分なりにやってきたつもりだったけど、両親にとっては、まだまだ・・・・・
やりきれない気持ちで一杯になったよ、ほんま情けなくて・・・・
でも、ほんの少しだけ・・・
「何か助けがいるときは連絡するから、すぐに対処できる状態をキープしていなさい・・・・・・」っとだけ、付け加わったよ。ほんの少しだけでも頑張りを評価してくれたかな???
久しぶりにおかんと語るも何もかわってない、すべての言動が過去の記憶をよみがえらせ不安にさせてしまって・・・・・
目の前でコーラを飲むだけで・・・ビールを煽る姿が・・・・
それだけのことをしてきたっと、改めて自覚した・・・・・
30分たっただろうか・・・
早々に別れ京都に戻るも・・・・涙が出てしかたない・・・
情けない自分、何もできん自分が・・・ほんまやりきれなくて・・・
少し遅れたけど、このまま一人でいるのも辛く例会に行って気持ち吐き出させてもらった。
昨夜は初めて体験談語りながら泣きそうになってしまった・・・
現実を受け入れる・・・・・むずかしいが、私にできることは、これ以上の心配をかけないこと・・・・・
日々精進。
いつ、連絡あっても、対処でける状態をキープするしかない。
がんばろう。
でも、再会したら、また甘えが出るかとしんぱいしていたが、その心配はなかった。
強く育ててもらったなぁー、改めて壬生の親父らに感謝です。
今日一日穏やかに ・ 第一の事は第一に
下記PDFにて閲覧プリント出来ます

2013/06/29のBlog
[ 07:32 ] [ てんとう虫のおじさんのつぶやき ]
スポンサーシップとフェローシップ

随分前からの疑問が氷解した。「言い放し、聞き放し」の事である。
ある断酒会の重鎮は『無責任である。自分の発した言葉に責任を持たないといけない!!』…と思いもかけない意見を述べた方が居られた。
もちろん、皆さんはお分かりであろう…と思うが、安心・安全の例会を保障する為に「体験談の外への持ち出しを禁止」し「体験談そのものへの批判を禁じたもの」と思われる。
このことは、指針と規範に記述が無く、松村語録にも見当たらない。
西川京子先生が、どうもAAから来たもの…ではないか!?
昔、Drたちが盛んにこの言葉を広げた経緯がある…と話されていた。
私が断酒会に入会した頃、体験談にイチイチ、コメントする長老がいて、実に不愉快だった事を思い出す。初心者に取って、仮に誤った考えであっても、聞いてくれる人々がいて、ときには「なるほど」と共感を表してくれる事ほど心強いことは無い。ようやく居場所を得た思いだ。
そうそう、何が氷解したのか…と言うと、スポンサー・シップとフェロー・シップの事である。「言い放し、聞き放し」であれば、断酒の要(かなめ)を、初心者にどう伝えて行くのか?これがとても気になっていた。
3年ほど前、退院間近の朋友から「入会したらスポンサーになって貰えませんか!?」と依頼された。(???…なんなん?カネがいる話しかいな)と、よく解らず《笑》。よくよく聴くと断酒で分からない事を聞く相談相手に!とわかり了解した。
蛇足だが、その時2つのお願いをした。①人間関係は長く続ける事が目的ではない。無理して人に合わせない事。自分の考えを持つ事。お互い、無理なら、いつでも関係は解消しましょう②喫茶店の費用などは、私が随分歳上と言う事もあり、私が持つが、その事で、あなたを支配するつもりは、全く無い。「ありがとー」で十分。
ただ、世間では、お金は、パワーゲームの最たるもの……と心得た方が良いでしょうと。
「スポンサーを探せ」は、何でも入院先の看護長からのアドバイスだったそうだ。
今も、その関係は続いており、若い者(ひと)の、感性・感覚・価値観に驚くと共に、自分自身の成長に極めて役立っている。
もう、ひとつのフェローシップについての、私なりの日本語訳は「仲間からの分かち合い」だ…と思う。
具体的には、例会後に、マクドで、お茶する事が多い。そこでの、意見交換の事である。
様々な話が出る。将来への漠然とした不安。腹立たしい事、就職や家族の事、恋愛、家事、生活保護上の扱い…と多岐にわたる。
此処で私が気をつけている事は、①朋友の噂や悪口で、盛上がるような集まりにならないように②参加者や不満が固定化して、断酒会の分派にならぬように③自分の意見を押し付けず、お互いの断酒の仕方や考え方を尊重すること④指示や指導する事無く、あくまで「平等」を貫くこと⑤そして自分自身の訓練の為に、アサ-ティブな会話を心がける事などである。
なかなか、旨く行かず、日々反省ではあるが〈苦笑〉
てんとう蟲おじさん
下記クリックしてくださいPDFにて、閲覧プリントできます。
2013/06/10のBlog
[ 11:55 ] [ てんとう虫のおじさんのつぶやき ]
「妻より先に死にたい」(=妻への依存性!?)「断酒を続けて長生きしたい」(=断酒歴の自慢!?)……とのフレーズを聞く事が多い。
中には「長いこと止めさせて貰っている」と謙譲語風ではあるが断酒歴の長さを誇らしげに語られる。
今は、地域の役員もされていて、宴会へもドンドン平気で出席出来るし…といわゆる「自慢の断酒」である。悲惨だったはずの酒害体験が話られない。
そこは、朋友たちも、よく分かっているのか?……多くの方がその間、トイレタイムに充てられ、退席者が多い。
残念だが、この方も全断連が指摘したように、第2の否認に気付かれていないようだ。
断酒後の心静かで豊かな生活を送るのに、様々な指針があろうか!?と思うが、ひとつ紹介したいと思う。
それは吉田兼行の「徒然草」。
『命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし(人間ほど長生きするものはない)。かげろふは、夕べを待ち(朝生まれて、夕べには死す)夏の蝉の春秋を知らぬのもあるぞかし。つくづくと一年(ひとせ)を暮らすほどだにも、こよなうのどけしや(格別のんびりしたものである)。飽かず。惜しと思はば、千年(ちとせ)を過ぐすとも、一夜の夢のこゝちこそせめ。住みはてぬ世に(住み通すことの出来ない世に)見にくき姿を持ちえて、何かはせむ(なんになろうか)。
命長ければ、恥多し、長くとも、四十(よそじ)に足らぬほどにて、死なんこそ、めやすかるべけれ(無難であろう)。また名利(名誉や利欲)に使われて、閑(しず)かなる暇(いとま)(心静かで自由な時間)なく、一生を苦しむることこそ、愚かなれ…』などと書かれている。
人生80年の今、40足らずで死んだ方が無難…とは、極端ではあるが、人生も断酒も、その長さでは無く、どう生きているか!?であろう……ましてや、名利に囚われ他人の評価に惑わされてはなるまいと、つくづく思う。
アイディティティ-と言う概念を創ったE・H・エリクソンは『何歳になっても発達課題がある』と言っている。……とすれば、断酒新生は、精進さえすれば、新しい自分に出会える~「希望」でもある。

てんとう蟲おじさん
2013/05/29のBlog
2012年05月03日(木・祝) 写真ーーーー>甲賀市あいこうか市民ホール

滋賀県断酒同友会第35周年記念大会 
 家族の体験談 滋賀県断酒同友会 倉田麻美さん

於:甲賀市あいこうか市民ホール
倉田麻美さん 家族の体験談

皆さん、こんにちは。
滋賀県断酒同友会、甲賀支部の倉田麻美です。
本日は滋賀を励ましに来てくださり、有難うございます。
私はこの甲賀市水口町で生まれ育ちました。
えー、その今までで3人のアルコール依存症と関ってきました。
私の父がアル中でした。
父は日本酒をかんして仕事は国鉄バスに勤めていたんですけど、仕事を終えて自分で酒のあてを作って、静かに美味しそうに酒を飲んでいました。
でも定年退職してから朝から飲むようになり、それも冷酒を隠れて飲んで、酒の勢いがないと趣味とか仕事ができない状態になってきていました。
取り付かれたように飲んで、でえ酒を受け付けなくなると内科に行って点滴してもらって、で少し体が楽になるとおかゆを食べて、でご飯を食べて、でそのうち又酒を飲む。

その事をずっと繰り返していて。
で最終的には喉頭癌になって声帯を失って、鼻から栄養を入れるチューブに酒を流しこんでいる姿を見ました。

だから、私はアル中になったら狂ってしまうっていう事を知って、夫の酒の飲み方が変わって来た頃から、もう口やかましく言うようになりました。
飲むなとは言わへんからもっと上手に飲んで欲しい。
楽しい酒を飲んで欲しいって言い続けてきて、時には泣いて頼んで、時には子供の前で夫を馬鹿にしたような「何で私のいう事が聞けへん。」って捲くし立てて、侮辱するみたいな感じでやってきました。

で、そのうちこう大量飲酒した後は失禁、下痢で下着汚すようになって、朝起きると洗面所、風呂場、トイレが汚れていて私は「何でこんなになるまで飲むんや。」いう事を又言い続けて。
夫は「分かっている。
ちょっと酒控えたらこんなんどうもないんや。」って言って。
もうその事のずっと繰り返しで、段々私も感情が高ぶって夫の事を捲くし立てている事をするんですけど。

両親の前で、その人達の息子を馬鹿にしている時が気持ち良くなって、「私だけが正しい事を言ってる。
こんな育て方したん、あんたらのせいや。」みたいな感じでやってました。
で、始めての入院は専門病院に入院してくれて、退院と同時に断酒会を知る事が出来ました。

それからは本人は断酒会の中でも酒を飲みながら上手くやっていこうとする性(タチ)の悪いタイプでした。
夫がアル中になるまでは、このままではいけないっていうしか考えてなかったんですけど、断酒会の中で止めてはる人の姿を見ながら飲み続ける本人を見るっていう方が私はしんどかったです。

色んな方から「比べたらあかんのやで。」って教えて貰っても、やっぱり比べました。
「何でこの人は解らへんのやろう。」その度に私は人のせいにして「これ両親のせいや。」「地域のせいや。」「職場のせいや。」ってそんな風に私だけは悪くないってそんな気持ちで一杯でした。

でえ、こう私は気に入らないから無視したり、時には怒鳴りつけたりっていう事の繰り返しで来たんですけど、ある時夫の両親が「あんたみたいに当て付けの様に一人で断酒会出るさかい、この子は可愛そうや。
この子の気持ちももっと解ってやって欲しい。
今日、お爺さんと手を取り合って涙流して『もう酒は止める。』って言うてた。

あの子はちゃんと話したら解るんや。」母から言われた事があって、その時頭に来て、「そんな、手え握られたぐらいで酒止まるんやったら、私こんなしんどい思いしいひんわ。」って。

何かその時、夫に対して「酒もっと飲め、止めるな。」ってそんな風に思った事があって、「断酒会に通い続けたら、いつかどうにかなるからな。
何とかなるからなあ。」って言って貰ってたんですけど、それすらも、そうなって欲しいと願うんやったらその母の言葉も気持ち良く受け取ったらええのに、もっと飲めってなんて思いかけて。
一体自分でどうしたらいいのか?

本当に止めて欲しいのか?
訳解らなくなって来ました。病院の家族教室で「酒を探すの止めなさい。
酒の事は本人に任せましょう。」ってこう教えて貰うんですけれど、私は中々それが出来ませんでした。

夫がお風呂に入ったり、様子を知るとすぐ部屋の前にたって大きく深呼吸して集中して、その部屋忍び込んで、でもお風呂から出てきたら、見つかったらいけないって襖を少しだけ開けておいて、で部屋の真ん中に立ちズゥ-と部屋を見渡して、「あっ、あの棚のダンボールが歪んでる。」そのダンボール降ろして中から酒の空いた瓶見つけて「やっぱりな、こんな所に隠してある。

私の目はごまかされへんし。」と思って、見つけた事で満足感があって、安心して「でも、まだ酒はどこかに隠してあるはずや。」と思って、そしたらいつも着てないジャンバーがなんか前の方に吊ってあって、「あっこれや。」と思って、ジャンバーのポケット確かめたら、なんか右と左にバランスよく同じ本数の酒が入ってあって、「やっぱりなあ。」って。

もうそろそろお風呂から出て来る頃やと思って何事もなかったように台所に戻って、でもその見つけた酒、私気になって気になってどうしようもなくて、もう解ってるのに自分の用事が済んだら夫の居る部屋をガラガラッと開けて「何飲みよん。
又、飲んでるの?」飲んでるの?って聞いて飲んでるって言うた事ないのに同じ事を聞いて、帰って来る言葉は「飲んでない。」「この匂いなんやねん。」その見つけた酒を夫に向かって投げつけていました。

今まで色んな物を投げ付けて来ました。
酒は夫の体に向かって投げました。
で、下痢で汚した下着は洗濯機の中から取り出して、それを夫の顔に向かって投げました。
「病院行くから金くれ。」って行ってきた時は千円札2、3枚夫が座っている所の前にヒョイっとこう投げて、急いでその金を拾っている夫を私は腕組みしながら「どうせこの金で又酒飲むんやろう。」そういう思いでお金を放り投げてました。

で、どうしたらこの人の酒が止まるんやろう?そういう事ばかり考えてて空回りばっかりしていた時期があって。断酒会知らんかったらもっと楽に生きられたん違うんかな?と思う時期があって。
んーん訳のわからくなった時もあって。今から思うと良く通う事したなって感じています。でえ、いっつも私は怒ってました。
カリカリ、カリカリ。
ちょっと酒が切れてる時の夫を見てても、「今頃止めても遅いわ。」って思ってたし。

「仕事を首になったら家庭も失うって思うててや。」と捲くし立ててたので、でも実際仕事を辞める事になって、でも私がしてたのは離婚でもなくて、ズゥ-とその家にいる事で、2、3ヶ月経った頃に一泊二日で家に戻ったただそれだけで、私の口から出る事も嘘ばっかりでした。

でも、断酒会に来ては「あの時こう言わへんかったら、やってられへんかった。」みたいな感じがあったし。
だから、私が、自分が取って来た行動もいい訳ばかりして来たように思っています。
そして、4年前に夫は香川の三光病院に仲間の方に連れて行って貰って入院する事になりました。

そこで楽しそうに入院生活を送っているメールが来るとそれも腹立って「あんた何しに行ってるんや。
あんた酒切る為に行ってるんやろう。」その時思うのはとりあえずこの人の酒が切れたらそれでいい。
止め続けるとかそんな事じゃなくって、今飲んでいる酒をとりあえず切れればいいって、その事だけやったのかなあと思いながら。

・・・で、退院して今度は酒抜きの生活が始まりました。
夫は毎日例会をするようになりました。
それすらも「当たり前やろう。止めたかったらそれ位するべきや。」って思ってたし。
「止めて当たり前やろう。」っていう気持ちが強くて。

で、それから暫くして私は蜘蛛膜下出血になりました。
で、30%の確立で後遺症が無くて生きていられるっていう部類にいれて貰って、私は幸運だったと例会でも言い続けて来たんですけど、段々段々腹立ってきて、私はこんなに命懸けて生活してるのに、職場復帰するのにも不安があったし。

その時夫がしていた事は、朝ハローワーク行って、昼からパチンコ行って、夜は例会って、その生活がなんかこう私の方がしんどい思いしているのにっていう事で気に入りませんでした。

で、段々と夫が喋り掛けてきても無視したりとか例会から帰ってきても何も喋らないとかそういう感じで追い詰めていっているっていう感じでした。
私、手応え感じてました。
なんかこう無視したりする事で自分がこう楽になっているっていうのか、あのう困っている、うなだれている本人を見るのが気持ち良かったです。

そのうち年開けて酒の匂いを感じました。
その時に、ああ、追い詰めている時から「逃げたかったら逃げ、酒に逃げたらええねや。飲みたかったら飲め。」思ってた部分があって、で酒の匂いを感じた時に、「ああ、酒に逃げてんなあ。」って。

「逃げてんねやったらその酒に助けて貰え。」って思って私は実家に帰りました。
もう家のなで、あの匂いの中で私は生活していく気はなかったです。

とりあえず飲酒した事だけは市川先生に報告しようと思って電話しました。
先生は「どうしてご主人は飲んだんでしょうねえ?」聞いてきはって「きっと、仕事が無いんで焦ったと思います。」って私が、自分が焦らしといたくせに嘘を言いました。
先生は「これは病気ですからね。」っておっしゃって、私は「解ってる。」と思って「又、止まりますからね。」っておっしゃいました。

んーん、それ聞いてなんかこう一番初め断酒会を知って、アル中になって、酒が止まったら生きていけるって一番最初にそれを望んだ時にこうその気持ちを忘れていたなあと、でも私はそれから実家に帰りました。

で、3週間ほどして夫が・・・ストップが出ました。(
笑み)・・・私喋り出すと体験談が止まらないという事が解ってるんですけど、すみません。

・・・私が夫の酒を止める事が出来ないっていう事が良く解りました。
でえ、今私が夫に物を投げつける事は止めました。
夫はきちんとトイレでようをたす事が出来ています。
ただ本当にそれだけしか変わって無いなあっていうのはあるんですけど。
もうあんな酒に振り回されていた訳のわからない時に私は戻りたくはありません。

だから例会に通い続けて、市川先生に教えていただいた夫の生命保険をきちんとかける事、これも年払いで11月に通帳からきちんと引き落としされている報告を先生にしたら、先生に「奥さん、よう頑張った。」って言って貰って嬉しくて、私生きていくにはこれしかないと思っています。
私、しっかりと生きて生きたいのでこれからも断酒会に通い続けて頑張りたいと思っています。また、宜しくお願いします。(拍手)
写真酒害者家族デザイン猫アル中 角田久美子さん
シリーズ第1回
断酒会でなぜ酒が 止め続けられるのか
神戸市断酒会 田所溢丕

 わたしは入会してまもなく、先輩に恐る恐る聞いてみた。「どうして断酒会で酒が止められるのでしょうか?」先輩はこう答えた。「君は理屈ぽいな、そんなことでは飲んでしまうぞ!」 またある先輩は「だまされたと思って、例会に来続けなさい。きっと止められる」と言いました。私はあれから三十年余り、だまされ続けられ、止め続けられているところを見ると、理屈はどうでもいいのかも知れない。しかし理屈ぽい人は断酒会では嫌われることを敢えて承知して、表記のテーマを述べてみたい。
 それは、断酒会でなぜ止められるのか、をわかりやすい言葉で表し、それを会員が共有する。そして日々の例会・活動でその面を意識的に強調する。それにより会をやめて行く人が減り、また入会してくる人も増えてくるのではないかと考えるからである。
 なぜ、止められるのか、それは個人個人いくらか異なると思う。以下、私の体験から述べてみたい。
 「酒を止める・止め続ける」その動機のステップは、止めざるを得ない→仲間との一体感→酒をコントロール出来ないと諦める→飲まなくても生きていける考え方を持つ→その考え方を持つように努力し続ける 以上である。

止めざるを得ない
 連続飲酒の果て、酒も水も入らなくなり、これを何回か繰り返したら、止めないと死んでしまうだろうという恐怖感が起こる。これこそ理屈ぬきに止めなければと思う。「やはり断酒会に行くか」となる。
仲間との一体感
 例会には受容がある。受容というのは無条件で受け入れてくれ、そして認めてくれることである。
 いままで会社や家族から白い目で見られてきた。酒が切れてくると飲まざるを得ない気持ち。意志が弱いからだ、と周りから責められてきた。そうじゃない、飲みたくはないのに、飲まざるを得ないという気持ちをやっとここでわかってもらえた。ここなら止められそうだ。希望がでてきた!!
 例会には一体感がある。会社や家族のなかでは孤立していた。ここでは仲間だと体験談をとおして実感できる。皆止めているのだから、俺だけ飲んだりしたらいかん、という気持ちになる。
 私はこの主に「仲間との一体感」だけで約2年間断酒継続をした。まだアル症を完全に認めていなかったのだ。
酒をコントロールできないと諦める
 それはある日突然やってきた。いつものように例会にでていた。体験談を聞いていると「あー、私はもう酒を飲んではいけないのだ」となにか、つき物が落ちたように諦めの気持ちが湧いてきた。なぜか涙が出てきた。それは酒との惜別の涙ではなく、あーここ例会が私の居場所なのだ、という安堵の涙であった。
私はあの人より悪くない、だからひどい依存症ではない、と自分できめていた。例会で体験談を聴くことを続けると、あまり自分と大差がないことがわかってきたのであろう。
仲間との一体感を感じながら、私は「自分は皆と違うのだ」と、心の底ではそう思っていたのである。その思いは恥ずかしいことに、いまだに心の奥にくすぶっている。生涯断酒するには、その火を消さなくてはいけない。
飲まなくても生きていける考え方を持つ
 依存症の人はよくゼロか1の人間だ、と言われる。適当がない。適当ということが出来ない。白か黒かしかない。灰色がない。また「何々は、何々でなければならない」という考えに固執している。父親は子供に厳しくなければならない。男は強くなければならない。男は仕事が第1でなければならない。など、常にそうでなければならないと心の中にあり、「まあたまにはいいじゃないか、時には肩の力を抜いても」というようなことは考えたこともない、一途な硬い考えであった。
だから人生観・価値観は「こだわり」だらけである。つまり生き方・考え方にこだわりがあり、偏ったものになっている。長い間こう思っていると再飲酒の可能性が高い。
 さて、例会で話す・聴く体験談には人それぞれの人生観・価値観があり、例会ではそれらをわかちあっている。止め続けるには、今までのように競争社会に身をどっぷり漬かっては危ない。日々健康に暮らしていければそれでよいではないか、という気持ちになってくる。いままで感じなかった日々の何気ないこと、例えばご飯はこんなにおいしかったのか、というようなものに喜びを感じてくる。
 感覚的には、肩に張っていた「鎧(よろい)」を徐々におろしていく感じである。
その考え方を持つように努力し続ける
 「飲まなくても生きていける考え方を持つ」それについて生涯努力しようということである。
 全断連発行の2012年版「躍進する全断連」の冒頭に「断酒会チェンジの始まり」が掲載されている。これには、断酒会の真髄はいわゆる第2の否認の解除であり、具体的にはこの「飲まなくても生きていける考え方を持つ」にあると書かれている。

以上、私の体験から述べてみた。もちろん、私もこのまま止め続けられるか、わからない。不安は不安として受け入れ、止め続けられる考え方を持つ努力、を続けるつもりである。

「依存性薬物の特徴」
全日本断酒連盟顧問
大阪大学大学院元 助教授
神戸協同病院 特別指導医
中田 陽造

2013/05/21のBlog
[ 08:54 ] [ アルコール健康障害対策基本法 ]
私の思い~『アルコール関連問題対策基本法』~
日本アルコール精神医学会理事
日本アルコール関連問題学会と日本アルコール薬物医学会評議員
社団法人 全日本断酒連盟顧問
かすみがうらクリニック副院長
断酒の家診療所医師
猪野 亜朗
「会報 No.17」(2010年9月10日付)より転載
発行:「仲間の会事業所」を支える会

私はアルコール医療に取り組んで38年、その間の思いを幾つか述べさせていただきます。
◆アルコール患者さんとの最初の出会い
その出会いは、私が登校拒否ならぬ「出勤拒否」したくなる程の大変な出会いでした。しかし、この大変さが若手医師仲間と共に断酒会を三重の地に立ち上げる私のエネルギーになりました。

当時のアルコール医療は抗酒剤以外の治療手段もない「医療砂漠」で、何にもない状態でした。そんな中で、自助グループは私にとって「希望の灯」でもありました。その当時から、私は個人の当事者や家族だけで問題は生起したり、回復したりするものではないと思っていました。

私達は、常にその時点の「社会的な関係」に影響され、また影響を与えて断酒を目指しているのです。その意味で、「断酒会の灯を消さないこと」、「断酒会をきちんと機能させ続けること」、「国や自治体、専門家、そして市民はそれを支援すること」 が不可欠と思ってきました。

◆この不幸は、早く無くすべきだ
アルコールがもたらす苦しみは、当事者にとっても家族にとっても「底なし沼」です。当時は何にも治療手段がないので、「月光仮面」のように酒乱の現場に駆けつけていました。今から思うと恥ずかしい限りですが、それしか私達に出来ることはありませんでした。

そんな行動で当事者を救えないのは当然ですが、それでも私には「酒害の大変さ」を知る機会になりました。机上の理論ではなく、「酒害の現場」を知ることになり、そのことが私のアルコール医療の原点になっていると思います。また、津市の断酒の家では、診療と共に本部例会に参加していましたので、家族の体験発表を聞いて、いつも心を打たれていました。

本人と家族の体験発表の落差の大きさにはよく驚かされました。また、アルコール医療の中で家族相談を受けた時に、「もし、内科の先生が気付いてくれていたら、この人の人生は変わったのに」、「産業医が検診データで気付いて、専門治療に繋げてくれていたら」、と思うことが度々ありました。

一方、あらゆる機会を通じて内科医の先生方に連携医療の必要性を訴え続けました。チャンスは容易には訪れませんでした。しかし、あらゆる機会を生かして、遂に三重大学消化器内科の先生方と繋がることが出来ました。

今、三重県で内科医と一緒に研究会を立ち上げて十五年、愛知県の研究会も塚田勝比古先生のリーダーシップと事務局の雲川伸正さん等のお陰で四年になります。私は、この過程で内科医や産業医の先生方の腰の重いことを決して責めてはいけないと心に決めていました。責めるのではなく、如何に気付いてもらうかを考えました。

それは、当事者の方の否認に対して、気付きを得てもらう取り組みから学んだ姿勢です。実際、今では多くの内科医の気付きを得ています。医療関係者にも当事者に対する否認があって当然なのです。「深夜にやって来る」、「指示を守らない」、「大声でわめく」、「繰り返しやって来る」、「スタッフの努力は報われない」。何とかしようとすると、病棟スタッフから冷たい視線で見られて孤立する。こんなトラウマを幾つも持っているのです。

そんな結果、医師たちは、「アルコール患者は厄介な人」、「言うことを聞いてくれない人」だから、「見て見ぬふり」、「その場しのぎ」をするようになっていったのです。そんな思いは、私達アルコール医療に取り組んでいる者の心の中にもあるのです。

私達は、アルコールの患者さんに一人で対応するとしんどいし、直ぐ燃えつきます。だから、支え合うこと、苦労や喜びを共感し合うこと、スキルを交換すること、そして情報とエネルギーの交換が必要なのです。これは、家族システム理論から学んだ考え方です。これまで読まれて、皆さんは断酒と同じだと思われたことでしょう。そう、全く同じなんです。

◆WHOのアルコール有害使用の低減戦略に応えて、基本法制定を!
2010年5月、WHOは全世界でアルコール有害使用を減らす取り組みを行うことを決議しました。WHOの「タバコ」に続く取り組みです。確かにタバコは健康被害のトップです。アルコールは三番目です。「しかし、」です。

タバコで、交通事故は起こりません! タバコで、自殺は起こりません! タバコで、家庭暴力は起こりません! タバコで、児童虐待は起こりません! タバコで、家庭崩壊は起こりません! タバコは、次の世代に生き辛さをもたらすことはない! タバコには、家族の嗚咽(おえつ)はない! タバコには、涙の出るような家族の長い々々回復の努力は必要ありません!

ところで、日本では、タバコは大問題となって禁煙空間は広がり、広告も殆んどなくなりました。一方、同じ薬物依存であるのに、そしてタバコよりもはるかに多くの不幸や苦しみをもたらすのに、何故かアルコールは対策が進んでいません! あるのは飲酒運転の厳罰化だけです。それは、アルコールに対する無知や偏見と日本の社会の仕組みがそうさせているのです。

しかし、ここで責めるのではなく、日本の市民の人達の心を動かしたいのです。私達にその努力と的確な方法がなかっただけなのです。「動機付け」が必要なのです。そのチャンスが、WHOのアルコール有害使用の低減戦略という「黒船」の出現で、今やって来たのです。

私は、三重や愛知の取り組みの延長上にアルコール依存症の早期介入と早期回復は出来ると信じて、全国各地で連携医療の種を蒔いてきました。そんな中で、「ハタッ」と気付きました。こんなことをしていても、早期介入や早期回復を目指す医師がその地域にいなければ、絶対に連携医療のシステムは出来ない。こんな偶然(連携医療の医師の有無)で、アルコールで苦しむ人間の運命が決まってはいけない!

私は、アルコールと自殺の問題についても考えていました。ある時、自殺対策基本法に、「自殺」の文字を「アルコール関連問題」と置き換えてみました。なんと、私が望んでいる課題の多くがその中にズバリ入るではありませんか! これで行こうと思ったのです。何故タバコは出来ても、アルコールは出来ないのか! それは、はっきりしています。 「私達」に知恵と勇気が不足していたのです! 

◆基本法が出来たら
1.「全国アルコール対策会議」が、関係省庁や日本医師会、関連学会、そして全断連等によって構成され、対策大綱が制定されます。「アルコール関連問題取り組み月間」などが決められ、国や地方自治体にはアルコール関連問題対策費として予算化されます。
2.地方自治体ごとに、「地域アルコール対策会議」が開催され、関係スタッフへの啓発とネットワーク作りが支援されます。
3.これらの結果、医療や福祉、公衆保健、産業現場の様々な局面で、多量飲酒やアルコール依存症の人が、早期に治療や回復への入り口に立つことが出来るようになります。
4.断酒会などの自助グループも「アルコール対策会議」の重要な構成員として、ネットワークの一員となります。
5.全断連など、当事者やその家族への支援も強化されます。
6.アルコールのCMについても、公的機関が関与して規制します。

◆具体的な改善点
アルコール有害使用の低減に取り組むことによって、次の改善が出来ます。
1.多量飲酒やアルコール依存症による健康被害を減らすことが出来ます。
2.アルコール性臓器障害、気分障害などの医療費を減らせます。
3.欠勤、病欠、健康障害の減少によって、生産性向上を図り、労働力の確保が出来ます。
4.家族の精神的苦痛を軽減出来ます。
5.家族崩壊を防ぎ、次世代への悪影響も防止出来ます。
6.自殺対策も進みます。
7.学校教育を強化することで、有害使用発生の予防や偏見の除去に繋がります。
8.医学教育などの関連専門職教育や生涯教育を充実させることで、対策は恒常的に前進します。
9.アルコールの有害使用低減に向けた研究活動も予算化されて活発になり、対策が充実します。
10.CMの規制によって、依存症の進行や再発の危機を減少させます。(了)
2013/05/20のBlog
[ 11:57 ] [ 『依存性薬物の特徴』 ]
●神戸協同病院 特別指導医 中田 陽造
 「依存性薬物の特徴」----------------こちらから

2013/05/18のBlog
近畿ブロック・兵庫大会
(2010年5月5日)
家族の体験発表
大好きなお母さん
奈良県断酒連合会 南大和断酒会
荒川 弥生
≪写真は山の辺の道から畝傍山(左)と耳成山を望む≫------>

 今から四年前、当時私は17歳の高校二年生。11月、酒臭い母の手を引いて薄暗くて汚いビルに着きました。そこは断酒会のある建物で、私たち親子には断酒会という場所しか残っていませんでした。この断酒会にたどり着くまでに、一般病院への入院を何十回も繰り返し、どの病院からもことごとく見放されていました。また違う一般病院を訪ねましたが、そこでも幾度となく入退院を繰り返し、私が中学一年生の時、やっと母は精神科の病院へ入院しました。

 初めて精神科という病院を見た時、私は大きなショックを受けたことを覚えています。今まで何十回と入退院をしてきた病院とはまったく違って薄暗く、入院中の患者さんの叫び声に似た声と、それを制止しようとする職員の声が、病棟に入る前の階段から聞こえてきました。

 母はその階段で立ち止まり、「弥生、お母さん頑張ってお酒やめるから、お願い、お家帰ろう」と私に言いました。その時の母の表情と階段にうずくまる母の姿を見た時、母を連れて家に帰ろうかと思いました。でもやっと見つけた病院です。母のお酒をやめさせてくれる病院ということを思い、私は母に、「ここで頑張って三ヵ月入院したら身体も良くなるし、お酒もやめられるから」。そう言って嫌がる母の手を引っ張って、何とか病棟の扉の前まで連れていきました。

 扉の入り口にはインターホンがあり、それを押すと職員の方が鍵を開け、ガシャンガシャンという音と同時に扉が開きました。そして看護師さんに病室まで案内され、私は帰ろうと鍵つきの扉の前に立った時、母は大声で「弥生!お母さんやっぱりこんなところは嫌や!お願い、連れて帰って!お願いやから!」と泣き叫び、私の足にしがみついていました。そこへ二~三人の職員が来て、私から母を私から引き離しました。

 入院から一週間して、自宅に一通の手紙が届きました。入院中の母からでした。その便せんには、「弥生へ、お母さんをこんな檻の中に放り込んで、さぞ嬉しいことでしょうね」、「私はあなたを恨みます」、「私への嫌がらせですか?」、などという文章が達筆な母の文字ではなく、アルコールが身体から抜けていく最中の離脱症状によってか、まるで小学生が書いたような文字でした。

 結局、母は一ヵ月ほどでその病院を無理やり退院し、病院から家に帰る途中、酒屋に寄って酒を買い、家に着いて直ぐに缶ビールを飲みました。自分に言い聞かせているのか、私の様子を窺っているのかは分かりませんでしたが、缶ビールをひと通り流し込んだ後で、「これからは、このビールを三本までにするわ!それやったら弥生も心配ないやろ?」と言いました。

 当時私は、母に酒を減らして欲しいと思っていたぐらいで、完全に酒をやめて欲しいとまでは思っていなかったように思います。母が酒を止めるということ自体、私の頭にはなかったのです。そう思っていたのも、母は私が幼い頃から毎日々々飲んでいて、酒を飲まない母の姿は想像もつきませんでした。逆に、飲まなくなる方が心配と考えたりもしました。

 母は十六歳の時からずっと水商売をしていたみたいで、私が生まれた後もその仕事を続けて、私を育ててくれました。私の父親は、私が二歳半ぐらいの時に母と別れたので、私には父親と生活した記憶がありません。母は、母子家庭だからと人から馬鹿にされたくないという思から、私は小さいときから躾にはとても厳しく育てられました。私に手を挙げるのは当たり前で、真冬の吹雪の中、全裸で外に一時間以上放り出されたことも頻繁にありました。

 その躾も、母が酒を飲んでいる時は暴力も酷くなり、躾ではなく自分の気に入らないことがあると、感情で怒られることが多くありました。当時私は幼くて、母に抵抗できるはずもなく、母の気が収まるまで耐え続け、悪くなくても必死に「ごめんなさい」と謝り続けることが精一杯でした。

 母には、私が幼い頃からずっと言い聞かせていた言葉がありました。それは、「弥生とママはどんな時でも二人で一つ」。母子家庭で父親がいなかった私には、幼い頃からもし母に何かあったら自分が守るという考えが自然と身についていました。それは、今になって気がついたことですが、母しか頼れる人がいなかったから、自分の身を守るためだったと思います。従って、母が酒を飲んで暴言や暴力が酷くなっても、母のもとから離れたら自分は生きていくことができないと思っていたから我慢せざるを得なかったのです。

 母の酒の量は、私が成長するとともに増えていきました。飲み続けているうちに身体を壊し、四歳の私が救急車を呼んで母を病院まで運んでもらうようになっていました。病院では、ベッドで眠っている母の横で寝ているうちに朝を迎え、母と一緒に家に帰りました。母の入院が長引くようであれば、自分の身の丈より大きいスポーツバッグに入院用品を詰め、それを担いで病院まで歩いて行きました。

 この頃から、救急車で運ばれる時、母は必ず酒を飲んでいました。ひどいときは、二日に一度は救急車を呼ぶようになりました。小学一年生の頃になると、私は救急隊の隊長さんとも仲良くなっていました。

 そのような繰り返しで、母は自分の店を続けられなくなり、生活保護を受けながら生活をするようになりました。店を閉じ仕事ができなくなった母は、朝から酒を飲むようになっていました。朝になって私が母の部屋に行くと、カーテンも開けず机に向かって酒を飲んでいました。その姿を見た時は凄く怖かったのと、これからどうなっていくのか分からない不安でいっぱいになりました。

 母が朝から酒を飲むようになった頃、私は小学六年生でした。学校に行こうとした時母は、「学校なんかに行ってみろ!二度と家に入れると思うなよ!」と私に言いました。しかし、そのまま学校へ行きました。放課後校内放送で職員室に呼ばれました。そこには酒の臭いをプンプンさせた母がいました。母は私の顔を見るなり、いきなり殴りかかってきました。

 殴られて倒れた私に母は、「何で早く帰ってこない?!」と言いながら廊下にうずくまる私を蹴ったので、担任の先生が止めに入ってくれました。その後、家に帰ったらまた理不尽なことに、ボコボコに殴られたり蹴られたりしました。学校からの帰りが遅い私に、躾のつもりで怒ったと母は言っていましたが、この頃から私は躾ではなく虐待だとに気づきました。

 ある日の夜、寝ている私の上で馬乗りになり、私の首を思いっきり絞めながら母は、「アンタを産んだから、私の身体はこんなに悪くなったんや!」、「アンタさえいなければこんな苦しい思いをせずに済んだのに!」、「死んでくれ!私はアンタが死んだ後に死ぬから!」、と泣きながら私の首を絞めてきました。私は必死で母を払いのけ、自分の部屋へ逃げ込みました。そして怖くなり家を飛び出し、必死で近くの交番へと駆け込みました。

 警察の方にひと通り事情を説明すると、しばらくしてパトカーに乗で児童相談所へと連れていかれました。そこで四ヵ月間生活をしました。そして、家に帰るか施設にいくかの選択を迫られた私は、児童養護施設にいくことを決断しました。母は最後まで反対し、「家に帰ってきて! お母さんもうお酒もう飲まんから」と言っていましたが、私は家には帰りはしませんでした。

 やっと落ち着いて生活ができる場所にきたと思っていましたが、そこで男性の職員から性的虐待を受け、また児童相談所へ連れ戻されました。そこでまた数ヵ月生活をし後、母のもとへ帰るか違う施設へいくか決断しなくてはならなくなりました。この頃から、私は何故に自分が生きているのか解らなくなっていました。

 たった一人の母は、酒が入るとおかしくなっていき、酒をやめるやめると口先ばかりで、結局は飲み続けました。この様な母をどうすることもできないまま、自分の親が親でなくなっていく姿を見ていることがとても苦しくなっていきました。

 しかし、酒を飲んでいない時の母が大好きで、そのような母にもう一度戻って欲しい、絶対に戻ってくれるという一心で、私は児童相談所から母の許に帰ることを決めました。今度こそ、酒で狂っていく母を、私がどうやってでも酒をやめさせて、昔の頃の私が一番好きだった母に戻ってもらうためにと覚悟を決めました。

 家に戻った私は、母が酒を飲まないように一日中監視をするようになっていました。学校にもあまり行かなくなりました。それでも母は、酒をやめるどころか益々飲むようになって、毎日のように失禁を繰り返し、私は泣きながら濡れた階段を拭いて失禁の後始末をしていました。この頃もままだ入退院を繰り返して、母の身体は、段々悪くなっていきました。

 例えば、「肝硬変」、「C型肝炎」、「食道静脈瘤」、「血小板欠乏症」など。 医者からは、このまま酒を飲み続けていたら何時どうなってもおかしくはないので、覚悟だけはしておいてくださいと言われていました。 最後に通っていた病院からは、「そんなに飲んで困るのであれば手足を縛って、柱にでもくくりつけておきなさい」、とも言われました。

 私は、福祉の人、保健所の人、警察の人、病院関係など思いつく限り、いろいろな所へ助けを求めました。しかし、皆決まって応える言葉は、「本人が治そうとしない限り、周りがいくら一生懸命になっても無理だし無駄」という冷たい返事でした。私のたった一人の親が、死ぬか生きるかの瀬戸際の状態の中での必死で助けを求めた言葉、「助けてください!お願いします」。そんな私の気持ちは誰にも伝わりませんでした。

 残念なことですが、母にも伝わりませんでした。母は高校受験を控える私に、「学校にいくとお母さんの酒代がなくなるから高校にいかないで欲しい」と言われました。それでも私は何とか定時制の高校に入学しました。仕事と学校、そして母の監視を続けていましたが、私にも限界がきてしまい、インターネットでやっと断酒会にたどり着きました。

 私たち親子にとって断酒会は、本当に生きるための最後の場所でした。しかし、断酒会にたどり着いても母は酒をやめることはできずにいました。そんな時、母は大量に睡眠薬を摂取して自殺を図りました。四日間意識が戻らず、今度こそ母は死んでしまうのかと覚悟しましたが、何とか意識が回復して退院しました。その後もまた断酒会に通いましたが、母は酒をやめることはできませんでした。

 そんな時、断酒会の方から研修会に誘っていただきました。これが母の酒をやめるきっかけになるかも知れないと嫌々ながら思い切って参加しました。しかし、周りは皆さん断酒されている人たちばかりで、私は家に戻った後、断酒会の例会に行くことが嫌になったりもしました。それでも諦めずに例会に出ていると、やがてアルコール症の専門病院があると知り、母はやっと専門病院にたどり着くことができました。

 その病院で母は、一生懸命になって例会に参加していました。そんな母の状況をケースワーカーの方から知らせてもらった時は、本当に嬉しく思いました。専門病院を退院して、これからまた一からやり直すと言っていた母でしたが、やはり完全に酒をやめることができなかったようで、去年(平成21年)の四月十日に亡くなりました。

 断酒会の方に教えてもらったことがあります。「断酒会に繋がった大勢の人の中でも、一握りの人だけが完全に酒をやめることができているのよ」。その一握りの中に母がいて欲しかった。 「今まで辛いことは沢山ありましたが、諦めず母に付き添っていて本当に良かったと思っています。母は今お陰様で○ヵ月断酒をさせてもらっています」 という体験談を一度でいいからしてみたかった。

 今となっては、酒をやめなくてもいいから生きていて欲しかった。これが私の本音です。結果的に肝移植は間に合いませんでしたが、お医者さんから肝臓移植の話を聞いた時、母がもう少し長く生きることができたなら、私の肝臓の半分を母に提供することもできたはずです。それで私の命が危うくなることがあろうとも、私の命がなくなろうとも、怖くも何ともなかった。

 母が亡くなってから、母が生きていた頃を振り返り、初めてゆっくり自分自身と向き合うことがとても辛く、苦しく、怖かったのです。アルコール依存症の母を言い訳にして、私は自分の苦しみや悩みから逃げていたことに気づかされました。学生時代に自分の将来のことや進路のことなど全て母のせいにして、いつからか世間からは可哀想な子ども同情されることに甘えていたことや、そう思われて生きていくのが楽だったような気がします。

 今では少しずつですが、自分自身としっかり向き合うように努力しながら生活しています。母が私の幼い頃から教えてくれた、「思いやり、優しさ、礼儀正しくだけは忘れずに!」 の言葉を胸に、これからは自分の幸せのために生きていきたいと思っています。ありがとうございました。(了)


(写真は橿原市の田園から見た耳成山)------>

(付記)
さようなら・・・。お母さん、今まで育ててくれてありがとう。
たくさん遊んでくれたし、いっぱい色んなことを教えてくれたね。
今は全部じゃないかもしれないけれど、きちんと身に付いてるよ。
これからは、自分の力で強く生きていくよ。
お母さん・・・。頑張るよ・・・。お母さん・・・。もう一度甘えたいな…。
お母さん・・・。もう一度一緒に遊んで・・・。お母さん・・・。叱って・・・。
お酒って、一人の子の母親が母親じゃなくなる飲み物なんだよ・・・。
ねぇ知ってる?今、私のお母さんがもう居ないこと・・・。
だからね、毎日寂しくて辛いよ・・・。やっぱり戻って来てはくれないの?お母さん・・・。
私よりお酒を選んだお母さん さようなら・・・・・・。
(完)
「惠子の軌跡 水中毒と闘う Ⅰ」( 2007年の夏)
大阪府高槻市
石村 健二
 (写真は高槻市芥川の作業用木橋)------>

7月24日(火)
 病院から帰る途中、「オムツがなくなったから???」(店名を思い出せず)惠子を店の前で降ろし、先に帰る。(惠子も)帰ってきたが、「今度行くのは火曜日」といい張る。 「金曜日と聞いてる」 にも納得しない。仕方なく予定表(失くしてしまったとのこと)を探しにいく。 探し出して予定表を見せると、「27日の30日」など読めない様子がしばらく続く。

 夕食の後は、「電話を掛けたいが掛けられない」 「携帯がない」 「探して」 「電話が掛かってくるのに出られない」 「どうしたら電話を掛けられるの?」。携帯に電話したり、最後に電話を掛けた場所を探したりしたが、分からず。「携帯がなかったら困る!」「自分で失くしたんだから、自分の責任や!」と・・・・。11時過ぎまで、寝たり起きたりの繰り返し。(携帯が必要なら、自分で探せばいいのに) 「もう遅いから上(階)で寝たら」 「上(階)では寝られない」 仕方なく、放っておいて就寝。(僕が上で寝ました。酒がある地下室で彼女は寝ます。)

7月25日(水)
 朝6時40分頃、「新阿武山(病院)に電話出来ない。代わりに掛けて」と起こされた。「何のために今頃掛ける」 「受付の人はまだいない」 と言うのだが、多分病棟に掛けたのでしょうが、(そんなことは出来るのです)取り次いでもらえかったようです。その後は昨日の続きです。 「携帯を充電しようと思ったら、携帯がない」 「なかったら困る・・・」 「失くしたのは自分の責任だから、自分で何とかしろ!」 と言い続ける。薬が心配になって調べると、ノックビンが足らず、プラバチン・トレドミンは余っています。睡眠剤も余っていました。これからは、こちらで管理します。朝食後(食べていませんが)、薬は飲みました。

 帰宅したら、地下室でエアコンをつけて横になっている。エアコンは切っていったのに、つけることが出来る。しかし、上(階)にはエアコンが2台あるのに 「上(階)では寝られない」と上がらない。(こだわり?) 17日のことが気に掛かるようで、「メモが出来ない」 「主人に書いてもらって・・・・」 「17日・・・・振り込めない」 「11日に振り替えして・・・・」など、意味不明の言動。夕食は、おかずだけは食べました。夕食後の薬は飲みました。その後、地下室で横たわり、私の傍にいますが会話なし(眠っている)。9時現在、眠っています。睡眠剤は飲まず。

7月26日(木)
 7時過ぎ、地下室に降りてみると、エアコンをつけたまま寝入っていました。仕事に行く前に、薬を彼女の横に置いておきました。帰ってきても、エアコンをつけて寝ていました。(消していったのに) 今日は僕の料理の番だったので、「ご飯も食べろ!」と言うと、軽く一膳食べました。今日の朝、寝ている間に横に置いておいた薬が分からず、「飲んでいない!」と言うのですが、置いたはずの薬がないので飲んだのでしょう。(昨日の薬の包みもありませんでした。ゴミ箱へ、両方入れたのだと思います。)

 今、夕食後の薬を飲みました。「睡眠剤は?」と聞くので 「まだ早いから、このまま起きていたらあげる」と言って仕事にかかりました。 「しんどい、眠剤ちょうだい」 「夕食後は眠剤飲んでもいいと先生が言っていた」と言うのですが、まだ午後8時過ぎなので、もう少し後にするように言いました。 
 
 今は午後9時前ですが、眠っています。明日は付いて来て欲しいとのことですが、備品整理の日で、休むことができません。書面で失礼します。10時前にトイレに行き「眠剤ちょうだい」と言うのであげました。今、午前1時半、熟睡しています。明日は、僕が起こして「病院に行く日だ!」 と念押ししなければと思いつつ、彼女を地下室に置いたまま眠りにつきます。朝の状況が書けるかどうか分かりません。

7月29日(日)
 28日(土)夕方からの飲み会が決まったので、僕は薬を置いておくのを忘れてしまいました。夜中の2時頃、地下室に降りてみると、熟睡していました。薬はキーボードの横に用意したままありました。夕食時に、母が何度も内線を掛けたのですが出なかったので、息子が「寝てるからほっとき、目が覚めたら食べるやろ」と言ったとか・・・・ 母が洗い物をしてる時に上がって来て、話をしているのに部屋の電気を消すことを何度もやったとか。母も諦めて、暗い中で洗い物を続けたとのこと。

 今朝の9時、ズボンもはかずオシメだけの姿で夢遊病者?のように現れ、僕たちに声を掛けることもなく、地下室に・・・・。僕がハーフパンツを持って地下室に行くも、オシメだけの姿なのを認識できず、何度言ってもはこうとしない。 何とかはかせたが、前と後ろが反対。言っても分からない。そのままにしておきました。

 28日の晩の薬は、前回の分を自分で探して飲んだのかどうかも分かりません。何とかハーフパンツをはかせたのですが、3時半に降りてみると、ハーフパンツの上にオシメをしていました。 「何をしているの!おかしないか」と言うも、意味が通じず、娘夫婦が来ても、そのままの状態かも。「今から3時間(娘夫婦が来るまで)、自分で考えろ! 4歳の孫もおかしいと思う、何とかしろ!」といろいろ言うのですが通じず、「ハーフパンツの上にオシメはおかしい!」も分からず、平然とした状態です。地下室には入れないように鍵を掛けました。

 軽い躁鬱状態に入ったようで、ハーフパンツもオシメも脱いで、僕の言葉にも無視で、目付きが変わっていました(攻撃的な目)。5時半現在、「何をしていいのか分からない」とリビングのソファーで座っていて、びっくりしました。(居るのかどうかも分からない)電話には対応するのですが、繋がりません?不思議と、今も降りてきません。(了)
[ 00:33 ] [ 本人の体験談 ]
「晴れか霞か」 写真ーーー>山形県県魚サクラマス
田村 晴霞
山形断酒の仲間誌「春夏秋冬」より転載
(原文は2009年7月1日付「春夏秋冬 No.80」に掲載

私は2000年10月、中国からに日本に来ました。妹がそれより6年前に隣の白鷹町で結婚して暮らしていましたので、日本のきれいな風景や男の人の優しさをよく話してくれていました。姉さんも日本に来て再婚しないかと誘われていました。同じ長井市に住む横山さんの紹介で、今の夫と見合いしました。

前の夫は酒を飲んで暴力を振い、浮気を繰り返していたので、結婚して三年ほどで離婚し、息子と暮らしていました。中国で再婚するつもりはなかったので、思いきって日本で生活してみることを決意しました。

私は酒を飲む男性は信用できないと思っていましたから見合いの時、妹を通じて田村さんは酒を飲むかと聞いてみました。すると、横山さんはビールを少しだけ飲むはずだと答えました。日本人はあまり嘘をつかないと聞いていましたので、それを聞いて安心し、一ヵ月後に夫と結婚しました。

ところが、夫は大変な酒のみでした。今考えると、横山さんは、「嫁でももらったら、酒も控えるだろう」と、嘘をついたと考えることにしました。だから、この9年間は、楽しいことよりも辛いことの方が多かった気がします。ひとつは言葉の壁と、もうひとつは夫の酒による苦労です。

夫の酒の飲み方も少しずつ変わって行くのが分かりました。最初の頃、休みの日はいつもどこかに連れて行ってもらいましたが、そのうち休みの日は、朝からお酒を飲むようになってきました。今日は雨が降っているから出かけられないとか、様々な理由をつけて飲むようになってきました。中国では、朝からお酒を飲む人を見たことがありません。

最初のうちは訳が分からないので放っておいたのですが、あまり度を超してきたので私や母が厳しく言うと、買ってきたお酒をあっちこっち隠して飲むようになりました。夫は飲まないと無口です。飲むとヘラヘラと冗談を言い始めるので、酒の臭いがしなくても顔色が変わっていなくても、すぐ分かります。でも、暴力だけは振るいませんでした。飲んだ時は、面白い人だと思っていました。

もちろんその頃は、アルコールの病気だとは思っていませんでしたが、体が心配でした。私と10歳離れていましたし、子どももできません。普通は、夫のほうが先に死ぬわけですから。夫は大丈夫だ、生命保険も退職金も年金も全部お前にいくからなといっていましたが、お金の問題ではありません。

2-3年前からは、土曜、日曜に飲むのは当たり前。月曜日はなんだかんだと理由をつけて休むようになり、火曜日は、休みを取るのに自分で電話をするのが嫌なのか、お母さんに電話をかけさせるようになりました。夜は眠れないのか、寝返りを繰り返し、朝から苦しそうに吐くようになりました。

歯もお酒のせいか、グラグラになってきて、朝はおかゆを作ったり、弁当のおかずは何を作ったら食べられるのか、苦労して作っても残して帰ってきます。いくらお酒を止めてと言っても、「明日から止める、明日こそ止める」、とズルズル続きます。離婚も考えましたが、このまま一人にしたらますます飲んで、死んでしまうのではないかと悩みました。

そうしているうちに、昨年の2月頃、事務所の課長さんから電話がありました。「今日休みなのは、何かあったのか」、と言うのです。朝、ちゃんと弁当を持って出かけたはずなのに、私と母は、何があったのかよく分かりませんでした。アルコールのせいだとは何んとなく思いましたが、どこか頭がおかしくなったのではないかと考えました。

翌日、私が勤めていた会社の近くで、時々お世話になっているお医者さんに無理やり連れて行きました。私にも一緒に聞いて下さいと言うので、二人でお医者さんの話を聞きました。「夜眠れないのも、寝汗をかくのも、下痢が続くのも、すべてアルコールのせいです。アルコール依存症です。入院しなければ治りません」、と告げられました。

そして、「かかりつけの医者がいれば、すぐに相談しなさい」と言われました。次の日、夫がかかりつけの医者から公立長井病院への紹介状を書いてもらい、その日のうちに病院の精神科に二人で行きました。病院では、通院で治しますか、入院しますかと言われました。夫は迷っているようでしたが、私は、絶対入院させると言いました。次の日に入院しました。昨年の3月4日のことです。

入院の後、少し余裕が出てきたのか、夫は本当に酒が止められるのか、体を治すことができるのか、そして長生きできるのか、毎日考えていました。見舞いや洗濯物を取りに、時々病院に行きました。ある日電話をしたら、何か声がおかしい、酒を飲んでいないかと心配になり駆けつけました。

ベッドの傍の引き出しを捜すと、酒が出てきました。病院の中で、何故酒が飲めるのか理解できず頭が真っ白になり、もう離婚しかないと言いました。それから一週間後病院へ行って、もう中国へのチケットを用意したから、三日後に中国へ帰ると言いました。

中国へ行ったらもう帰ってくるかどうか分からないと言うと、夫は、もうこれからはもう飲まないと約束するから行かないでくれ、と言いました。夫の可哀想な顔を見ていると心が弱くなり、、今回は許してもいいかという気持ちになり、退院した後の様子をみて決めることにしました。

それから二週間後ぐらいに、断酒会に参加するようになりました。最初、体験談を聞いていると、断酒会の皆さんが酒を止めていることが信じられませんでした。夫も、7月に退院してから10月頃までは一滴も酒を口にしていないようでした。

その後は時々飲んでいるようですが、休みの日は飲まないし、仕事も休まず勤めているので大目にみています。甘いと言われるかもしれませんが、いつかピタリと止める日が来ることを信じて、断酒会に通いたいと思います。有難うございました。
(6月14日、東北ブロック秋田大会での体験発表)
2013/05/16のBlog
写真高槻市花 うのはな
新阿武山クリニック
精神科ソーシャルワーカー
全日本断酒連盟顧問

福井県立大学准教授 社会学博士
西川京子
全日本断酒連盟発行「かがり火
第173号1月号(2013年1月1日付)より転載
断酒会による回復と新生
 ―第2の否認をのり越えて―

 新阿武山クリニック 西川京子

 長年願ってきた断酒生活が始まり一見平穏に見えても、気に入らないと「飲んでやるぞ」と断酒を錦の御旗にしているアルコール依存当事者の言葉、「生まれ変われるものなら酒害者になりたい。飲酒中も、断酒後もびくびく、おろおろと機嫌をとって暮らす家族だけにはなりたくない」と忍従と自己憐憫を明かす家族の発言に断酒後の問題がうかがえます。
断酒後の問題点の1つは本人の第2の否認、2つ目は家族の過度な自己の正当化、被害者意識、自己憐憫、3つ目はこのような両親のもとで育つ子どもの孤独と不幸といえます。

1 第2の否認
否認とは「事実を事実として認めない」ことです。ブルーム(S.B.Blume:1978)は第1の否認は「飲酒に問題はない」、第2の否認は「飲酒以外の問題はない」の2つに分けて記しています。第1の否認は飲酒問題の存在とその大きさの否認です。第2の否認は長年の飲酒による心理的防衛(否認,投影、合理化、自己中心性、強迫傾向)に基づく思考、感情、行動の偏りへの否認と経済・職業問題、家族問題などの関連問題への否認です。
この否認を乗り越え回復を進めるために医療は診察を通じての精神療法、プログラムを通じての心理教育や集団精神療法による病識の獲得、自己洞察、関連問題への洞察を目指します。そして自助グループ(断酒会やAAなど)への導入と定着の支援を通じて自助グループの活動による第二の否認をのり越えた回復を期待しています。

2 否認に関連する要因
 心理的メカニズムとして「否認」が生じる関連要因として、(1)知識の不足で、アルコール問題を性格や人格と関連付けネガティブにとらえている、(2)酔いに伴う認知の歪みやブラックアウトによる記憶の欠落、(3)都合の悪い記憶はすぐに忘れる記憶の楽天性、
などが考えられます。これらの要因からはアルコール依存を疾患として正しく認識することや飲酒当時を想起することが「否認」を乗り越えるのに有効に働くと考えられます。

3 アルコール依存症の回復と新生
アルコール依存症の回復は「単なる断酒の年数ではなく、断酒を軸にした人間的成長の
プロセスで、バランスのとれた新しい生き方ができるようになること」とされています。断酒は回復のスタートであり、ゴールは「バランスのとれた新しい生き方」です。断酒はアルコール依存症の回復の必要条件ではありますが十分条件ではないということです。
飲酒生活でアンバランスになった認知、感情、行動を問題として認めバランスの取れた
新生へと自己変革を目指すことが回復です。バランスのとれた生活とは「栄養や運動を考慮した身体的バランス、物事を正確に判断し、感情や行動をコントロールする精神的バランス、家族・同僚・友人と適切な人間関係を結び、問題を合理的に解決し、社会的責任を果たす社会的バランスが保持されている状態」と言えます。

4 断酒会による回復と新生
断酒会の「体験談に始まり、体験談に終わる」という体験談重視の原則は回復と新生に最良の方法です。これまで酔った上の武勇伝が当事者の体験談の主流でしたが、飲酒生活で認知や感情や行動が歪み、その結果どのような生活問題が生じ、家族や子どもはどのよう生活を余儀なくされたのかを問題と認め、体験談として語ることが自己変革ためには欠かせません。その結果が第2の否認を越えバランスのある新生につながります。
 断酒会で上記のような体験談を当事者が語り続け、仲間の体験談を聞き続ける交流は次のような大きな効用を回復と新生のためにもたらします。
(1)仲間の体験談を聴き重ねることで忘れていた過去を思い出します(想起)
(2)仲間の姿が鏡になって自分自身の姿に気づかされます(自己洞察、病識)
(3)同じ過ちを繰り返さない現在の生き方が仲間に受け入れられることを通じて過去の自分を許せます(許し)
(4)過去の体験をこれからの生きる糧にできます(過去の体験を活かす)
(5)仲間の姿を回復と新生のモデルにできます(モデルを得る)

「無縁社会」「孤族社会]と呼ばれるこの社会で生きる多くの人々は不幸です。それらの人々が他者との絆を深める自己変革と成熟を願ったとしてもそのための仲間と場がありません。しかし、アルコール問題で生活破壊と家族崩壊の危機を経験した人たちには断酒会が待っています。仲間のつながりを絆として自己変革と成熟に取り組むことは個人の幸せの実現だけでなくささやかながら社会変革につながります。


2013/05/15のBlog
写真新阿武山病院
新阿武山クリニック
精神科ソーシャルワーカー
全日本断酒連盟顧問

福井県立大学准教授 社会学博士
西川京子
全日本断酒連盟発行「かがり火
第174号3月号(2013年3月1日付)より転載
断酒会による家族の回復と新生
 ―第2の否認を乗り越えて―

 新阿武山クリニック 西川京子

 前回、アルコール依存当事者の回復と新生に対して断酒は必要条件であるが、十分条件ではないと書かせていただきました。「生まれ変われるものなら酒害者になりたい。飲酒中も、断酒後もびくびく、おろおろ、機嫌を取りながら暮らす家族にだけは生まれ変わりたくない」と、「さんざん苦労させられた夫への怒り、恨み、憎しみは、今では生きがいです。自分を変えるつもりはありません」と被害感、自己憐憫、自己の正当化を明かす家族の発言から家族にとっての回復、新生について記します。

1 断酒会における家族の位置付け
 昭和33年に結成した高知県断酒新生会は翌年80名の新入会者を得たが唯1名も定着しなかった。翌々年の35年の新入会者では妻と共に例会に参加していた1人のみが定着した。この事実から松村会長は「例会には夫婦ともに出席しよう」と呼びかけたと、高知県断酒新生会の『「断酒会」語録に学ぶ』に書かれています。昭和35年、東京断酒新生会の家族は「断酒のサポーターになる」ことを目的に「白菊禁酒婦人会」を結成しました。昭和37年、高知県断酒新生会の家族は「夫を酒から守る会」を結成しました。これらの経過は断酒会の創成期、家族は「断酒の協力者」として位置づけられていたことを示しています。
1980年、AAメンバーの家族や友人の自助グループアラノンの活動が日本で開始されました。アラノンは、アルコール依存症からの回復支援と飲酒問題により受けた影響から立ち直り、成長することを活動の目標としていました。相前後して、米国から、依存症当事者と家族の関係の病理に関する共依存という概念が伝えられました。医療・保健・福祉の専門職はアラノンの理念や新しい概念から学び「家族も病気で、回復と成長が必要」と伝えました。そこから家族には「断酒の協力者」という従来の位置付けに、「自らの回復と成長の必要性」が加えられました。それは、家族会員の新旧世代間および専門職援助の活用の有無によるギャップを生みだし、それが近年の家族会員の減少に影響していると考えます。

2 家族にみられる断酒後の問題
(1) 家族の否認
アルコール家族の第1の否認は「病気ではなく性格や人間性の問題」とする認識で、第2の否認は「家族には改めることは何もない」とする認識で、共にアルコール依存症の知識のない状態で、飲酒問題を抱えた生活を生き抜く中で生じた認識です。
(2) 過度な自己の正当化、被害者意識、自己憐憫
第1の否認は「病気で片づけられてはたまらない」という思いをもちながらも、専門職の援助や断酒会で知識をえる中でのり越えていきます。第2の否認は飲酒による過酷な生活体験から生まれた過度な自己の正当化と被害者意識と自己憐憫により、自らの成長や自己変革の必要性を否定するもので、知識をえて、同じ立場の家族に出会い、回復と新生のモデルをえて、意識的な努力でのり越えていきます。

3 家族の回復と新生
長年の飲酒問題から影響を受けない家族はいません。認識、感情、行動に偏りや歪みが生じ、視野が狭くなり、感情のコントロールを失い、自分を見失い、アンバランスになったとしても不思議ではありません。これらの飲酒問題から受けた影響を認め、栄養や運動に配慮する身体面、正しい判断と感情と行動をコントロールする精神面、合理的に解決し、適切な人間関係を維持し、社会的責任を果たす社会面でバランスの取れた生き方ができるように成長することが回復であり新生であると思います。

4 断酒会による家族の回復
これまで、家族の体験談の主流は依存症当事者の酔ったうえの暴言、乱行、または、断酒への感謝を語ることでした。断酒の協力と家族自身の回復と新生のためには、飲酒問題の中で家族の認知や感情や行動がどのようにアンバランスになっていたのか、その結果家族も子どもも依存症当事者もどのような状態になっていいたのかを自省し、語ることが体験談として欠かせません。家族が断酒会で体験を語り、他の家族の体験を聞くことを通し過去を思い出し、他の家族の姿を鏡として自分自身に気づき、目指すべきモデルを得て、温かい家族の絆を取り戻し、回復と新生を進めることになると思います。
この様な家族の回復と新生のためには、全断連が断酒会を依存症当事者のみならず家族の回復と新生のための場とする認識の共有とそのための枠組みが必要だと考えます。


2013/05/14のBlog
写真ーーー> 川西文化会館
平成24年1月22日(日)
兵庫県川西断酒会創立30周年記念大会
家族の体験談

夫がアルコール依存症という診断を下されたのは、今から10年前の
ことでした。
当時肝臓を悪くしてかかっていた内科の先生から、専門の
クリニックにつながりました。
その時は通院のみで、断酒会のことも知
りませんでしたが、順調に断酒し、翌年には仕事に就くこともできました。

それが、7年後の11月、いきなり仕事を辞めて連続飲酒に陥ってしま
いました。
その時から私たち夫婦のまさに地獄の日々が始まったのです。
 夫は飲むと朝も昼も夜もなく、飲んでは寝て、起きるとまた買いに行
き、飲んでまた寝るという繰り返しで、お風呂にもはいらず、着替えも
せず、お酒以外のことは全くどうでもよくなってしまいます。

アルコール臭と体臭でひどい状態で、私は家に一歩はいるとその匂いだけで、
心が萎えてしまいます。
 私は自宅近くで弁当店を営んでいます。
自営ですのでめいっぱい仕事
をしていて、朝8時から夜11時まで、休憩をはさんで毎日12時間以上
働いています。
夫は病気なのですから、私が働くのは当たり前ですし、働くこと自体に
不足はありません。
 
だけど夫はお酒を飲むと、私を傷つける言葉を繰り返します。
飲んでいない時は本当に優しい人なのですが、いったんお酒がはいると、自分
の立場も忘れて私に暴言を吐きます。
酔っていてまともではないからと思っても腹立たしく、悲しく、情けなく、悪魔に
とりつかれたような夫を相手に、無駄なケンカをしてしまうのです。
 
翌年1月、新阿武山病院に入院しますが、焼酎を院内に持ち込み、
強制退院になり帰ってきてしまいました。
その後2回の入退院を繰り返し、川西市断酒会にも入会しましたが、例会も
続かず、病気は進行する一方で、途方に暮れる毎日でした。
 
この人はいったいどうなってしまうのだろう、いつになったら気がつく
のだろう、病院もダメ、断酒会もダメ、どうしたらいいのだろう・・・そん
な時、私の店に会長ご夫妻が来てくださいました。

断酒会には入会しましたが、断酒とはほど遠いことを繰り返す夫でした
ので、何となく足が遠のいていた時でした。
ほんの数回例会に顔を出しただけの私たちのことを、本当に心配して
来てくださったのです。

 断酒会の方たちのなんと心の深いこと。
まるで自分のことのように私たちのことを気にかけ、心配してくださり、
家族の方は、私たちもそうだったのよ、諦めずに頑張って、と手を握って
くださいます。
酒害者の方たちは、自分でもやめられたんだからご主人もきっと
やめられるよと励ましてくださいます。
近隣の例会に行くと、それぞれの会で皆さんが声をかけてくださいます。
 
私はもう断酒会に行くしかないと思いました。
飲んでつぶれている夫を置いて、一人で何度か例会に行きました。
その後夫もわりとすんなり例会に出るようにはなりましたが、お酒を
やめるために断酒会に行っているのに何度も何度も再飲酒し、
そのたびにケンカになり、私たち夫婦の関係はすっかり冷え切った
ものになってしまいました。
 
あの、優しくて思いやりのある夫はいったいどこへ行ってしまったのか、
これでもかと嘘を重ねて、飲むためには手段を選ばない夫を見ている
と、もう私たち夫婦に将来はない、と絶望的な気持ちになります。
店ではみんなが帰った後、一人になって何度泣いたかわかりません。

仕事は普通にしないといけないのに、心の中はズタズタ、という状態
がどれだけ続いたでしょう。
これからどれだけ続くのでしょう。
私がいったい何をしたというのでしょう。
 
でも、こんな病気にかかってしまった夫の苦しさ、辛さも少しは想像
できるのです。
きっとふがいない自分を責め、嘆き、どうしようもなくなってお酒に
逃げる、そんな自分が情けないのに、妻には責められる、
それが辛くてまたお酒に手を出す、地獄の悪循環を繰り返している
のではないでしょうか。
 
私たち夫婦は今まさに破綻寸前です。
夫の回復を願う私ですが、最近、もうだめなのかな、と離婚を考える
ようになりました。
だけど夫が本気で再出発をしようと思うのなら、私はできるだけの
ことをしたいと思っています。

私たちの戦いはまだまだ続きますが、断酒会から離れず、幸せに
なりたい、ただそれだけを願い前を向いて歩いて行きたいと思っています。
 

2013/05/13のBlog
『苦しい過去から這い上がって』
広島断酒ふたば会 北支部
林田 敬子
20**年**月**日
広島断酒ふたば会創立44周年記念特別例会
(開催場所・住所)
広島断酒ふたば会発行「広島断酒 ふたば No.525」(2011年3月1日付)より転載

皆さんこんばんは。北支部でお世話になっています家族の林田敬子です。本日は広島断酒ふたば会創立44周年おめでとうございます。この記念すべき日に、体験発表をさせていただけることを心から感謝しております。

私たち夫婦は、三十六年前に職場結婚をしました。結婚当初、夫は日本酒、私はビールで一緒に晩酌をしたり、二人で近くのすし屋に行っては季節のモノを握ってもらい、お店の人と楽しく飲んで、騒いだりした時期もありました。しかし、夫は結婚してから結構早くから二日酔いで休むようになりました。二日酔いで休んだ翌日は、真面目に働いているので、私もしばらくすると忘れてしまいます。

そうこうしているうちに、また飲み過ぎては仕事を休むようになり、これを何回も繰り返していました。私は、「なんで同じことを繰り返すんね」、「一回失敗すりゃあ、分かるでしょうが」、とだんだん夫を責めるようになりました。休日前からどんどん飲み出すのを見ていると、また月曜日に休むのではないかと不安になり、一升瓶の中身を流しに捨てたり、水で薄めたりしました。

それまで一緒にしていた晩酌も、いつしかそれぞれが飲みたいだけ買ってきて、それぞれ勝手に飲むようになりました。また、夫は飲むと、「あいつはアホじゃ、あいつはバカじゃ、あいつはつまりゃせん」、と人の悪口をよく言いました。「皆は働いているのに、休んで飲んで、あんたは何よ」、と私はうんざりしていました。

そんな生活をしながらも、二人とも子どもが欲しくて、私は婦人科に通院し、結婚五年目にやっと子どもを授かることができました。この時は、本当に嬉しかったです。しかし、念願の子どもが生まれたというのに、夫の酒はどんどん増えていき、二日酔いだけでは済まなくなりました。

無断欠勤をして二日も三日も飲み続け、絶対飲んではいけない場所で飲酒してしまい、とうとう降格させられました。そんな自分を周りがどう思っているのかと皆の目が気になって、最初の職場を退職してしまいました。

それからが連続飲酒の始まりでした。一週間も飲み続けて休むので、仕事にはなりません。本当に情けないと思いました。この時、ある断酒会を紹介してもらい、夫が三十九歳の時に入会しました。夫は簡単に酒を止めたので、私は、酒を止めるのは容易(たやす)いことだと舐めてしまい、二人とも例会に通うのを途中で止めてしまいました。

しかし三年後、夫の再飲酒が始まってしまい、それからが大変でした。酒の量も増え、年に何回も連続飲酒をするので、職場もコロコロ変わりました。働かない時期もあったで、酒を買うオカネがないと子どもの貯金箱からオカネを盗み、お年玉を盗り、私の財布から小銭を盗って、どうやってでも飲んでいました。

私は、こんな夫を性根がないと責め、臭い、汚いと罵りました。目の焦点が合っていないと言っては怒り、夫がご飯のお替りを頼んでも無視しました。この頃の夫は、素面(しらふ)で私の冷たい顔が見られないため、帰宅する前に二、三合の酒を飲んで、頭をぼかしてから帰っていたと思います。飲む、責める、飲むので、また責める、この悪循環に嵌(はま)っていました。

ある年のお正月、前日の大晦日から特級酒を買ってきて、「ええ酒は二日酔いせんのじゃ」、と家の手伝いもせず、どんどん飲んでいました。あっという間に飲んだのでしょう、元日には二級酒の白牡丹も空いてしまい、だらしない姿で寝ていました。初詣から帰った私は思わず、「正月早々性根がないねぇ!」、と大声で怒鳴りました。

夫は突然、「わしゃ、性根がないんじゃ」、と言って包丁を持ち出し、片手に持ってタオルでぐるぐる巻いて、今にも手首を切ろうとしていました。私は、夫の思わぬ行為に仰天して、「ごめん、病気なんよ。病気なのに酷いことを言ってごめん」と謝って、座り込んだ夫の背中を必死になって撫でました。子どもも寄ってきて、「お父さんは病気じゃけえ」、と言いながら、父親の背中を一生懸命撫でました。

何とか、包丁は取り上げましたが、夫は、三日三晩付き添っていないといけないほど混乱した状態が続きました。私は、この時ばかりはほとほとくたびれて、つい、「少しずつ飲む?」、と言ってしまいました。夫は哀れな声で、「飲ましてくれる?」、と答えたので、とうとう私の方から飲酒をさせてしまいました。

今、振り返ってみれば、この時は相当異常な状態でしたから、専門の病院へ相談に行っても良かったのですが、そんなことは思いつかず、「何でこんなオトコと結婚したのか。いっそ死んでしまえばいいのに。二度とこんな目に遭いたくない」と、やり場のない怒りで狂いそうでした。

どうしても酒を止められない夫も苦しかったでしょうが、一番辛くて苦しかったのは、子どもだったと思います。私は、自分がしんどいがために、子どもに八つ当たりしていたこと、子どもの前でしてはならない夫婦喧嘩で、夫や私の狂った姿を見せ続けていたことに気付きませんでした。今から思うと、子どもは、「何とかして!」、というサインを何度も出していました。

私が笑うと、「お母さんが笑った」、と喜んだ時。「夜寝ていて、お父さん!と呼んだら、振り向いたお母さんの顔は、鬼のような恐い顔だった。お母さんと呼ぶと、お母さんの姿が、スーッと消えていった」、と夢の話をした時。ヒチコックの鳥の映画をテレビで一緒に見ようと誘ったら、「僕は虫がいっぱい出てくる夢を見るけえ、見ん」、と言った時。そして、夫婦喧嘩を見て、「僕は生れてこにゃあ良かった」、と泣いた時。思い出せばいっぱいあります。

私は、夫の酒による被害者意識でいっぱいでした。しかし、やっと授かった、かけがえのない子どもに対しては加害者になっていました。そのことに気付いたのは、断酒会に入って、夫が断酒してからです。

子どもは高校に入ってすぐ腰を痛めました。クラブ活動に出られなくなってから、学校を休むようになりました。夫はそのことを知ってショックを受け、また連続飲酒になり、とうとう自分のチカラでは酒が切れない状態になりました。呉みどりヶ丘病院に入院させていただき、やっと酒を切ることができました。

この時私は、夫婦の仲を修復しないと子どもに申し訳ないと思い、夫の断酒に本気で取り組む気持ちになりました。退院と同時に、ふたば会に繋がらせていただき、例会出席を始めました。多くの先輩の、たくさんの助けがあって、お陰様で現在まで断酒させていただいております。

私が断酒会に入会した当時、夫はまだ飲んでいた頃で、(私は、)「仕事をコロコロ変わって迷惑を掛けられました。夫には七十歳まで働いてもらいます」、とよく発言していました。それを見かねた先輩が、「林田さん、あなたが如何に言っても、ご主人が気の毒だから、それを言うのだけは止めてあげて」、と言って下さいました。それからは発言を控えましたが、心の中では思い続けていました。

しかし、現実にはいろいろな事情で、夫は六十歳を前にしてリタイアしました。私は、六十歳を過ぎた今も働いています。その頃から、夫に対して割が合わないという気持ちがいつも私の心を支配しするようになり、断酒していても良いことは一つもないと、再び被害者意識がいっぱいになりました。何年も断酒会に通っていても、そんな気持ちになって、いつまで経っても回復できないと、自分に腹が立ちましたが、どうしても自分の心をコントロールできませんでした。

しかし先日、断酒後の生き方として、「人間は、周りの人を慈しむだけでも価値を発揮する」、という言葉を聞いて、私はハッとしました。夫は今、九十七歳の母を毎日のように訪ねては思いやり、先日結婚した息子夫婦を大切に思い、そして私にも温かく接してくれて、周りの人を充分慈しんでくれています。

このような夫の思いやりは、飲んでいる時はできなかったけれど、断酒させていただいているからこそと、気付きました。苦しい過去から這い上がって来た二人です。過去の苦しみを決して無駄にしないよう、これからは幸せになれるように、チカラを合わせて生きて行きたいと思います。

そうしたことに気付かせていただいた例会を、これからも大切にして、出席し続けて参ります。つたない内容でしたが、以上で体験発表を終わらせていただきます。ご清聴有難うございました。(了)
2013/05/10のBlog
[ 17:38 ] [ アルコール依存症の家族へ ]
● 中田陽造 大阪大学大学院元助教授(講演時点現職)
 公益社団法人 全日本断酒連盟顧問
 神戸協同病院特別指導医
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●金岡中央病院副院長 高野 善博
 社団法人大阪府断酒会顧問
『アルコール依存症者の家族へ』ーーーーここから
●特定医療法人 大阪精神医学研究所新阿武山クリニック西川 京子『向き合おう 家族』 No6-1~No6-6これから
公益社団法人 全日本断酒連盟顧問