ニックネーム:  パスワード:
| MyBlogトップ | Blogポータル | ブログガイド | よくある質問 | サポート |
川西断酒会 ☆酒害に悩む本人と家族の方へ☆ 「必ず立ち直れる」と信じてください
記事一覧イベント一覧
[ 総Blog数:268件 ] [ このMyBlogをブックマークする ] [ RSS0.91  RSS1.0  RSS2.0 ][ ATOM ]
前のページ   |   次のページ
2010/01/26のBlog
『飲酒文化研究』
奈良県立医科大学 HUMANITAS第29号(平成16年3月)より抜粋
(社)全日本断酒連盟顧問
大阪大学大学院 元助教授
神戸協同病院特別指導医
中田 陽造

PDF A4サイズ 14枚 閲覧または、プリント出来ます。
2010/01/23のBlog
「アルコール医療とは Ⅱ」
全日本断酒連盟顧問
香川県三光病院院長
市川 正浩
(写真は琴電志度線原駅・高松市牟礼町)------->
 昭和55年12月より、三光病院の院長を務めている。当初よりアルコール関連問題に関心を持ち、当院は、香川県断酒会に単独で参加していた。実際、断酒会による自助グループの成果を事実として実感できたのは、それまで院内でトラブル・メーカーとして知られていた酒害者が、退院後断酒会で、酒を止めている事実を見せつけられたからであった。以来、アルコール医療は、自助グループ抜きでは考えられないと痛感し、院内の患者さんを1人、2人を引率して、断酒会へ行くようになった。

 昭和58年より、院内断酒会を週1回開くようになった。当時、院内の患者は3、4人しかおらず、院外から3、4人の断酒会の会員さんが出席してくれた。また昭和60年に、独立開放型のアルコール依存症専門治療棟(30床)を建て、断酒センターと命名した。実際、開放病棟にした方が、院内飲酒や外出・外泊時のトラブルが殆んどなくなることが分かり、徐々にプログラムが組めるようになってきた。

 当時より、入院期間は原則として1クール4週間と決めた。最初の1週間は、ひたすら解毒治療に当てた。個人差はあるが、身体的に問題がなくなれば、入院後3日からでも、院内例会に出席していただいた。入院中であれ、県外の一泊研修会や断酒学校にも、どんどん参加していただいた。もちろん、医師や看護士、ケースワーカーなどのスタッフも一緒に参加した。このことが結局、退院後の断酒につながるのだが、同時に配偶者と家族にも、院内断酒会や地域断酒会への出席を促した。

 このような精神的な実践活動にも拘らず、当時の断酒成功率は低迷していた。この頃は、香川県断酒会の地域例会にならって、院内断酒会でも、酒害者本人の酒害体験を優先して体験発表をしていた。しかし、15年前、ある患者さんが診察時、私にこう訴えてきた。 「この方式では、私は断酒できん」、 「なぜですか?」、 「酒害者本人の体験談は信用できん。院内断酒会で大きなことを語っても、現にあの人達は、酒を止めることができず、再入院してくるではないか。だから、信用できん」、 「だったら誰の言葉が信用できるのですか?」、 「家族です、家族の体験談だったら信用できます」

 以来、三光病院の院内例会では、優先的に家族の方に体験発表をしていただくことにした。そして約2年前から、香川県断酒会の地域例会でも、この方式が採られるようになった。現在、香川県断酒会の会員中、約58%が三光病院の退院者で占められているが、県内の保健士さんからも、この家族優先の体験発表方式にポジティブな評価が寄せられている。

 実際、アルコール医療の本場であるアメリカのベティ・フォード・センター(フォード元大統領夫人が建てた病院)やサウス・コースト・メディカル・センターでも、家族を中心とした体験発表が勧められており、極めて大きな成果をあげている。特に、サウス・コーストメディカル・センターは、保険会社の経営している病院で、入院期間は3週間となっていて (保険会社による効率のよい経営方針に依るものと思われる)、三光病院の4週間のプログラムとやや似かよっている。三光病院の場合、4週間のプログラムを組んでいるのは、また別の意味があるのだが、ここでは省略する。
 
 家族優先の体験発表方式は、家族のいる酒害者だけでなく、シングルの酒害者にとっても重要である。断酒会のバイブルである松村語録(断酒会の創設者・故松村春繁氏の語録)によると、「断酒会は、夫婦ともども、家族ぐるみで出席しよう」という一説がある。断酒会黎明期の頃は、シングルの酒害者には充分理解されていなかった。

 「妻がいるから、酒が止められるんじゃないか」、「家族がいるから、断酒できるんじゃないか」と、シングルの酒害者に思われていた。ところが、家族が優先的に体験発表するようになってから、変化が起こってきた。シングルの酒害者が、「何故、自分たちは、シングルになったのか」、「何故、妻や子どもが、自分から離れていかざるを得なかったのか」 ということに気付き、理解できるようになっていった。シングルであれ妻帯者であれ、家族の体験談が、本人の体験談以上に重要だということがいえる。

 アルコール依存症では、実体験に基づいた自己省察を、週2回の院内断酒会や地域の断酒会、一泊研修会、断酒学校などを利用して行なって行く必要がある。しかも、一生である。今回、三光病院では、全日本断酒連盟と共同で、断酒プログラムの製作を進めているので、のちの機会に紹介する。
 …次号以降へ続く…
2010/01/19のBlog
「断酒会断酒会でつかんだ幸せ」

兵庫県川西断酒会 S/B
 
 主人はお酒のメーカーに勤務しています。問題飲酒の始まりは、呑み屋さんのあるネオン街での飲酒がきっかけでした。アルコールが入りますと、気がとても大きくなって、派手にお金を使いまくっての散財!帰宅は毎日午前様!サラ金から借り、銀行で借金をしてまで、派手に飲み食いする飲酒の姿。もはやネオン街で飲むこと以外、何ひとつ考えられなくなっていました。
 
 そのうち職場でも、遅刻や欠勤などの怠業、ミスが度重なって、職場の仲間との信頼関係を無くしていきました。そんな状態ですので、父親であり物心両面にわたって一家の柱であるべき存在の夫が、どうでもいい人になっていました。

 たまに帰ってくる夫に、「私や子供はいつまで我慢すればいいのヨ!」とガミガミ小言を言ったり、「こんな人生を送っていると破滅するわヨ!」と説教したりしていました。夫にとっては、家庭は憩いの場ではなく、妻の怒りを受ける苦痛の場に変わっていき、夫婦とは形だけ、形だけの親子、形だけの職場と仕事。家庭といっても中身の無いものになって、家族の情愛と信頼関係が崩壊していったと思います。

 夫はアル中ではない!、アル中のイメージを、我が家よりもっとひどい家庭があると思っていました。アルコール依存症が進行する過程での症状の変化と正しい知識を知らず、専門医によるアルコール治療も受けなかった期間は、家庭内離婚と崩壊した家族そのものでした。アルコール依存症が病気であると気付き、もっと早く治療を受けておれば、夫婦の絆もはるか容易に回復していったに違いありません。

 香川県・三光病院の市川先生を訪ねた際、「県外研修、例会出席しなさい、治りますよ!」のひと言をいただきました。「治りますよ!」にどれだけ慰められ、希望が持てて、嬉しかったことでしょう。夫と共に例会出席、各地の大会・断酒学校に参加することで、「共に生きる幸せ」をつかんだ気がします。

 今、一番頼りになる夫が、近くにいる幸せの実感!これも断酒継続のお陰と思います。断酒会の仲間は、酒害地獄の苦しみを体験した人の集まり、お互いの悲しみが分かり合える会だと思います。今、9年目に向かって夫婦で頑張っています。現在の幸せは、今日まで支えて下さった会員の皆様のお陰と感謝しております。ありがとうございました。(了)
2010/01/11のBlog
「陽はまた昇る」
大阪府高槻市断酒会
近藤 修
大阪府断酒会 会報「なにわ 第69号」より転載
(平成22年10月1日発行)

(写真はテレビ朝日の本社がある六本木ヒルズ港区赤坂)----->
 
 音楽が好きで学校帰りに友達とよくレコード屋に入り浸っていました。それで高校を卒業してすぐにレコー会社に就職。宣伝、営業をずっと。チャンスがあれば、歌手になれると単純に考えておりました。

 ところが、そう容易いものではなく、その夢を諦め、裏方に徹する事に。ただ、飲む機会は仕事上多く、もともと酒が好きだったのでしょう、はまりました。宣伝では、歌手のプロモーション。企画立案、新曲キャンペーン、TV、ラジオ、取材、披露パーティーの進行、受付、司会等何でもござれ。

 終われば皆と定番の飲み会。そんな毎日が続きました。それでも若いうちは体力もあり、仕事や遊びの面でも酒は楽しいものでした。結婚して息子が二人出来て、家族と一緒に旅行に行ったり、時には妻との晩酌も楽しい日々。

 40代後半に管理職となって、職場での責任も重くなり、息子たちも思春期を迎える頃になると、学業、素行と色々と問題を起こすようになり、悩み多い中年の日々へと変わっていきました。

 一方、職場では意見の合わない上司と対立して、何度会社を辞めようと思った事か。また、昇進でも差をつられ悩み、苦しみ、そんな時、一人で飲んで酔っている時が唯一安楽の世界でした。

 現実の辛さから逃げられるから。仮病を使って会社を休んだり、仕事を早く切り上げ、人目を避けて立ち飲み屋で一杯ひっかけ、酔っ払い運転して家に帰ったりしておりました。

 それでも、「一戸建ての家を持つ」、「子供達を立派な社会人に育てる」、「将来の生活基盤を造る」、という目標があり、何が何でも、「定年までは頑張るぞ」という気持ちがあって、どんな飲み方をしていても、家庭や会社でも大きな問題を起こさずに済みました。

 しかし、いざ定年退職してしまうと、思っていた以上に退屈な日々。あれだけ長年多くの人の中で生きてきただけに、また、頼られてきただけに。妻や子供達が出かけた後は、一人家に取り残され、もともと大酒飲みですから、自然と朝から酒に手を出すようになってきました。

 酔っては華やかだった頃をいつまでも引きずり、そして今の一人の自分を情けなく思い、「頑張ってきたんや」、という慰めと、「もう用なしや、生きていても仕方がない」、という失望感が交錯するのです。

 さらに自暴自棄になり、妻や子どもたちが止めるのも聞かずに飲み続け、やがては隠れて飲むようになっておりました。家族にはケチばかりつけ、もう完全に閉じこもり状態。独りよがりの考えからどんどん酒に溺れ、家族や周りの人を思いやることも出来ませんでした。

 二年前の九月に新阿武山病院に繋がり、二ヵ月余りの入院生活で、「アルコール依存症からの回復」を学び、最強のパートナーと呼び合う仲間とも出会えました。

 現在(いま)、断酒会の中で、信頼する今西会長の下で素晴らしい仲間と共に「断酒会活動」をさせて頂き、断酒継続も出来ております。例会、研修会、記念大会、断酒学校等通じての仲間との語らいで、「こんな生き方出来るんや」、と新たに生きる歓びを感じさせて頂いております。

 妻からは、「あの頃は、どうしていいか分からず、ただオロオロしていた」、と言われ、「再飲酒したら、お父さん一人で暮らしてや」、と釘を刺されております。もう後戻りは出来ません。裏切る事は出来ないのです。二度と飲みません。この家族との今の元気で穏やかな生活を続けてゆく為に。何よりも第二の人生をより良く生きてゆく為にも。(了)
2010/01/10のBlog
「断酒会を信じて」
兵庫県川西断酒会 S/B

 昭和59年の春、家庭裁判所。周囲の景色もまったく見えない光の無い、暗い心の状態で、夫との協議離婚についてどのように進めていくか、弁護人をどうするかなどを話していました。

 飲んだ時の夫は、「仕事上の付き合いだ」、「クラブの市場調査だ」、「接待だ」とか、必ず飲んだことの言い訳に理由を付けているなあーと腹が立ちました。「どんな言い訳も通用するものか、ウソつき!」と心の中は夫への恨みごとでいっぱいです。

 夫の飲酒は時間を守らず、時を忘れて明け方まで飲み歩き、自宅へ帰らぬ日が二日や三日はザラ。飲み仲間の連帯保証人、サラ金を借りてまで他人の開店への援助金などなど。ネオン街での飲酒は散財し、サラ金に手を出すこと度々。  
 
 家庭では、サラ金や何日も連絡の無いことでの言い争い。子供が傍にいようがいまいが辺りかまず、母親であることすら忘れての夫婦喧嘩。口喧嘩したとて夫の酒が止まる訳でもないのに、また日々言い争いの繰り返し、まともな夫婦とは言えません。

 「夫が酒さえやめてくれたらいいのに……」と思うだけで、アルコール専門病院へ足を運ぶ前向きの気力すら無く、先の見えない言い争いの生活を繰り返していました。そんな時、家庭裁判所から県の精神衛生センターを紹介され、断酒会との出会いをいただきました。「例会に出席していたら、お酒は止められますよ!」との言葉が、遠くの方で見える微かな灯りのように思えました。

 でも、私が例会に行く日に限って飲酒して帰宅する夫、そんな夫の姿を見て、「やっぱり夫はアルコール依存症に間違いない、重症だなあ」と心の中で思いました。妻が断酒会に通わねばならないほどに、あなたは重症のアルコール依存症ですということを、体(行動)で示して行こうと決意したのも、この時期だったと思います。

 夫が本気で酒を止める日まで、一年でも二年でも、例会に通い続けてみようと心が決まりました。 それからは、夫の入会へのきっかけを求めて、断酒会へ通っていたところ、夫の飲酒運転事故が、入会へのきっかけとなりました。これからは二人で例会通いが出来る、これからは二人で頑張ろうと思っていたのに、例会の日に限って「仕事が残っている」とか、「自分は皆と違う仕事なんだ」とか言い訳をするのです。

 「入会しても、飲酒当時の我儘な心は変わらないなあ」と思う心が半分、 「もうしばらく待ってあげよう」という心が半分の日々。そんな毎日の中で「断酒新生」を誓う日が、県連研修会の「断酒の誓い」でした。

 今も我が家に離婚届の用紙が残っています。この用紙はもう破いてもいいのではと思う心と、ここまで行き着いた夫婦だから、断酒会へ通わなければならないんだ、そんな戒めのためにも、なぜか捨てられず残しています。お陰様でといえる日がやってきた今の私達、入会当初、多くの皆様に夫を導いていただき厚くお礼申し上げます。ありがとうございました。


「アルコール医療とは Ⅰ」
全日本断酒連盟顧問
香川県三光病院院長
市川 正浩
 
 ヤケ酒を飲んで、どうにもならなくなって、子供が離れていく。これで玉ねぎの皮が2、3枚はがれます。そうこうしているうちに両親が心配して、精神科に入院させてくる。今まで嫁の出来が悪いとか言っていても、息子のことは、両親でも手に負えないわけです。そのうち父親が亡くなって、玉ねぎの皮が1枚はがれます。最後は母親1人、子供1人になり、どうしょうもならなくなります。

 私の診察した患者で、92歳の母親に連れられた67歳の息子がいました。最初、診察室に入ってこられたとき、夫婦に見えました。親子に見えませんでした。アルコールは老化促進物質ですから、10年、20年と早く年をとります。だから92歳の母親と67歳の息子が夫婦に見えました。「奥さんですか」と最初にたずねると、「母親です」と答えるものですから、びっくり仰天してしまいました。

 入院の手続きを執っていると、看護師からも「夫婦ですか」といわれました。断酒会に出席するとそこでも「夫婦ですか」といわれます。3回言われるんです。だから母親にしてみれば、歯痒くて仕方ない。どこへ行っても夫婦に見られるんです。踏んだり蹴ったりです。だから母親にしてみれば、自分の息子でありながら、死んでくれたほうがましだと、考えを述べておられました。

 この母親の夫もアルコール依存症で亡くなっています。40代で亡くなり、今度は息子がアルコール依存症になりました。息子の妻もガンで亡くなっています。結局、アルコール依存症の息子と母親の2人きりの生活になってしまいました。この2人の生活は次の通りです。

 朝息子を仕事に送り出し、夜8時頃、もう帰ってくる頃だろうと家の前をウロウロするのですが、息子は帰ってこない。10時になっても、12時になっても帰って来ず、母親は家を出たり入ったりするのです。2時ごろになって、ようやく大声をあげながら帰ってきて、一日が終わる。

 こういう毎日の繰り返しで、兄弟が見るに見かねて、精神病院に入院させるわけです。この方も、今は酒を止めておられますが、やはり親子2人で断酒会に出ています。このケースの場合、玉ねぎの皮1枚でひっかかったわけですが、最後は1人になってしまうケースもあります。

 玉ねぎの皮が全部むけきって、芯だけになってしまったケースですが、自分自身に向かって、鉄砲をうっているようなものなので、これを別名ターゲット・シンドロームと言います。玉ねぎ症候群、ターゲットシンドロームなどの別名で言いますが、アルコール依存症、慢性アルコール中毒、飲酒症、アルコール症全部同じ意味です。

 ところが、家族ばかりか、医師としても、患者さんを信用できていませんでした。医師は割合疑い深いんです。看護者も同じですが患者さんを丸ごと信用するという訓練を受けていないんです。また悪いことをするのではないかとか、また院内飲酒するのでないかという、ネガティブな見方しかできませんから、患者さんもやはり失敗するわけです。

 先ず、ネガティブな見方を止めるんです。そして相手をまるごと信用するんです。だまされるということが非常に重要です。アルコール医療は、先ずだまされることから始めます。これは病院経営も同じです。まず相手を信用することから始めなければなりません。だまされて、だまされて、何度もだまされた上で、軌道修正して、こちらの誠意、信用を相手に返していくことが重要です。

 アルコール依存症者は、これをやられるとたまらんみたいですね。一度信用されてしまうと、それを裏切ることが負い目になるんです。だから信用しまくって、もう裏切れないというところまで持っていくんです。そうするとアルコール依存症の人は酒を止めます。

 あるケースとして、39歳の男性が、土曜日の朝、三光病院の外来に来ました。香川県の精神病院はほとんど入退院の経験を持っている人で、香川県断酒会に関わっています。西讃の方の人で、東讃の方の病院は知らなくて、三光病院はこのときが初めてでした。タオル一枚以外何も持っていない男性で、少し酔っぱらっていたので、入院させました。

 点滴1本打った後、直ぐに「外出させてくれ」と言ってきました。私は、「飲みにいくつもりだな、外出させずにやってみようか」とも思いましたが、どうせ入退院を繰り返してきた人だろうと思いなおし、「どうぞ」と言いました。「ただし条件がある。シアナマインドを飲んでいってください」と言いました。

 シアナマインドは、抗酒剤のことで、これを飲んだ上に、アルコールを飲むと、たちまち二日酔いのような状態になり、ゲーゲーと嘔吐するような薬です。体内に少しでもアルコールが入っていると、全然効かないんです。それでも入院中外出時には、必ず10cc飲んでもらってます。外来担当の看護士さんは、「最初にアルコールが入っているから、効かないんじゃないか」と言うんですが、「そうじゃないんだ。効かなくても、心理的なブレーキ効果があるから飲んでもらってください」と説明するんです。

 その人にも、シアナマインド10cc飲んでもらい、「何時頃、帰ってきますか」と尋ねますと、「5時ごろ、帰ってきます」と答えました。私はこの時、帰ってこないと思いました。しかし、外出させてみようと思いました。だまされてもいいじゃないか、だますのは相手の方だから、とことんだまされてみようと思いました。

 振り返ってみると、ここが重要だったんです。アルコール医療では、だまされたらどうしようかと、考えながらやってはいけません。だまされて当たり前、やってみないとわからないという考え方が必要です。わざとだまされるわけです。ここがとても重要です。これは、精神保健福祉法とも合致します。そのほうがやり易いんです。

 例えば任意入院の場合、「外出させてほしい」といわれれば、「はい、どうぞ」と外出させないと法律違反になります。精神保健指定医の指示だといっても、拘束期間はせいぜい72時間でしょう。どっちにしろ外出するのだから、「はい、どうぞ」とすぐ外出してもらったほうが、効果が望めます。

 果たしてこの人、5時に約束通り帰ってきました。「なぜ帰ってきたんですか」と尋ねると、「あれだけ信用されると、酒を飲むわけにはいかん」と答えました。私、あまりの嬉しさに握手して迎えていました。実はこの処遇に、アルコール依存症者は感激していくわけです。そして、月曜日になり、その人は「外勤に行かせてほしい」と言ってきました。「そんなフラフラで大丈夫?」と尋ねると、「大丈夫」と答えるので、「じゃ、どうぞ」とまた許可したのですが、頭のいい人ですから、それから一滴の酒も飲まずに、外勤にいってました。(次号に続く・・・)
2009/12/02のBlog
●ちょっと ブレイク
女性は幹事長』 
全日本断酒連盟 顧問 
香川県三光病院院長
市川 正浩(写真)

 アルコール依存症の医療に携わって、はや四十年が過ぎようとしている。だが、その半分の二十年は、全戦全敗であった。つまり、誰一人として断酒に至らせることが出来なかった。そもそも、アルコール依存症なる病気の正体がまったく見えていなかったというのが本質であろう。

 「これではだめだ」と思い、実際に断酒を果たしている人達の集まりである断酒会や一泊研修会に足繁く通い始めてから、徐々にアルコール依存症の正体が、ほんの少し見えてきた。しかしそれだけで、私の周りから断酒を果たす人が出始めた。以来、アルコール依存症の医療にどっぷりつかり、ここ十年、ようやく、アルコール依存症医療の機敏さが分かってきたというのが実際のところだろう。

 先ず、三光病院の院内例会の体験発表を、家族優先にした。それまでは、当事者優先であったが、当事者はどうしても自分本位にならざるをえない。だから試しに、家族の体験談を優先してみた。家族の体験談は長年酒害によって虐げられてきた家族の心の叫びである。

 やがて、当事者の態度に変化が出てきた。それまで単なる他人事のような表情であった当事者の顔つきが険しくなり、真剣に自らの酒害と向き合って行こうとしているのが分かる。その次に、当事者に意識の覚醒が起こり、断酒に至る。体験談を家族優先 にしたことで、三光病院のアルコール依存症当事者の断酒率が10倍に跳ね上がった。

 家族は、概ね女性である。私は、常々男性と女性は本質的に違っているという立場を取っている。例えば木でいうと、女性は幹であり、男性は華であり葉でもある。男性の人生は一見華々しく見えるが、どこか浮き足立って見えるのもその為である。あだ花、吹けば飛ぶような花である。それに対して女性は、幹であり、根であるから、一見地味なようでも、堅実でしっかりしている。

 俗に、幹事長という言葉がある。幹事長とは、その語源を辿れば、木の幹が腐っていないか、虫が付いていないかを点検する人である。つまり、その国の根幹に虫が付いて腐っていないかを逐次点検して、正していく最も重要なポストを狙う人、ということになる。家庭では、この幹事長の役割を果たしているのが、ほぼ女性ということになる。

 今でいうベストセラーとなり、本屋に行列が出来ていたと聞いている。そして、心中なる事件が一種のブームになったことがある。「流行るは、流行るは、乞食の寝たのも心中という」というのは、当時流行った俗謡である。この心中も、女性が主導権を握っているからこそ、うまく思いを遂げられる。間違って男性が主導権を握った場合どうなるか?男性が心中を持ちかけた時点で一度は女性に断られる。

 「死ぬのであれば、あなた一人で死んでください」 ということになる。そこでかっときた男性が、先ず妻と子供を殺す。そして自分の命を絶つ段になって、思うように命を絶てない。急に意気地がなくなるんでしょうね。「自分も死のうと思ったが、死に切れなかった」 と新聞の三面記事にもよく出てる。何とも不甲斐ない話だ。このように、男性と女性とは、本質的に違っている。私は、人類の前に女性ありきと思っている。

 最近巷では、女性にアルコール依存症が拡がっていると聞いている。とはいえ、私は、さほど憂いてはいない。女性のアルコール依存症者も、きっと断酒会で断酒を果たし、断酒会の中で、女性ならではのリーダーシップと舵取り役を、きっと果たしてくれるだろうと期待しているし、確信もしている。何といっても女性は幹事長なのだから。(了)
(夜明けまでの長い旅part 2より)

上記寄稿文A4サイズにてPDFプリントできます。
2009/11/27のBlog
『松村語録』 (全日本断酒連盟初代会長松村 春繁・写真)

 松村語録は、全国の仲間達が松村春繁初代会長より得た、最も感銘の深かった言葉を53に集約。以来、松村語録として伝えらています。なお、全日本断酒連盟発刊の『指針と規範』は、この松村語録を基に作成されています。

1.例会には必ず出席しよう。
2.一人で止めることはできない、無駄な抵抗は止めよう。
3.断酒に卒業なし。
4.今日一日だけ止めよう。そして、その一日一日を積み重ねよう。
5.前向きの断酒をしよう。
6.例会には夫婦共に出席しよう。
7.例会の二時間は断酒の話のみ真剣に。
8.自分の断酒の道を見出だそう。
9.断酒優先をいつも考えよう。
10.アル中は心身の病気である。
11.例会で宗教や政治の宣伝をしてはいけない。
12.酒害者の最大の敵は自分自身であり酒ではない。
13.自信過剰は失敗のもと。
14.失敗したらすぐ例会へ。
15.アル中は一家の病気である。
16.断酒会は、酒害者の酒害者による酒害者のための会である。
17.酒害者は酒のため墓場へ行くか、断酒会で酒を断つか二つの道しかない。
18.会員は断酒歴に関係なく平等である。
19.自覚なき酒呑みの多い中で入会された勇気に敬意を表する。
20.断酒会員には普通の人より何か優れたところがある。
21.節酒は出来ないが断酒は出来る。
22.飲酒に近づく予防のため自己の酒害を常に認識しよう。
23.酒害者に対する奉仕は自分の断酒の糧である。
24.仲間の体験をよく聞き、自分の断酒を再確認しよう。
25.家族、同僚の協力を得るために、絶対飲んではいけない。
26.断酒会に入会すること。
27最初の一杯に口をつけないこと。
28.時間励行。
29.仲間に励ましの手紙を書こう。
30.全国組織の拡大につとめよう。
31.厳しさのないところに断酒なし。
32.実践第一。
33.他力による断酒ではなく、自力、自覚の上に立つ断酒であること。
34.失敗しても悲観するな、成功への糧とせよ。
35.消極的だが初心者は酒席に出ないこと。
36.姓名を堂々と名乗り、断酒会員であることを明確にせよ。
37.各人の性格の相違を認め、各人が自らの体験を通じて体得せよ。
38.お互いが欠点や失敗を話し合って、裸の触れ合いができるよう努めること。
39.酒の奴隷になるな。
40.断酒会員であることを誇りに思え。
41.どんなことがあっても会から離れるな。
42.条件をつけて断酒をするな。
43.酒害者の最後の一人までも残すな。
44.素直な心で話を聞こう。
45.一年半したら会の運営に参加しよう。
46.私の屍を乗り越えて断酒会を益々発展させて下さい。
47.一県、一断酒会。
48.会員は人に疑われるような場所に行くな。
49.初志貫徹。
50.君と僕は同じ体質だ。断酒するより他に生きる道はない。
51.語るは最高の治療。
52.例会は体験発表に始まり体験発表に終わる。
53.聞くは最高の治療。
PDFにて、A4サイズ、上記プリントできます。</>b>
2009/09/18のBlog
「涙を流し自分を知った」
京都府断酒平安会
安部 孝義
(写真は京都山科区を流れる琵琶湖疏水)------>

 私のアルコールに関する武勇伝は数多くありますが、今日は先ず、断酒を最終的に決意した体験を話したいと思います。私は、福井断酒新生会に入会して、もう6年が過ぎようとしています。この度、やっとの思いで、初めて断酒3年ができました。

 現在(いま)もそうですが、私は、単身赴任の11年間、自由奔放の生活で、飲んで、飲んで、飲まれてきました。しかし、ことアルコールに依存症に関して、断酒会入会の前後も、外来通院と入院を過去に一度も経験したことがありません。

 平成18年5月、4度目の再飲酒。そして、同5月16日、名古屋の西山クリニックで、初めてアルコール外来を受診しました。 その時、心の中では70%の入院と20%通院、残りの10%は、アルコール依存症ではない! との診断を期待していました。家内と診察室に入りました。猪野先生から、私と家内に、「間違いなくアルコール依存症です。断酒会を知っているなら、通院で回復していきましょう」、と告げられたのです。

 家内と自宅に戻りましたが、家内は自宅に着くと、直ぐ仕事に出掛けました。私は、一人残された途端、涙が出て、そして涙が止まらず、思いっ切り、思いっ切り、声を出して泣きました。何で、この俺がアルコーコール依存症なのか、何で、俺がアル中なんだ、もっとうまく飲めたはずなのに。何度も何度も繰返し、自分に問い掛けましたが、猪野先生の、「間違いなくアルコール依存症です」の言葉がなかなか耳から離れませんでした。湧き出るような鼻水とうめき声。

 しかし、受診結果を会社の役員に報告しなければならず、パソコンのメールで、「私は今日、アルコール外来を受診して参りました。結果は、アルコール依存症です。私に対する処遇については、すでに覚悟はできております。常務のご指示をお願いします」。これだけの文章を約1時間かけて、泣きながら打ち込むと、自分自身が情けなくなって、涙が枯れるぐらい泣いたと思います。
 
 さて、私がアルコールを本格的に、真剣に覚えたのは、15歳の中学3年生の頃からでした。毎週土曜日はディスコに通い、高校時代は毎晩、焼き鳥屋でのアルバイト。毎日午後3時過ぎには、炭をおこしながらビールを飲み、開店後は、お客様からの、「まあ一杯」に応えていました。アルバイトがない日は、ディスコやライブハウスに通いました。酒とバンド演奏と少しの争いごと、そして一番大事な彼女探しと、毎日充実した飲酒の高校生活を送っていました。

 高校卒業直後に、胃の穿孔(穴が開くこと)で緊急手術。胃の3分の2を摘出し、約2ヵ月間の入院生活をしました。この時期だけが、禁酒できた唯一の期間でした。今から思えば、おそらくこの頃から完全なアルコール依存症だったと思います。 しかし、退院後直ぐに飲酒しました。その頃は、胃がないため、ブラックアウトの繰返しでした。約30年間、なんとか上手に飲酒し、「酒の飲めない奴は、オトコじゃない」、と思い続けてきました。

 会社では、顧客の接待と宴会担当部長としての活躍が認められたのか、酒で成功したように思えます。11年前、買収先の立ち上げのため、人事異動で単身赴任となりますと、私の生活は仕事よりアルコール中心の、本当に楽しい生活を送らせていただきました。

 私の会社は、臨床検査、血液検査を行っている会社(γ‐GTP等を測定)で、私はその営業部におります。自分で血液検査をして、検査結果を自分でチェックできたのも否認の理由となりました。辞令で、熊本、長崎、福井、京都と、次々と勤務地が変わり、現在の京都でも、月の半分ぐらいが出張の生活です。過去は、殆んど毎晩接待の生活で、酒臭い二日酔いで出勤しても、社員は特に何も言いませんでした。
写真は通町筋(トオリチョウスジ)の夜景・熊本市----->

 酒を飲むことで自己満足と優越感に浸り続けていましたが、8年前の3月31日、熊本で、接待が終わり朝4時に帰宅しました。そして、社長の車を無断で拝借、二日酔い(酒気帯び)での居眠り事故。水前寺公園の電車の停留所の車止めに激突。ハンドルが少しでもずれていたら、何人もの人の命を奪ったことか。今、思い出しても恐ろしくなります。

 とんでもない事故を起こしましたが、この前後にも、飲酒運転による事故を3回起こしております。この事故をきっかけに、家内から離婚話が出ていたことを思い出します。しかし、その当時は、アルコールが問題ではなく、ただ運が悪いだけだ、ただ昨日少し飲み過ぎただけだと、酒を止めることはまったく考えていませんでした。

 会社からのおとがめもなく、その後福井への転勤辞令が出ました。熊本で楽しく皆で飲んだ酒が、福井では、いつの間にか独りで飲む酒となり、マンションに引き籠っての連続飲酒。さらに、今日は富山、明日は敦賀、次の日は金沢、そしてその次は・・・と出張が続くうち、朝からロレツの回らない口調で会社に連絡を入れ、その後はお決まりの連続飲酒をするようになっていったのです。

 こんな状態を、早くから気付いていたのは家内でした。家内は、以前からインターネットでアルコール依存症を検索して断酒会を知り、私の状況とそれを照らし合わせて、「あなたはアルコール依存症だから断酒会に行って」、と言いました。その時は「バカな話をしやがって、俺は依存症じゃない、酒の飲み方が悪いだけだ。

 ならば酒をやめればいいんだろ。一人で断酒するから、断酒会には行かない。アル中の仲間には入りたくない」、と家内に告げました。しかし、断酒ができたのは半年だけ。一杯の水割りで、また連続飲酒。

 それを知った家内は、離婚するか断酒会に入るか、俺を責め立てました。腹の中では、何が断酒会だ・・・・。しかし、家内との離婚は考えたくないため、「行く」 と告げたものの、そんな所へ行って、大好きな酒がやめられるはずがないとの思いと、もう一つには、「断酒会」の文字がものすごく怖く、どう自分が裁かれるのか、どんな取調べを受けるのかと思っていました。

 やがて、例会当日を迎えるのですが、堂林会長が運転する迎えの車が護送車に見えました。断酒例会の会場に入る時も、刑務所に入れられる気分でした。 そして例会が始まり、周りを見ても普通の人ばかり。この人たちに裁かれるのか? と頭の中で考えていました。ひょっとしてアル中は俺一人かも、嫌味を言われる時間だけ我慢しておれば、帰ってからまた飲めると思いながら椅子に座りました。
 
 例会が始まり、最初に語る会員の一人が、「この時期は、熱燗で一杯ですかね」、と体験談を語る。何ということをこの人は言うのか、ここは断酒会なのに。しかし、次の人も、また次の人も、酒で失敗した自分の過去の体験談を話すだけでした。きっとこれは引っ掛けで、後から裁きがきっとあるに違いないと思い、皆の話をノートに記録しました。自分の順番になり、何を話したかまったく覚えておりません。

 例会が終わりに近づいた頃、当日表彰を受けられた大先輩が、「今日一日だけ我慢しなさい、明日は思いっ切り飲めばいい。でも、起きたらまた今日だから」、と「一日断酒」の言葉の意味を教えていただきました。その言葉が胸に突き刺さりました。断酒の在り方として、断酒例会参加の必要性を教えていただき、すごく気持ちが和らいだことを記憶しております。

 また、帰り際には皆さんから握手をしてもらい、「とにかく、今日一日だけ断酒」、と言われました。ある先輩からは、背中をパーンと叩かれ、「例会出席することだよ! 一日断酒だからね!」、と囁かれました。断酒会が自分の思いとはまったく違い、同じ悩みを持つメンバーが自分の過去について語る場だと分かりました。

 過去の飲酒状態を振り返りながらの単身赴任の生活を送るうち、遠く離れて住む家族に、如何に心配をかけてきたかと気付かされ、心がすごく落ち着きました。やがて、福井断酒新生会に入会することにしました。

 しかし、約7ヵ月後京都に転勤、そして4回目の失敗。「この一杯で止めよう、この一本で止めよう。明日から断酒しよう」、と何であれほど誓った断酒ができなかったのか。以前、京都府断酒平安会に行ったことがあります。その時にとんでもない生々しい体験談を聞き、「俺は違う」、と再度自分に否認の心が大きくなり、平安会を拒み続けたことを思い出します。

 また、マンションには娘からもらった手作りの100日・200日断酒の表彰状を横目に、私は涙を流しながら、飲み続けていました。

 私は二度結婚しております。前の妻は私と離婚後、アルコール依存症で他界しております。平成18年の5月、名古屋の我が家。前妻の長女と義理の息子、そして孫と今の家族一同が、初めて我が家に集まり楽しい日々を過ごしました。
写真は伊勢湾に流れ込む木曽川と揖斐川(手前)----->

 しかし、単身赴任先の京都へ戻る新幹線の車中でのことでした。隣の席で、脳天を強烈に刺激する、凄まじいウイスキーの香りと匂いとやら。私に悪魔からの誘惑の囁き、「今日のお祝いに、ウイスキーのミニボトルならOKだよ」。 早速、ミニボトルのウイスキー2本を注文。一口、二口、そして一気に!本当に美味しかった。しかし、

 京都に到着すると、身体がアルコールを激しく欲求する。もの凄い飲酒欲求でした。しかし、駅の売店は既に閉店。駅を出て、すぐコンビニへ走りました。ワンカップの焼酎を2本買い、そのうちの1本をその場で一気に飲み干しました。そして、マンションへ帰って、また1本。もう時刻は夜遅く。マンションの前にあるコンビニへの往復が何度も続くのです。それからは、一週間の連続飲酒。

 家内が異常に気づき、私の両親と連絡を取り、オフクロが4日目に京都に来てくれたのですが、殆んど記憶にありません。自分の息子が壊れていく姿を見たと、涙を流して例会で話してくれました。さらに5日目、家内と親父も京都に来て、三人が私の傍で監視しておりました。離脱症状との戦いが、本当に苦しかったことを思い出します。

 一人の自分は、「酒が飲みたい、酒が飲みたい、酒を飲め、飲んだら楽になれる・・・」、もう一人の自分は、「酒を飲むな、止めろ、酒を止めろ・・・」、と二人の自分との葛藤でした。

 離脱症状の苦しさを初めて経験し、家内から病院に行くことを勧められ、平成18年5月16日、名古屋の西山クリニックを訪ねました。その日は結婚記念日ですが、家内は13回忌と呼びます。あらためて、新婚生活、断酒生活の再出発の記念日となりました。

 やがて、会社の役員からメールが届きました。内容を見るまではすごく不安でしたが、「アルコール依存症は、酒を断ちさえすればいいんだ。 阿部は、阿部なんだ。 仲間だから、兎に角今は体を休ませろ。心から復帰を待つ」、との内容でした。嬉しかった、本当に嬉しかった。メールを読んだ後、枯れていた涙が出てきて、号泣に号泣しました。

 今では、拒み続けていた京都府断酒平安会に出席させていただき、本当に感謝しております。例会に参加して、各支部の先輩方の話を、素直に聞くことができるようになりました。過去、数回のスリップを繰返した時は、家内と娘に、「もう大丈夫、もう飲まない」、と何回も同じことを言っておりましたが、今では、「いつ飲んでしまうか分からない」、と言っています。

 だから、毎日例会に足を運ばなければならないと思っております。特に近頃は、毎日のように例会に出席させていただいております。 一生アルコール依存症と付き合い、向き合うには、「例会出席、例会出席」しなければ、「一日断酒」の継続はできないと思えるようになりました。

 思いっ切り、思いっきり号泣したあの日から、何とか一人で歩けるようになりました。兎に角、明るく楽しい断酒の日々を目指し、もっと朗らかな自分になれるよう、断酒会の中で生き続けて行きたいと思っています。例会に出席することで、「一日断酒」を実行し、これからも歩き続けます。本当に断酒道は一日断酒の積重ね、毎々々が断酒のスタートと思い続けます。ご一読いただき、ありがとうございました。(了)
2009/08/02のBlog
『もう、おとん とは呼ばせない』
平成19年12月18日
神戸市断酒会
清瀬 憲一

(写真は、神戸市メリケンパークの夕陽)------>
 
 5年前の大晦日。「お前なんかオヤジやない!出て行け!」。 長男のパンチが私の顔面を襲い、眼鏡がぶっ飛んだ。酒で酔っぱらい、酒に狂って女房に暴力を振るったのを見て、私をブチノメにした。スッタモンダの挙句、離婚。三人の息子と女房は家に残り、私は、年老いた父親の元に転がり込んだ。それでも私は、崩壊した家庭を、もう一度やり直そうなんて気はサラサラなく、酒浸りの毎日だ。

 そんな私を見て父親は、さすがに業を煮やし涙目で、「お前、この家から出ていってくれ・・・」。 その夜は節分で、まさしく、<鬼は外>に追い出されました。その日から、私はホームレスになった。

●ホームレス・・・・・、そして万引き
 その頃の私には、ヒトとしての品格なんぞ微塵もなかったと思う。ましてや、他人の目など、いっさい気にならなかった。道端に落ちているタバコを拾って吸い、自販機の釣り銭受けに、片っ端から手を突っ込んでいた。あまつさえ腹ばいになって、自販機の底の隙間に棒切れを入れ、コインをあさった。

 やがて、次・三男を言葉巧みに神戸駅まで誘い出し、わざとルンペン同様の姿を見せつけ、「頼むからカネ貸してくれ! この三日間、何も食ってないんや」。そのとき、「こいつらは、バイトで稼いでいるはずやから、二、三千円ぶったくってもどおってことないやろ」。そんな畜生の気持ちになっていた。

 それでも親か! 子どもたちは、その都度カネを渡し、「おとん、このカネでうまい物を喰って、風呂にでも入れよ」。 しかし、本心は、「おとん、もうこんな生活から早よう足洗って、まっとうな人間になってくれよ」、だったと思う。しかし、カネを手にすると、そんな気はパーッと飛んでしまい、酒に走った。カネがなくなるとどうするか。もう酒を盗むしかない。スーパー、コンビニで万引きを重ねた、そして御用。

●最後通告
 そんな生活から抜け出せたのは、私自身の力ではなかった。(あのおとん、何とかせなアカン)、息子三人の助けだった。県立光風病院に入院する前、長男は言った。「おとん!これが最後や、わしら三人ができるんはこれが最後や、ほやから、入院してくれ。おとんが、また酒に手を出して飲んでも、前の生活に戻ったって、もうわしら知らん、そのときは、おとん、勝手にクタバレ!」。 クソッ! 憶えとけ! 退院したら、おとんじゃなく、お父さんと呼ばせたる!

●新生、回復の道へ
 昨年9月、神戸市断酒会に入会。断酒とは、単に酒を止めるだけでなく、これからの人生を生き直すことだと思える様になった。過去の人生のやり直しはきかないが、これから新しく生きることはできる。しかし、日暮れて道遠し。断酒の道を歩み続けることしかない。この道の先には、別れた家族との人間関係の回復が待っているはずだ。(了)

『アルコール依存症とホームレス』
神戸市断酒会
清瀬 憲一
-平成19年12月18日-
-甲英学院国際ビジネス高等専修学校職員研修会-

(写真は、阪神淡路大震災直後の三宮)------> 

 私は、元ホームレスで、アル中の清瀬です。私は、兵庫県立夢野高等学校から、関西学院大学社会学部を卒業して、S社という広告代理店に勤務しておりました。昭和44年当時は、マスコミがブームで開局ラッシュでした。チーフまでなりましたが、バブルが弾けて、広告代理店に見切りをつけました。コンビニ店を始めようと、退職金や貯金をつぎ込み、平成7年3月のオープンを予定しておりました。

 平成7年1月17日、あの阪神淡路大震災があり、すべてがパーになりました。その後、酒量が増え、朝昼晩と飲んでいました。嫁からは、「あなたは酒に逃げている」 となじられましたが、酒は止まりませんでした。Y乳業の契約社員(16万円/月)になりました。しかし、会社は食中毒事件を起こし、工場は閉鎖になり、7年でクビになりました。嫁の収入だけで生活をしていましたが、坂道を転がるように酒害はひどくなりました。

 「なんでワシばっかりが、酷い目に遭わんといかんのや。ワシが悪いのとちゃうで、地震やんか。会社が悪いのやんか」と、責任を他に転嫁して、昼間から堂々と飲んでいました。一家の大黒柱として、夫として、父親としての務めを放棄し、子どもの教育にしても、「一切関りたくないんや。勝手にやれや」と、大酒を飲んでいました。

 5年前の大晦日。酒をくらい、嫁さんに些細なことで暴力を振いました。私には3人の男の子がいますが、父親失格と見ていた長男が、「何でおかんを殴るんや」と言って、私をブチノメにしました。「お前はもうおとんではない。出て行け」と言って、私を追い出しました。その後まもなく、離婚しました。

 仕方なく、92歳になる父親の元に転がり込みました。そこで、父親秘蔵のナポレオンを食らっておりました。1年ちょっとで父親も音を上げ、「出て行ってくれ」と言われ、追い出されました。平成16年2月3日、節分の日でした。まさしく『鬼は外』でした。

 メリケンパークから湊川公園にかけて、ホームレスがいます。どこで寝ようかなと悩みました。神戸駅から新開地駅にかけてのメトロ地下街は、23時にはガードマンが来て、ホームレスを外に追い出します。その日は、地下街から外に出る階段で寝ました。見様見真似で新聞紙を体に巻き、ダンボールで風除けを作り、身を横たえましたが、いやな冷たさが身を襲い眠れませんでした。

ホームレスは、大阪で8,000人、神戸で500人、全国で2万人いると言われています。自立支援法が施行されて少なくなりました。ホームレスのイメージは、不潔、不健康、怠け者、・公園の占拠、商売の邪魔者、身寄りなし、自業自得などでしょう。私に言わせれば、行政の支援不足だと思います。

 私のネグラは、老人ホームの玄関口に駐車してある、ワンボックスカーの車体の下にしておりました。雨は振り込んできませんでした。朝起きてからは、メトロ地下街にあり、8時まで開かない無人の喫茶室で時間をつぶしました。そのほか、大倉山図書館、スーパー、ハーバーランドの待合室でも時間をつぶしました。

 トイレや歯磨きは地下街のトイレで済ませました。食事は、一日一食でした。キリスト教団体が炊き出しをしてくれました。日を替えて、神戸市役所前の花時計、メリケンパークや湊川公園で炊き出しがありました。カレーライスにバナナ、タオル、蚊とり線香などをくれました。マタイ伝などの説教があり、聖歌を歌い、順番に並んでいただきました。腹が減れば、人から貰うか万引きをしていました。

 風呂は、一番苦労しました。夏は、深夜大倉山公園の噴水で行水をしました。冬は、灘駅近くにある厚生施設で、月一回くらい入浴させてもらいました。女性のホームレスは、その施設を使っていたと思います。そこでは、散髪をしてくれました。洗濯物は、公園の水飲み場で水洗いしましたが、汚れもニオイも落ちませんでした。

 タバコは、もっぱら拾いました。道路、スーパーの吸殻入れからです。人目なんて、恥ずかしいとは思いませんでした。が小銭を得るために、自動販売機にも、そっと手を突っ込みました。腹ばいになり、棒を差し込んでコインを探しました。蔑みの目より、カネが欲しかったのです。どうしてもカネ欲しいときは、神戸駅まで、次男・三男を呼び出しました。髪はバサバサ、髭はボウボウにして、わざと汚らしい格好をして、2~3千円をせびりました。

 そのうちに、一生悔いが残ることをやりました。万引きです。幕内弁当、お酒、そして直木賞・芥川賞受賞作家の新刊本です。そんな本は、古本屋に直行です。天網恢々疎にして漏らさず。湊川公園のスーパーで、万引きをして、捕まりました。ワンカップの菊正宗が飲みたくて、躊躇しながら盗りました。外に出たところで、肩を叩かれました。兵庫警察署で指紋、・顔写真などをとられ、元警察署長だった父親にも連絡されました。『泥棒を 捕らえてみれば 我が子なり』。 父はどんなに情けなかったことでしょう。

 2年余りにわたるホームーレスから抜け出せたのは、三人の子供のお陰です。長男が福祉事務所と相談し、県立光風病院へ入院させてくれました。 「おとん、これが最後や。退院して再飲酒しても、わしらはもう知らん。勝手にくたばれ」、と言いました。病院は、谷上駅近くにあります。ホテルみたいです。統合失調症の患者が大半ですが、アル中も30名ほどいます。5~6人は女性です。手が震え、文字が書けません。夜寝ると、コムラ返りが起こり、幻視幻聴に襲われます。
 
 天井にステンドグラスが映り、それが龍や怪物のように見えるんです。虫が這います。小人がでたり、犬が飛び込んでくる。気が付けば、枕をどついていました。他の人は、「殺しにいくからな」 「出てこい、出てこい」など、幻聴に見舞われたと言っていました。

 入院のワンクールは、3ヵ月です。入院するときは恐ろしかったけれど、入ってみれば、楽しかった。午前中は神社へ参拝まで散歩し、山越えのトレッキングもしました。規則正しい三度の食事をしたお陰で、身体の回復が図れました。ガリガリで40キロそこそこでしたから。入院中は、酒の恐ろしさを勉強しました。酒自体は、悪くないのです。日本の文化です。神棚、仏壇、三々九度の儀式、進水式、初漁の時など、酒は欠かせません。酒に罪はなく、飲んだ己に、罪があるのです。

 酒を止めんといかんなあとしみじみ思ったのは、主治医(女性)のひと言でした。「あんたの長男を見ていたら、泣けてしょうがない。長男とは3回会ったけれど、母親、弟、父親のことが全部、長男の肩に掛かっている。酒止めんと男やない、親やない、人間やない」

 平成18年6月に退院し、以来12万3千円でシングル生活しています。内訳は、75%は年金で、25%は福祉からです。4万3千円が家賃で、充分生活ができています。いかに酒でカネを遣っていたかが分かります。家族との修復を図りたいのですが、現在は、子どもとメールができる段階です。父親とは、姉の世話で会うことができました。父は、「お前は一番会いたない人間やけど、一番会いたかった人間や」、と言いました。母の祥月命日には、帰ってきてもよいとの許可を得ました。

嫁さんとは、売り言葉に買い言葉、印鑑をポンと投げつけて。離婚届の署名は、仲人がしたはずです。ひと言詫びたいのですが、取りつくシマもありません。心の傷は、なかなか回復しないのでしょう。皆さん、くれぐれもお酒は、上手に飲んでください。(了)

〈ホームレス期間の質問〉
(写真は、神戸市のハーバーランド遠景)------>

1.酒はどのように調達していましたか
⇒常に万引きしていました。それほど汚ならしい格好はしませんでしたから、万引きできたのだと思います。
2.病気した場合はどうしましたか。
⇒不思議と風邪ひとつひきませんでした。他の人が救急車で運ばれているのは見ましたが、その後は知りません。当時凍死した老人が多かった。
3.女のホームレスが少ないのは何故ですか。
⇒分かりません。女が家を出るのは、よくよくのことでしょう。私は2人知っていますが、やや精神を病んでいました。
4.一日が長くて、時間を持て余してはいなかったですか
⇒全く持て余してはいませんでした。ボケーとして、一日が長いとは感じませんでした。自由でした。乞食は3日したら止められんと言います。制約がなく、ノルマもありませんから。
5.荷物の置き場はどうしましたか。
⇒頭陀袋にひとまとめにして、持ち歩きました。
6.あき缶集めはしませんでしたか。
⇒しませんでした。缶集めにも縄張りがあり、新参者は遠くへ行かねばなりませんでした。10キロで700円でした。カネがあれば、1,500円の簡易宿泊所で、なければ野宿です。
7.ホームレス同士の付き合いはどのようでしたか。
⇒食料や酒は分け合う場合がありました。しかし、名前、年齢、どうしてホームレスになったわけの3点を聞くことはタブーでした。喧嘩はあまり見ていません。
8.嬉しかったことはありますか。
⇒ホームレスになった頃、腹が減って仕方なかったので、カネ欲しさに、持物と交換しようとしても、トランジスタラジオなんてと断わられました。しばらくして、階段を降りてきて、「カンパするわ」、と言って360円くれました。涙が出ました。鬼殺し「焼酎」を買って飲みました。アル中ですね。
9.奥さんはどんな方ですか。
⇒バイタリティがありました。働くことをいとわなかった女性です。今にして想えば、私には過ぎた女房でした。(完)
2009/07/26のBlog
[ 05:20 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作りー8月
写真は姫トウガン 平成22年7月撮影---->

無農薬での野菜作りー8月(14)

 2月に始まり、5月に再発した右足ふくらはぎの痛みは、2か月ほどの治療で大分楽になりましたが、まだ、両足首のに痛みがあり、長時間、体重をかけるのが困難です。特に、朝起き抜けがひどく、長時間の立ち仕事が予測されるときは、痛み止めの坐薬を使用しています。

また、整形外科の先生からは、元のようになるのは無理だと言われており、身辺整理を始めて、活動範囲を狭め始めています。
 足が不自由なので、読書の時間は十分に持てました。話題の『1Q84』は、3巻から読み始め、初めの1,2巻も読みこなしました。

最近、毎日新聞の書評で気になった3冊を、近くの図書館でリクエストしたところ、すべて借りることができました。

その一つが、デビッド・モントゴメリー著(片岡夏美訳)『土の文明史』(築地書館、2010年4月15日初版)です。「農地の生産力が衰えると、文明の衰え、姿を消していった」の観点で、ローマなど古代文明の消失をとらえ、ヨーロッパ、アメリカでも同じことが行われているとの警告でした。

また、なかには、土壌を大切にすることで、持続可能な農業もまれにはあるとの報告は、救いになります。記載されてはいませんが、日本の稲作もこの中に入ると思います。

なお、進化論で有名な、あのチャールス・ダーウインの最晩年の研究が、土作りにおける、ミミズの役割の解明だったことは、この本で初めてしりました。

二冊目が、塚原仲晃著『脳の可塑性と記憶』(紀伊國屋書店1987年10月20日初版)で、あの日航ジャンボ機の事故で、51歳の若さでなくなった著者の、唯一の著作とのことですが、タイトルに惹かれて借りたものの、門外漢には難しすぎて、四苦八苦しています。

三冊目が多田富雄著『落葉隻語 ことばのかたみ』(青土社、2010年5月10日初版)で、著者は二歳年上がけなので、書いてあることに親しみが持てました。また、最近の政治情勢にも触れていて、小泉改革への批判や、民主党政権への期待もありました。脳梗塞のため半身不随で、車いす生活の人の文章とは思えぬ迫力を感じました。

さて、本題に入りますと、以前、ハヤトウリについて、地元では越年できるが、当地では難しく、今年、初めて一本越年でき、順調に生育していると書きました。

ハヤトウリは放任栽培でも収穫できるそうですが、通常のツルものと同じように、孫ツルに実をならせるつもりで、子ズルの先を切り取ったところ、急に枯れ出し、最終的にはツルは一本も残りませんでした。別に、果実から4本育てているので、これに期待するしかありません。

今年は、異常気象でいろいろな夏野菜の苗が、遅霜にやられ、やり直したりしてもので、夏野菜の収穫時期の遅れがあり、その分、秋野菜のスタートに間に合うか、やきもきしています。

下仁田ネギの定植は、6月下旬から始めましたが、その後、
長雨で十分な手入れができず、草ぼうぼうとなり、多くの欠株が出ています。正常に、7月になってから定植した分は、順調です。あわてる乞食は、もらいが少ないでしょうか。

 この時期、例年行っているのは、タマネギの苗床作りです。畝の空き具合を見て、必要な面積を確保して、畝立てをして、透明シートで覆い、9月上旬の播種時期まで、日光消毒をしておきます。これで、ネキリムシの被害がなくなり、雑草も少なくなり、苗作りの失敗がなくなりました。

 この方法は井原豊著『図解 家庭菜園ビックリ教室』で知った、タマネギ専業農家のやり方ですが、早い時期に売り出される、弱々しい購入苗で苦労するより、苗半作とも言われますので、しっかりした苗作りに挑戦してみてはいかがでしょうか。
2009/06/23のBlog
[ 14:22 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作りー7月
写真は下仁田ネギ 平成22年6月撮影---->

 5月中旬に、もとよりひどいくらいにぶりかえした、右足ふくらはぎの痛みは、整形外科での痛み止めの点滴、さらに坐薬を処方してもらい、また、ほぼ一日おきに、5回ほど集中的にハリ治療をしてもらい、1か月ほど経過して、痛みもほとんど消え、かなりよくなってきた感じです。

 さらに、今回は、たまたまネットで見つけた腰痛の新しい治療法、マッケンジー法を併用したことが、個人的には有効だったと考えています。いくつかの簡単な体操の組み合わせで、腰痛がなくなり、また、再発防止ができるとのことです。 この方法は、ロビン・マッケンジーという医者が始め、著書には、『自分で治せる!腰痛改善マニュアル』(実業之日本社)や『腰の激痛が消える!革命的療法!!マッケンジー体操』(宝島社)があります。

 ところで、5月19日のNHKで、『死亡率8倍!?あなたを襲う新型骨粗しょう症』という放送がありました。要は、骨密度は正常なのに、骨折をしたりする症状で、コラーゲンに異常な架橋が起きて、骨が折れやすくなるそうです。翌日、整形外科での診察時に、この話をしたところ、先生はごらんになっていませんでしたが、そんなに心配なら骨密度を測定してみようと、すぐに測定してくれました。結果は、なんと若年の64%、同年齢の72%で、骨粗しょう症すれすれの数値で、さっそく、1週間に1回飲む、骨粗しょう症の薬を飲む羽目になりました。

 実は、数年前、右足のかかとで計る方法で、骨密度は40歳台と20年くらい若いとの診断で、自信満々だったのですが、意外な結果でした。以前のは超音波だろうが、今回は放射線を使っていて、間違いないとのことでした。

 平成4年に、個人的に酒を断ちましたが、まじめにやめたのは2年間ほどで、じきに隠れ酒を覚えましたが、深酒はしなくなりました。ただ、口寂しいもので、キシリトール入りの飴をずっと続けています。妻からは、砂糖は骨を溶かすからやめるようにと、再三、厳重注意さましたが、依存症体質でやめられませんでした。今回の診断で、あるいはと懸念して、極力やめるように努力しています。

 さて、本題に近いところでは、最近、『食は国家なり!日本の農業を強くする5つのシナリオ』(横山 和成著、アスキー新書)を読みました。帯には、『゛Made by Japan゛が世界の食を救う日』とあり、さらに、『わが国の誇るべき産業は、自動車産業から、農業になる時代がやってくる!』とあり、農学部出身者としては、魅惑的な惹句でした。

 ポイントは、日本の土作りを大切にした、持続可能な、循環型農業技術を世界に輸出し、世界の食糧増産に寄与しようというものです。ほんとうかと疑問符を付けたいところですが、土作りに微生物の大切さを訴えている点では大賛成です。

 また、「ベランダ農業」の勧めもあり、自分で作物を作ることで、農の大切さに目覚め、身近なものとなり、ここから、新しい農業の担い手がでることに期待をしているようです。いま民主党政権がすすめている、「農家の所得一律保証」では、農地さえ所有していれば保証の対象になり、農地はあっても農家がいなくなるという、ショッキングな指摘もありました。

 さて、7月は、ハクサイ、キャベツ、メキャベツなどアブラナ科の野菜の苗作りを始めると、ものの本には書いてありますが、無農薬では苗を育てることすら難しく、9月になって、ブロッコリーの苗作りだけにしています。

 この時期、無農薬で栽培可能な葉物野菜が少ないのですが、最近は、ウマイナとその仲間のブライトライトを作り、大きくなった枝葉を出荷するようにしていますが、そろそろ虫の被害が多くなってきています。また、下仁田ネギの定植時期でもありますが、苗作りを昨年10月に行った関係で、苗の生育が十分であり、6月下旬からすでに始めています。
2009/05/25のBlog
[ 15:17 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作りー6月 写真ーーー>モロッコ豆

 もう一回ボヤク羽目になりました。2月の中旬に、突然、発症した右足ふくらはぎの痛みは、1か月半ほどの治療で治まり、4月には、ほとんど以前の活動状態に戻り、杖も安全のためと言っていました。 
 
 ところが、5月に入って個人的な動きも加わり、無理が重なったようです。13日に、ほぼ1か月半ぶりに、友人に畑に連れて行ってもらい、ジャガイモの芽欠き、タマネギの草引き、モロッコ豆の追い蒔き、支柱立て、ネット張りなどで、4時間ほどの軽い農作業をしました。

 さらに、この日は京阪の野江駅近くの城東会館での、第34回大阪府断酒会通常総会を、豊能連合で仕切ることになっていて、会場設営のあと、受付を4人で担当していました。 

予定外に、マイク係が回ってきて、2時間近い会議中、会場内にいて、質問のあるたびに、マイクを持って、一人で走り回っていました。最後の会場の片付けは、出席者が手伝ってくれましたので簡単に済みましたが、この日の万歩計の歩数は、4万4千を超えていました。

翌朝は、足だけでなく腰まで痛く、ぶり返した感じでしたが、やむを得ない事情があり、農作業ボランティアに出かけ、さらに、整形外科でのリハビリ後、例会にも自転車で出かけました。(自転車は、腰に楽)

もう翌朝は、完全にぶり返して、以前より悪くなっている感じでしたが、整形外科でのリハビリのあと、会長宅に伺い、断酒会の休会を申し入れ、了解していただきました。

振り返って見ますと、ずいぶん身体に悪いことをしていました。ハリの先生からは、この痛みは冷えが原因であり、とにかく冷やすなということ以外に、長靴を履いての農作業、重いものの持ち運びが悪いと言われていました。

これ以外にも、長く歩くこと、中腰での作業、正座よりもあぐらが腰に負担がかかることなども、買い置きしておいた本、『腰痛をすっきり治すコツがわかる本』(2010.3月刊、(株)永岡書店)で知りました。
実は、畑に連れて行ってもらう前日に、もう、右足に痛みが走るようになっていて、2週間ぶりにハリをしてもらい、今度、無理をしたら、背骨の手術になるぞと、おどかされていました。それを無視してこんな状態になり、平身低頭しながら、ハリ治療をしてもらっています。

農作業ボランティアは、再び休んでいますが、さらに、趣味の料理で、箕面味くらぶも、15周年を迎え、いろいろ大事な決めごとをする時期なので、会長を辞任させていただきました。

さて本題に入りますが、ベランダでのやさい作りが流行中とのことで、そのハウツー本が、書店にたくさん並んでいます。ずっと、とり続けている家の光協会の『やさい畑』でも、この3月に『ベランダ畑』という別冊が発行されました。

個人の実際にやっている例の紹介のほか、ベランダでのやさい作りを、一から解説していて、参考になると思います。特に、気がついたのは、コンパニオンプランツの考え方が取り入れられていて、狭いスペースに、寄せ植えのように栽培し、一石二鳥以上の成果をあげていることでした。

農園ボランティア先では、5月末から6月上旬にかけて、大忙しとなります。前作の関係で、ナス、トマト、キュウリの苗の植え付けが、6月にずれ込んできて、5月末は畝作りで大忙しです。

また、タマネギ2種(黄、赤)の収穫も5月末で、後作は、サツマイモと決めていて、6月上旬には、近くの幼稚園の年長組、30数名を招いて、ここの利用者と一緒に植え付け作業をします。秋には、同じメンバーで収穫するという、恒例の行事があります。

この時期に、川西断酒会の新入会者が、休職中の5,6月、農作業を手伝ってくれていて、小生が休会しても続けてくれるとのことで、安心して治療に専念できます。

5月24日の毎日新聞朝刊の、四季のガーデニングでは、三尺ササゲが、まだ、間に合うとのことですが、モロッコもまだ大丈夫です。

PDFにて、閲覧プリントアウトできます。
2009/04/12のBlog
[ 15:52 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り〈その11) 平成22年5月
写真はスナップエンドウ (平成22年4月撮影)----->

 前回のボヤキのその後。1か月半ほど経過した3月末には、茨木の泉原の友人の畑に連れて行ってもらい、懸案の農作業を片づけました。ジャガイモの植え付け、タマネギとニンニクへの最終の追肥、モロッコインゲンの種まきです。 
 
 ジャガイモは、2月から丸のままで浴光催芽をしておいたものを切り分け、少し切断面を乾かしてから植え付けました。通常に比べ、1か月くらい生育が早くなるとのことなので、多少遅れましたが心配していません。4月に植え付けて、順調に取れた経験もあります。
 
 また、この2日前に、囲いのトタンを乗り越えてイノシシが入り込み、下仁田ネギの収穫後を掘り起こし、ミミズあさりをした折にタマネギの畑も踏み荒らされたので、その一部の植え直しもしました。

 ところで、3月14日のホワイトデーは、今年15周年を迎える男の料理教室の例会の日でした。昨年の12月6日が小生の誕生日と、この教室の女性講師がわれわれのところへ来だして10周年とのことでケーキを持参してくれ、全員で頂きました。

 次回が3月14日とこの講師のご指定で、お礼を約束していました。得意のフルーツケーキを焼き、人数分に切り分け、別に講師用にオートミール入り黒ゴマクッキーも用意し、少し痛む足でキャリーを引き杖をつきながら箕面のメイプルホールまで出かけ、なんとか約束を果たすことができました。

 4月に入って、農作業ボランティアと例会出席にも復帰し、4月末の(池田市)陽松庵での一泊研修会にも、金、土、日の三日間、手伝いの量としては例年の半分以下でしたが、何とか参加することができました。

 さて、家の光協会から、2004年創刊の『やさい畑』という雑誌がでていますが、2005年夏号からずっと購入しています。また、別に『野菜だより』という雑誌もあり、内容次第で購入しています。2010年初夏号には、別冊付録が『有機・無農薬でのおいしい夏野菜づくり』でしたので、躊躇せずに購入しました。

5月の連休の頃は、ナス、トマト、キュウリなどの植え付けの適期ですが、苗の販売はかなり前から行われており、もう4月中に植え付けをすませた人も多いのではないでしょうか。5月に植え付けするのは、遅霜の心配がなくなる頃との、合目的な理由があります。

今年のように、桜が咲いているのに、雪が降ったりする異常気象では、植え付けた苗が遅霜にやられたり、育成中の苗が霜にやられ、苗作りに失敗した方も多いのではないでしょうか。

 また、早い時期に販売される小さな苗を植えるのも考えものです。たとえば、トマトでは、一番花房がついたものを植えるように指導されています。それは、一番花房がついたものを、花房が畝の通路側にくるように植えると、次の花房も同じ方向につくので、収穫が楽というメリットもあるからです。

 先ほどの別冊付録をざっとみると、5月の植え付けでは、先ほどの三種類のほかに、ピーマン、カボチャ、ズッキーニ、サトイモ、ヤーコン、サツマイモなどがあり、種まきでは、エダマメ、インゲン、ラッカセイ、トウモロコシなどがあげられています。興味があるものに挑戦してみてください。

 ところで、大抵のところではブロッコリーはもう片付け終わっているはずですが、ボランティア先では、まだスティックブロッコリーが10株ほど残っていて、花蕾を摘むと、次々と新しく出てきて、ゆでてサラダにしたりと便利にしています。子孫を残そうと、頑張ってくれているようです。

 別に、サラダナの苗を作っておき、タカナやウマイナの畝の両肩に植えて、モンシロチョウ除けのコンパニオンプランツとして活用しています。この時期になると、花芽が出だしますが、少し前だと、収穫後から、もう一度取れるので、一石三鳥とでも言えそうです。(了)

PDF閲覧ならびにプリントできます。下記クリックしてください。
2009/03/27のBlog
[ 22:11 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その10) 平成22年4月
写真は赤タマネギ・平成22年3月撮影 ----->

 今回は、個人的なボヤキから始めます。この2月中旬、なんの前触れもなく、急に右足ふくらはぎに痛みが走るようになり、整形外科クリニックでレントゲン検査の結果、腰からきている痛みとの診断でした。鎮痛・消炎のためのステロイドの点滴を数回、鎮痛テープ張り、腰痛ベルトの着用のあとは、マイクロ波での暖め、腰の牽引、低周波でのもみほぐしを各々10分間行うリハビリを続けています。

 2週間ほどしても、一向によくなる気配がなく、3月に入って、別途ハリと漢方薬の併用も始め、1か月半ほど経過して、まだ鈍痛は残り、右足つま先にしびれ感がありますが、かなり楽になってきました。ハリの先生の見立ては、冷えが根本原因で、夏場に冷たいものを飲むのも徐々に効いてくるし、長靴を履いての作業もよくなく、また重いものの持ち運びも悪かったとのことです。

 振り返ってみますと、悪いことばかりしていました。ボランティア先では、夏場に冷たいお茶を飲み、寒くなってからも、朝食前の2時間ほど、ほとんど連日農作業をしていて、肥料や緑肥など、重たいものの持ち運びも頻繁に行っていました。また、土作りのため、畝を掘り上げて、緑肥などを埋め込んでの畝たて作業も、時間外に、ほとんど一人でやっていました。 

 悪いことは重なるもので、この治療中、全部で五つほどになります。一つは、治療中に、折りたたみ式の杖を盗られたことで、こんな他人迷惑なことが、よくもできるものだと、逆に感心した次第です。また、パソコンがフリーズしたとき、電源を抜いたため再起動しなくなり、結局、ハードディスクがつぶれていて、えらい出費になるとともに、データやソフトの消失が膨大でした。

 この1ヵ月半、例会出席、農作業ボランティアはずっと欠席し、茨木の泉原の友人の畑にも、2月初旬に連れて行ってもらっただけです。友人が、下仁田ネギを収穫して、3回ほど持ってきてくれました。あとは、ジャガイモの植え付けと、ニンニクとタマネギの最後の追肥が残っています。また、モロッコの種まきもあり、やきもきしています。3月末までには、なんとか、作業をと思っていますが、腰の病は、日日薬(ひにちぐすり)とかで、時間がかかるようです。

 ところで、最近、近くの書店で、興味深い本を見つけました。『伝承農法を活かす家庭菜園の科学 自然のしくみを利用した栽培術』(木嶋 利男著、講談社、ブルーバックス)で、著者は、『やさい畑』のコンパニオンプランツの連載記事でおなじみでした。頭の整理もなり、また、無農薬でやりたい家庭菜園をターゲットにしているので、役に立つ記載が一杯あり、リハビリの待ち時間を利用して読んでいます。
 
 さて、4月の農作業としては、ナス、トマトなどの植え付け用の畝の準備があります。種まきでは、エダマメ、夏ダイコン、トウモロコシなどがありますが、ボランティア先では、エダマメ以外はやっていません。ツルモノでは、ハヤトウリの植え付け、トウガンの苗作りがあります。ハヤトウリは、昨年不作でしたが、残った根を、籾殻やわらを利用して囲っておいたところ、二本のうち、一本は生き残っていました。

 本場の鹿児島あたりでは、囲いもしないで毎年新芽が出て、連作できるようですが、ここでは、何回か試みて今回が初めての成功です。安全のために、別途、果実を4個植えておきました。無農薬での野菜作りには、これからの時期、ネットかけなど、一見、無駄とも思える作業が必要になりますが、食の安全・安心のためには、欠かせないことです。

PDFにて、閲覧プリントA4サイズにて、下記クリックして下さい。

2009/02/22のBlog
[ 07:43 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その9) 平成22年3月 
写真はアスパラ菜-------->

 いよいよ春、本格的な野菜づくりの作業を始める季節になりました。それを狙ったのでしょうか、読みやすく内容も良い、参考になる無農薬での野菜づくりの本を見つけました。(株)学習研究社発行2月末日付けの、『有機・無農薬がおいしい!決定版初めての野菜づくり』です。 

 なぜ有機・無農薬栽培が良いかに始まり、果菜33、葉菜38、根菜21の92種の野菜づくりについて、ふんだんにカラー写真を入れて分かりやすく解説しています。なかには、珍しい品種も掲載されていて新たな挑戦の手助けにもなりそうです。

 さらに、有機・無農薬での野菜づくりの、12の基本として、1.土づくり、2.堆肥を入れる、3.肥料を使いこなす、4.畝のつくり方、5.畑の作業と資材、6.苗植え、7.種からつくる、8.野菜の手入れ、9.雑草対策、10.虫・鳥対策、11.コンパニオンプランツ、12.プランニングを挙げていています。やはり、土づくりがトップにきていますが、このコーナーで再三とり挙げたコンパニオンプランツも大切なようです。 

 無農薬での野菜づくりは10年以上やっており、少々天狗になりかけていましたが、こんなこともあったのかと、気付かされることが多々あります。自分の無知に恥じ入るとともに、この道の奥深さに気付かされました。初めて野菜づくりをする人だけでなく、多少のベテランの方にも、一読したら得るところが多いと思われますので、敢えてご紹介します。一度、書店で実物に当たってみてください。

 さて、3月には苗作りを始める時期ですが、トウガンでは2年続けて失敗しました。畑にじかに種を撒いたもので、芽が出たと思ったら、翌日にはなくなりました。不思議に思って、再度まき直しても、同じことの繰り返しでした。ベテランにお伺いすると、トウガンの新芽はナメクジの大好物で、食べられたのだとのこと。このことをボランティア先に知らせ、トウガンのポット植えを、30センチほどの高さに置き直しました。

 しかし、次々に若いものから食べられ、おまけに、ミニトウガンと普通のトウガンのポットがごちゃまぜになり、担当者と大げんかしました。苗作り名人に助けてもらいましたが、今度はミニのはずが、”先祖返り”して普通のトウガンになり、新たにまき直した本当のミニトウガンも、結局は時期遅れもあり、ものになりませんでした。

 もう一つ、ハヤトウリは、一昨年不作だったので、新たに鹿児島から5個の実を入手してやりましたが、生育が異常に悪く、最終的に小さいのが2個採れただけでした。完全に熟した実でないとダメだとか、1年目は採れないことがあることを知りました。2本だけ根を保温して残し、実の方も別途6個用意しています。今年は、成功させたいものです。

 3月にいつもするのは、先ずは九条ネギと下仁田ネギの播種です。初旬にはジャガイモの植え付け、下旬には、少し早いのですが、モロッコインゲンの種まきをしています。キュウリ、ナス、トマト、シシトウなどの苗作りは、この時期からポットで始めますが、ボランティア先の担当者に依頼しています。ただ、ナスだけは、接ぎ木苗を購入してもらい、コンパニオンプランツを何種類も併用してやりましたが、病気にかかったりして、種から始めた担当者の方の成績が良いので、土作りがまだまだなのでしょう。

 この時期から始める葉物として、ホウレンソウ、コマツナ、ウマイナ、サラダナなどもあります。お勧めは、アスパラ菜とスイスチャードです。アスパラ菜はオータムポエムという、しゃれた名前もあり、本来は秋作りですが、この時期にもできます。花芽がおいしいのです。

 スイスチャードは、別名ブライトライトともいい、ウマイナの仲間ですが、赤、黄、緑など5色くらいのカラフルなもので、株ごと収穫しても、大きく育てて下葉を掻いても良いので、長く楽しめます。ただ、アクが少し強いので、好みが別れるところです。

PDFで閲覧プリント出来ます。
2009/02/01のBlog
「惠子の軌跡 水中毒と闘う Ⅱ」(2007年の夏)
大阪府高槻市
石村 健二
 (写真は高槻市西之川原の旧家と南平台)----->

7月30日(月)
 私は、地下室で寝てしまい、リビングに上がろうとドアを開けると、大便が踊り場にしてありました。便所に行くのが間に合わなかったのではなく、そこが便所と思ったようで、階段のすぐ下にしてありました。扉は鍵を掛けてあったので、階段に座りボーッとしていて、便意をもよおしたからではないかと思います。
 
 惠子を探すと、母屋の日本間の廊下でボーッと立っていました。大便の処理をするようにと言って学校へ・・・・。 帰ってきても処理が出来てなく、小便までしてありました。予約券がどこにあるか分からず、今探させています。(午後8時15分)予約券はありませんでした。今は、ずっと予約券とにらめっこをしています。(7月27日の日付けの分です。)
 
 「何なの私は?」と聞くので、「こっちが聞きたい。」と言ってしまいました。こんな状態では、入院しかないのでしょうか?自分の前にタバコ(バラしたタバコが4本)があるのに、それが分からず、僕の所まで来て、「タバコちょうだい。」と言う始末です。「机の上にある!]と言うと、机の下にあるタバコを取り出して吸っていました。何のことか分りません。今のこの時期は、授業が無いので何とか世話が出来ますが、授業が始まってもこの状態では、こちらの精神状態が持ちません。

7月31日(火)
 研究会に行く前に、地下室に降りて薬を机の上に置き、「朝の薬や、飲んどきや!」と言うのですが、うつろな目つき。(夜中、度々台所に来ていました。多分、毎回水を飲んでいたのでしょう。) それでも研究会に行きました。研究会で会った友人に、「ひょっとしたら惠子が倒れたままかもしれない。」 と言って、家に電話をするも応答なし。 母に電話をして、「外線電話には反応するかもしれないので、10時に外線で掛けてくれ!」と頼んでおいた。

 「何度、掛け直してみても、応答がない。」とのこと。頭に浮かんだのは、去年のこと。水中毒に違いない!すぐに家に帰ってみると、手は硬直、足は痙攣、目は拡散、意識なし。 すぐに救急車を要請。新阿武山(病院)に連絡するも、治療は出来ない!、だから「三島」に運んでもらってくれとのこと。空いているのは、「緑が丘」。僕は車で後を追いかけた。診断は、やはり「水中毒。」 ICUに・・・・ 主治医との話。「電解質がかなり乱れている。1~2週間の入院が必要。精神的なことはこの病院では治療できないので、回復したら新阿武山に転院をして下さい。」

 8月3日に、「緑が丘」から電話が掛かってきて、今すぐ来て下さいとのこと。行ってみると、「このまま新阿武山に転院した方がいいと思うのですが、よろしいか?」(退院するもよし!と言いたそう)と聞かれたので、「阿武山に直ぐに入れてほしい。」と答えた。 「篠原先生に直ぐ電話して、相談します。」とのこと。惠子と面会するも、主治医からは、どうなったのかの話もないまま、帰りました。その晩、「明日退院して新阿武山に移ってもらいます。」との電話。

8月4日(土)
 9時過ぎに、「緑が丘」に行くも、惠子はなかなかは出て来なかった。やっと車椅子で出てきました。歩けないとのこと。仕方なく車を病院の玄関につけて、惠子を乗せて新阿武山に。惠子は、看護師に挨拶もせず、僕が会釈をして即座に出発した。新阿武山に着いてから、車椅子を取りに行き、駐車場で惠子を車椅子に乗せた。車椅子を押して外来受付に。診察を受けるとのこと。10時前に着いたが、入院できたのは12時過ぎ。部屋は、2病棟の隔離室とのこと。この経験もいいか?と思ったが、少し心配・・・・

8月5日(日)
 行ってみると観察室。隔離室は惠子には危ないとのこと。不思議と笑い顔・・・・

8月7日(火)
 今日は隔離室で過ごしたよう。ベッドがカチコチで眠れなかったと言っていた。いい経験をしたと言っておいた。

8月8日(水)
 3時前、面会に。水を飲もうとコップを持っていました。僕を見て、一緒に観察室に。10-3=?、10は5と5!は解ったみたい。「10は6と?」 と聞いても「・・・・・・・、6」と答える。話をしている時、篠原先生が来られました。「決められた以上の水を飲んでいるようだけど、それは考えて下さいよ!」と言われて終わり。福本さんに来てほしいと言って! とのことだが、連絡はするが、「それ」は言わない!と言い切りました。

8月9日(木)
 福本さん、見舞いに行ってくれたようです。後で電話がありました。尾﨑さんの電話番号を教えてとのこと・・・・

8月10日(金)
 電話あり。「なかなか掛けられなかった。30円もらってきた。もう一回電話するから待っていて!」 「100円もらったのに、違うところに掛かってしまう。」 「30円残っていてよかった。」(よく分からない) 「2病棟に電話して!」と言うので電話をしました。27日のことが分からないとのこと。 こちらこそ分からない! 
 27日、家に帰ると、汚れた衣服、薬とお金が入ったビニール袋が、玄関に置いてありました。。 そこへ電話、「迎えには来れませんか?」(いったん帰ったのに、またタクシーで病院に来たとのこと。) 「家の住所が思い出せない。電話番号も・・・」 仕方なく迎えに行った。
 
 断酒会の人と話をして、自分のおかしさがはっきりしたみたいです。その人は、毎日病院に来るので、毎日顔を出すとのこと。しかし、27日は、その人と会ったのに、惠子は全く知らない様子だった。タクシーの運転手と、釣り銭のことでもめていたとのこと。(了)
2009/01/26のBlog
[ 15:56 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その8) 平成22年2月
写真はナバナ(H22年2月撮影) ----->

 今年1月5日、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀 132回目』で、農業関係の三つ目の放送がありました。『命の農場で土に生きる』のタイトルで、無農薬・有機栽培40年の経歴のカリスマ、金子美登(よしのり)さんが取り上げられていました。

 この人のことは、2005年に家の光協会出版の季刊雑誌『やさい畑』で、春、夏、秋の三回に渡り特集が組まれたことがありましたので、おおよそのことは知っていたのですが、今回の番組を見て新しい知見も得られました。

 なおご参考までにこの時の特集は、家の光協会から、『写真でわかる金子さんちの有機家庭菜園』として出版されています。タイトル通り、土作りを基本とし、そのために堆肥作りや特別の液肥作りに懸命になっている姿には頭が下がりましたが、前回の特集にはないことが今回ありました。 

 それは、コンパニオンプランツがいろいろな組み合わせで、合理的に活用されていて、この技術は無農薬・有機栽培の基本技術になっているように感じました。その行き着くところは、雑草までもコンパニオンプランツとして活用されていました。

 昨年の冷夏の際、イネにイモチ病が発生したとき、肥料が消費しきれないがためと考え、雑草の生育をコントロールしながら大被害になるのを避けたのには、ビックリさせられました。
 全てのイネではなく、茎の丈夫な品種のイネには、アイガモの雛を使って雑草を取る、これは『コンパニオンアニマル』と言えるのではないでしょうか。

 この番組の最後には、「プロフェッショナルとは」との問いに答えるコーナーがあります。金子さんは、『百年先も永続するような匠の技をもった人』と答えていましたが、そんなテクニックがあったら素晴らしいと思いました。

 さて2月になると、もう農閑期とは言っておれません。まずは、タマネギの追肥です。2月と3月に行うようにしていますが、人それぞれに流儀があり、年末に施す人も居られます。でも、3月以降に施すと実のしまりが悪くなるので避けたいところです。
 それと、ジャガイモの種芋の準備があります。以前の農業の手引き書には、浴光催芽とか浴光緑化というテクニックが紹介されていましたが、最近の本には見当たりません。

 要は、光を当てることで丈夫な芽になり、発芽が早くなるとのことで、ある書物では1ヵ月くらい成長が早まると記載されていましたので今でも活用しています。
 やり方は二つあり、丸のまま1ヵ月ほど光に当て、植え付け時に切るやり方と予め切って1週間ほど光に当てる方法です。

 切る時は、各切片に芽が残るようにするのは当然ですが、頂芽は切って除くのが普通です。小さいイモはそのままでよいようです。また、切った断面に灰をまぶすことは最近は行われないようで、かるく乾かす程度で十分なようです。

 この時期は葉物が少ない時期ですが、今大活躍しているのがナバナです。花芽を食用にする品種なのですが、下葉が旺盛に成長するので、一昨年その下葉を取って販売したところ好評でした。昨年は、栽培面積を増やしたのが正解で、この時期の販売の主役になっています。

 1月には、牛ふん堆肥による生育障害のことを書きましたが、先日『乾燥牛ふん クロピラリド』とこの原因物質の名前を入れてヤフーで検索したところ、ヒットした二番目に川西断酒会のホームページ名が出てきて、解説文は1月号の文章そのものでした。とんだことで川西断酒会の宣伝になったようです。

PDF A4サイズ2枚 閲覧ヒプリント出来ます。
断酒新生指針
1.酒に対して無力であり、自分ひとりの力だけでは、どうにもならなかったことを認める。
2.断酒例会に出席し、自分を率直に語る。
3.酒害体験を掘り起こし、過去の過ちを素直に認める。また、仲間たちの話を謙虚に聞 き、自己洞察を深める。
4.お互いの人格の触れ合い、心の結びつきが断酒を可能にすることを認め、仲間たちとの信頼を深める。
5.自分を改革する努力をし、新しい人生を創る。
6.家族はもとより、迷惑をかけた人たちに償いをする。
7.断酒の歓びを、酒害に悩む人たちに伝える。

断酒会規範
1.断酒会は酒害者による酒害者のための自助集団である
2.断酒会には酒をやめたい人なら誰でも入会できる
3.断酒会員は姓名を名乗ることを原則とする
4.断酒会員としての活動は、原則として無償である
5.断酒例会はあらゆる条件を超えて平等であり、支配者はいない
6.断酒例会は体験談に終始する
7.断酒例会は家族の出席を重視する
8.断酒会酒害相談はもとより、啓発活動を通して社会に貢献する
9.断酒会は、会費によって運営される 但し、補助金善意の寄付金等は受け取ることができる
10.断酒会は政治・宗教・商業活動に利用されない。
PDFにてAサイズ、プリントできます。
2009/01/20のBlog
「自分を振り返って」
大阪府高石市断酒会
本多 宏臣
(写真は堺泉北臨海工業地帯)-------->

 アルコール依存症と医者からの宣告は,正直嬉しかった。今の自分の状態は正常ではなく、異常な精神状態と解っていたが、他の医者は認めてはくれなかったのが飲む理由でもあった。

 26歳の時に交通事故が原因で、身体の自由を失くした恐怖と痛みを紛わす為だけの理由で、友人が持って来てくれた酒を一日中呑んだ。自分がこの世の中で一番不幸で哀れな人間である、家族に捨てられた、事故の相手も逃げて補償が無い、仕事先は事故の前に夜逃げで給料未払い、残ってるのは僅かな貯金しかない。だから、自暴自棄になり酒を呑み続けた。痛み、身体の自由が利かない恐怖から逃げる為には、酒が切れる時間はある訳が無かった。

 院内例会は必ず出席した。講義が聴けるのと、アル中の最後がリアルに観えたから病院に来た。酒と付き合える訳が無いのに、それでも呑み続けた。断酒会にも参加したが、正直ムカついた。酒が好きで呑めなくなったことの不幸や、自分が悪いのに認めない人間や、只酒を止めて偉くなったかの様な体験談。

 自分の居る場所とは思えずに入会まで3年程かかったし、また入会しても酒は止まらなかった。世の中に、自分以上の不幸で辛い思いをしてまで酒止める人間などいないと、正直な体験談は語らなかった。その為、7ヶ月での再飲酒。どうせ酒を止めても、幸せなど自分には無関係。身体が元に戻る訳でも無いし、自分を理解してくれて社会復帰をサポートしてくれる人間が現れることなんか無い、絶対無理だと諦めていた。

 それでも断酒会から離れず、研修会等に参加していた。事故の苦しみで身体を悪くした地元の先輩に助けて貰い、相談にも乗って貰いながら意地だけで通った。そんな時に、虹の会に誘って貰った。最初は嫌だった。身体の悪いことの自慢話、再飲酒の言い訳をするだけ、古いのを自慢する人間。

 そんな中で、全国から集まって来る先輩の中でも、身障者ではあるが、健常者以上の熱い想いの体験談を聴いた時、偏った考え方が間違いだと気付いた時は嬉しくなった。それからは虹の会が好きになり、今の自分には足りない考え方や、行動を勉強出来た。諦めないで前向きにトライする喜びを教えて貰ってからは、自分の断酒の目標を見つけることが出来、パートナー(現在の妻)も見つかり、今は楽しく自分らしく断酒会を利用させて貰っている。

 酒害からの回復は個人差があるのは当たり前で、自分の場合時間が掛かると思います。自分には回復する時間はたっぷりあるので、ゆっくり気長にいけるのが嬉しいです。真面目に断酒に取り組んでる人間は素晴らしい!「社会」にお酒を止めさせてもらって幸せです!誰でも幸せな人生を送れます!と胸を張って言える人間になれる様に、頑張って断酒して行きます。

 虹の会 (全日本断酒連盟 の研修会にて、分科会座談会をしてます)は、身障酒害者も健常者参加できます。岡山県で年1回一泊研修会も開催されてます。今年は、第18回虹の会・岡山幸荘セミナー、6月27-28日、津山国際ホテル。

 ビジネスホテル・幸荘での懇談会で、愛媛県今治断酒会の木山茂氏の一人語りから森田一志氏、そして高知断酒新生会から感銘を受け、二重苦・三重苦の身障酒害者が多くいるだろう、この方達が手を取り合い励まし合いながら、断酒継続して行くグループが出来たらどんなによいだろうかと思い、翌日の全国大会の会場で五,六名の身障者に声をかけたのが始まりだ。

 故小野昌也先生(豊岡台病院院長)の協力を得て今日に至る。 『我々は、身体は障害者であっても、心は障害者になってはいけない』が、 金本事務局長が知らない方にいつも説明する言葉である。虹の会の歩みから金本生氏の言葉から抜粋した。(了)
2008/12/22のBlog
[ 10:23 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その7) 平成22年1月
写真はアスパラ菜----->

 12月7日の朝日新聞朝刊に、『牛ふん堆肥、作物に生育障害』という記事が掲載されましたので、ご覧になられた方も多いのではないかと思います。要点は、国内で使われていない除草剤が、輸入牧草を通じて国内の牛の体内に入り、その牛のふんや尿から作った堆肥を使ったために、トマトやキクが生育障害を起こしたということです。

 この記事に関し、昨年農作業ボランティア先で経験したこと即ち、いくつかの種が発芽しなかったり発芽不良だった失敗の原因が、JAから購入している『乾燥牛ふん』であることをほぼ突き止めていましたので、その裏付けとなる証拠が得られたものと天にも昇る気持ちになりました。同時に、乾燥牛ふんの使い方について、その方法を改める必要性を痛感しました。要は、畝の表面に撒いたり、追肥には使えない、使わないということです。

 現在行っている標準的な畝作りの方法は、70センチ、22メートルの畝に対して、有機石灰1袋、発酵鶏ふん2袋、乾燥牛ふん1袋、バーク堆肥2袋散布してから、耕耘機で全体を耕します。次いで、センターを深く掘り起こし、緑肥として草の類を大量に入れ、米ぬか2袋、農業用菌剤2キロを入れて、一旦土を被せます。その上に、元肥として発酵鶏ふん2袋、乾燥牛ふん1袋をまき、掘り上げた両側に有機石灰5キロとバーク堆肥1袋を撒いてから土寄せをします。さらに、表層に発酵鶏ふん1袋、乾燥牛ふん半袋、化成肥料5キロをばらまいて仕上げ、植え付けや種まきに備えます。

 この方法で異常が起きたのは、キュウリを定植したとき、次々と枯れる現象が起こりました。この時の原因は、有機入り化成だと考え、以後JAからの購入を止め、コーナンの普通化成に切り替えました。牛ふんにも問題があったのかも知れません。その後も、下仁田ネギやオオバの種が発芽してこないことが起こり、化成肥料以外にも問題があることが予測できました。
 
 そこで、オオバの種と化成を入れない畝で、発酵鶏ふんのみと乾燥牛ふんを併用した区分を作って撒いたところ、牛ふんを入れた畝は殆んど発芽しませんでしたので、発芽阻害が牛ふんにあることが分かりました。この後も懲りず、また失敗しました。タマネギの苗作りで、発芽してからは除草と時々発酵鶏ふんを表面からばらまいて追肥していました。

 自宅の庭で予備としてプランター3つに種まきしておいたものの、二つに乾燥牛ふんを併用したところ、どんどんと枯れて行き全滅してしまいました。乾燥牛ふんは、その製造過程で発酵が起こり、発酵牛ふんと標示してもよいくらいであるとJAの担当者から聞いていたので、使ったのが大失敗の元でした。

 記事では、日本で使われていない植物ホルモン系の除草剤クロピラリド検出され、栽培実験で同様の障害が起きたと書いています。またネットで調べると、この除草剤は難分解性であること、被害を受けるものとして、トマト以外にナス科、マメ科、キク科、セリ科などの作物の感受性が高いとのことです。クロピラリドは、広葉雑草の防除剤であり、イネなどには害がないものの、日常的に作っている、いわゆる葉物野菜に害がでて当然のことのようです。以前使っていた、コーナンから購入した発酵牛ふんでは、このような現象は経験していません。牛ふんの品質と使用法には要注意です。

 さて、1月の農作業としては、寒さ除けをエンドウの類にすることが推奨されていますが、このところやったことがありません。むしろ、なるべく小さい苗で越冬させるように心がければ済むことと思っています。

 ボランティア先では、この寒い時期でも無農薬で作った野菜の販売を切らさないようにしており、この時期に販売できるものとして、数年前から下仁田ネギの栽培を始めました。一昨年は、ナバナを試作してよかったので、昨年は11月から取れる秋華という品種のナバナも始めました。昨年、春作にアスパラ菜を試してよかったので、本来の栽培時期の秋作にも取り入れ、空きができないようにしています。

PDFにて、閲覧プリント印刷できます

2008/11/25のBlog
[ 00:02 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その6) 平成21年12月
写真はスナップエンドウの苗(撮影平成21年11月24日)----->

 今年も無農薬での野菜作りの難しさ、苦しさを経験しました。昨年、試しにナバナを作ったところ、花芽が付いたのは年明けでしたが、12月、1月の葉物がない時期に,下葉を刈り取って販売すると大いに喜ばれました。ならばと今年は、年内に花芽が収穫できるタキイの秋華という品種を、従来品と合わせて作ることにしました。 

 8月下旬に種まきした後、順調に生育していたのですが、三畝のうち真ん中の畝の端の方が少し異常だなと感じていたところ、瞬く間に畝全体がおかしくなり処分するはめになりました。調べてみると芯食い虫による被害で、成長点をやられてしまったのでたまりません。おまけに近くのサラダ菜、ウマイナにも被害が拡大し大損害でした。3年ほど前、ダイコンを少し早めに撒いたところ、同じ被害にあい全滅したことがありました。今年は、まともに撒いたので大丈夫でした。守るべきことは、しっかり守る必要があるようです。 

 農薬の代わりになるものをいろいろ試してきましたが、ずっと愛用しているのが、ストチュウといって醸造酢、木酢(または竹酢)、焼酎の等量混合物を300倍程度に薄めて散布しています。ただ、忌避剤で殺菌効果は期待薄で、1週間に一回くらいの頻度で散布する必要があります。また、芯食い虫のように、土中にいるものには効果がありません。最近読んだ書物によると、醸造酢も農作物に使うと特殊農薬になるとのことで困っています。

 ボランティア先では二年ほど前から、コンパニオンプランツといって、植物同士を組み合わせることで病害虫を防除する方法を試し始めました。例えば、キュウリを植える時、根元にネギを植える、トマトならニラなどです。ブロッコリーやキャベツとレタスを組み合わせると、アオムシ、ヨトウムシ、コナガなどが寄生しないとのことで、今年は試しに、ブロコッリーの畝の肩にサラダ菜を植えてみました。アオムシは付きましたが、それをしないところに比べて被害が少ないように感じています。

 一昨年老人菜園で、トマトに落花生を組み合わせたところ、収穫期はトマトより大分遅くなりましたが、うまく収穫できたのに味をしめ、キュウリとの組み合わせもあるとのことでやりました。二度目のキュウリに組み合わせたもので、落花生の蒔く時期としては遅くなり、結果的には枝葉ばかりで実がほとんどできず、いわばツルボケ状態となりました。難しいものです。

 秋になりますと、水田の畦に彼岸花を見かけます。これもコンパニオンプランツの一種で、野ねずみやモグラが、穴をあけて漏水になることを防ぐ伝承技術で、ちゃんとした科学的根拠もあり、先人の知恵にはビックリするばかりです。おまけに、彼岸花の鱗茎はさらして毒を除けば食用になり、飢饉の時の非常食にもなるとのことです。 

 11月に種まきして苗作りを始めたスナップエンドウが順調に育ち、定植待ちの状態です。11月末か12月初めには定植できそうです。これからは農閑期に入り、農作業としてはせいぜい草取りや追肥くらいが残っているだけです。一年を振り返り、反省して来年こそは失敗のないようにと計画を練っておくのもよいことではないでしょうか。

PDFにて、閲覧プリント印刷できます

2008/10/24のBlog
[ 08:06 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その5) 平成21年11月
写真は黄色タマネギ(平成21年10月23日撮影) ----->

 9月に播種したタマネギの苗が、ほぼ順調に育ち、11月の定植の時期を待つばかりになっています。こう書くと簡単ですが、タマネギの苗作りでは、これまで数々の苦い体験を重ねてきました。発芽不良、ネキリムシの被害がメインでしたが、ここ4年ほどうまくいっています。

 それには、野菜作りの教科書として愛用している、もう故人ですが井原豊さんの「図解 家庭菜園ビックリ教室」(農文協1999年第19刷)の中の、タマネギの項を参考に苗作りを始めてからです。ポイントは三つほどあります。
 
 一つ目は、苗床の準備を蒔く3か月ほど前に行い、透明シートかけておきます。土壌殺菌効果が出て、ネキリムシの被害もなくなり、雑草の生えかたも極めて少なくなります。
 
 二つ目は、播種する時によく鎮圧することです。畝をならしてしっかり鎮圧します。撒いた種がはっきりするように、有機石灰(セルか)を撒いてから種をばらまいてから、もう一度鎮圧します。さらに、うすく土を被せて、もう一度しっかり鎮圧します。よく黒い殻を被って発芽してきますが、井原さんの著書によると、このとき発芽率は50%で、殻を土中に残してきたら、発芽率80%以上とのことで、殻つき発芽は鎮圧不足が原因とのことです。
 
 三つ目は、適宜な除草と追肥です。タマネギの苗は草に負け、消えることがあり、見付け次第除いています。追肥は、井原さんの著書では、硫安水とか過リン酸石灰水になっていますが、良質の発酵鶏糞を上からばら播くことにしています。

 この鶏糞では苦い経験があります。数年前の鳥インフルエンザ騒動の後、丹波町の養鶏業者の発酵鶏糞は良質でしたが入手できなくなり、コーナンでは別の業者のものを扱い始めました。これをタマネギの苗に撒いたところ、苗が次々と消えて行き、すっかり駄目になりました。

 文句をつけたところ、コーナンへの納入業者が菓子折を持ってきて、様子の違うサンプル2袋も持ち帰り、発酵不足なので分析するとのことでしたが、梨の礫となりました。以後、コーナンからの鶏糞の購入は止め、農協から購入し問題は解消されています。

 タマネギを植える畝は、サツマイモの後と決めていて、タマネギとサツマイモの繰り返しになりますが、これが大阪府の老人大学のやり方とのことで、ボランティアを始めた六年前からずっと守り続けて、それぞれが失敗なく収穫できています。サツマイモを植える畝には、タマネギの残肥を考慮して、有機石灰(セルカ)と肥効は殆んど望めないが、土壌改良効果の期待でバーク堆肥を撒くだけにしていました。

 今年は少し変更したので、イモのつき具合が心配でしたが、この10月19日に近くの幼稚園の年長組、30数名を招いての芋掘り会で、それなりの大きさのイモが収穫できホッとしたところです。変えたところは、今年のタマネギが最終的には肥料切れの状態になり、残肥が期待出来ないと考えて、70センチ、22メートルの畝に、発酵鶏糞を1袋ずつ余分に散布して畝作りしたのと、その後70センチの畝幅を50センチに狭め、3本の畝で余った60センチを横のトマトに振り向けたことでした。

 心配したのは、サツマイモにはツルボケという現象があります。よく肥えた土地ではツルの成長ばかりで、イモが付かないことがあるからです。自分自身8年ほど前、茨木の泉原の友人の畑で、ツルの伸び具合だけで上手く行っていると考え、娘婿と孫娘を連れて、小雨の降る中イモ掘りに出掛けましたが、全然イモが付いていないので、大恥をかいたことがありました。

 さて、10月下旬からは、スナップエンドウ、ソラマメの種まき、できた苗の定植という、長期間に亘る作物の大仕事が待っています。スナップエンドウは、昨年は10月上旬に種まきして大失敗しましたので、今年は出来るだけ遅くするつもりです。

PDF下記クリックしてください、A4サイズ2枚プリントできます。
2008/09/24のBlog
[ 08:01 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その4) 平成21年10月
ニンジン 7月に播きました ----->

 7月に「育てる過程での数々の失敗や、たまにはうまく行くことで」と書きましたが、今月は最近の失敗例を書きます。種まき時期の失敗では、昨年スナップエンドウを10月初旬に蒔いたので、年が明けると花芽を持ち出し、その摘み取りに汲々としました。

 まずいと気がついて、株間に新しく種まきもしましたが、最終的な成績は通常の半分以下だったと思います。種袋には10月から種まきできると書いてありますが、その地域に合った時期に蒔くことが肝要で、この辺りでは11月が適期だそうです。

 ポイントは、霜害を避けるために小さい苗の状態で冬場を越させることです。この失敗はまだましな方で、もっと早く蒔いて、年内にちょろっと収穫してお終いになった例もありました。畝立てについては、一週間前までに堆肥と化成肥料をすき込んでおくとか、必要に応じて苦土石灰で中和しておくとか書いてあります。

 今年の春から、有機入り化成肥料が登場しましたが、従来通りの普通の化成肥料ならこの記載通りで何ら問題は起こりませんし、一週間もおかなくても大丈夫でした。一昨年でしたか、化成肥料の大幅な値上げがあり、そのためか農協では、今年から有機入り化成肥料一本になり、普通化成の取り扱いを止めてしまいました。

 特別な注意もなかったもので、従来通りの使い方で畝立てをして、キュウリの苗を定植したところ、次々と枯れて行き半分も残らず、生育の遅れが顕著でした。また、下仁田ネギやオオバの種はまったく発芽してきませんでした。同じ失敗をした人がほかにもおられ、原因は有機入り化成肥料にあると考えます。有機物を入れたことで、アンモニアがしっかり固定され、アンモニアの害がまともに出て発芽しなかったり根が損傷を受けたものと考えました。

 農協に問い合わせても逃げの口上だけで、正確な答えはもらえませんでした。この考えで間違いないと思っています。トマトの畝も同じように畝立てしましたが、定植まで時間がありましたので、米ぬかをまぶしてしばらく置いて、アンモニア分の消費に努めた後に定植してすんなり行きました。
 
 この失敗に懲りて有機入り化成肥料の購入をストップし、少し割高な感じですが、普通化成をコーナンより購入してもらっています。また、種まき、植え付け時の畝立てに、化成肥料を入れることは止めて、もっぱら追肥として使うようにしています。同じ失敗をされた方もおられるのではないでしょうか。
 
 毎年のことですが、苗作りは心配のタネです。畝作り、種まき方法、時期など最大限の注意が必要です。9月上旬に蒔いたタマネギが順調な生育状態で、ほっとしているところです。2ヵ月前からおおまかに畝立てして、ビニールで覆い、土壌殺菌をしておきました。ビニールを外して表面をならし、手で押さえつけ、有機石灰をばらまいてから黒いタマネギの種をばらまきました。

もう一度手で押さえつけ、表面に軽く覆土してから、さらにもう一度手で押さえつけ、籾殻をばらまいてから散水して終わりです。ただ、猫が縄張りを主張して、柔らかいところに糞尿をしに来るので、しっかりと発芽するまでネットで覆っています。この方法は根切り虫の被害もなくなり、ほぼ失敗なく苗作りできています。

 ボランティア先での10月の一大行事は、近くの幼稚園の年長組30数名と施設の利用者との共同サツマイモ掘りがあります。天候と日程調整で毎年苦労しますが、大きなイモを顔の前に掲げて喜ぶ姿を見ると、半年間のことをすべて忘れさせてくれます。

PDF下記クリックしてください、A4サイズ2枚プリントできます。
2008/09/04のBlog
[ 07:08 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その3) 平成21年9月
(写真はウマイナ・H21年9月3日撮影)
 
前回、土作りの大切さに触れましたが、そのことをもっと分かってもらえる事実があります。NHKのテレビ番組に「プロフェッショナル 仕事の流儀」があり、もう、百回を越えていますが、農業関係の話題は二つだけで、これはその中の一つです
 
この話をもとに、ノンフィクションライターが一冊の本にしてベストセラーになったのが『奇跡のリンゴ』です。世界中の誰もが手がけなかった無農薬・無肥料でのリンゴ作りに、苦節九年の後に成功した物語で、読んで涙を流した人が多いそうです。 

 無農薬・無肥料に切り替え、六年目になり数々の試行錯誤の末に、もはやなす術を失い死んでお詫びをしようと、ロープを持って岩木山に登ります。適当な木を見付けて投げたロープが手元離れ、拾いに行った先に、立派に育ったリンゴの木を見付けました。(実は、幻覚で本当はドングリの木でした)
 
根元に生い茂った背丈ほどの草の下の土は実にフカフカとしていて、独特の香りがあり、この土を作ることで、目的が達成できると確信したものです。

 野菜、コメ、西洋梨、プラムなどが無農薬で出来ても、リンゴだけが出来ませんでした。、この土作りの大切さに目覚めてからは、雑草も生え放題にし、絶対に不可能だとされていた無農薬・無肥料でのリンゴ作りに成功しました。
 
 この奇特な木村秋則という人物は、筆まめで文才のある人で、書き下ろしという本が二冊あります。『リンゴが教えてくれたこと』(日本経済新聞社)、『すべては宇宙の采配』(東邦出版社)。他に、やや専門的なものに『自然栽培ひとすじに』(創森社)もあります。 

 いよいよ農繁期に入りました。九月は秋野菜の種まきの時期ですが、適期が割と短い上に、このところの異常気象が重なり、いつ蒔くか思案に暮れることがあります。いつでも蒔けて、殆んど虫の付かない野菜に、ウマイナ(フダンソウとも)、サラダ菜があります。サラダ菜は、根元だけを残しておいたら、新しい葉が出てきて、大もうけをした気分になったのは今年の春の初体験でした。

 殆んどの葉物が無いこの時期に採れるのがナバナで、タキイには秋華、冬華の二品種があり、これからが蒔き時です。適当に下葉をかき取って食べた後は、本当の菜の花が賞味できます。

PDFにて、閲覧とプリントできます
2008/08/11のBlog
[ 06:29 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その2) 平成21年8月
(ボランティア先農園全景 撮影・H21年8月)----->

 野菜作りには土地が必要ですが、どう手当するかが問題です。市民農園を借りても、一年か二年で返さなければならず、また以前何を作っていたかも分からないし、さらに、狭すぎるということもあり失格です。

 長期間使える場所として、自宅の庭やそこにプランターを並べる手があり、他に借地もあります。百坪ほどの宅地を農地にしている人の話を聞いたことがあります。いずれにせよ、野菜作りには、連作障害があるので、それを防ぐ為にも、自分の思うままになる土地の手当てが肝要です。
 
 ずっと心掛けてきたのが土作りです。手前味噌になりますが、初めの頃は自分達が開発した農業用細菌製剤を元の勤め先から割引価格で入手し、使用方法をほぼ忠実に守って使っていました。
 
 この細菌製剤開発の発案者で別の会社の友人は、『菌耕農法』と名付けてパンフレットを作り、ネットにも公開しており、退職した今でも普及に努めています。昨年から、ボランティア先でも使い始めました。効果が確実になるのは、三年くらい使い続けてからですが、土がフカフカするのは一回の使用でも確認できます。あとは連作障害の軽減など、その効果はいろいろとうたわれています。
 
 さて、断酒会には、案外家庭菜園をしている人が多く、そういう人たちに栽培を勧めてきたのが、モロッコインゲン、スナップエンドウと下仁田ネギです。特に、モロッコインゲンは、大変美味しいのに、市場に出ることも稀で、あまり普及していません。平べったい広いサヤで、筋が無いのが特長です。

 蒔き時は、四月が一番良いのですが、八月も中旬以降なら良いといわれています。このところの地球温暖化の影響もあり、池田の行きつけの種苗店のおばあさんは、もう九月に入ってからの方が良いと教えてくれました。

PDFにて、A4サイズ印刷閲覧できます。
2008/07/27のBlog
[ 08:35 ] [ 無農薬野菜作り ]
無農薬での野菜作り(その1) 平成21年7月。
写真は下仁田ネギ゙( 撮影・平成21年8月13日)----->

 この度、兵庫県川西断酒会・会長の馬場さんの要請で、このコーナーを担当することになりました。池田市断酒会に入会して二年八か月、無事断酒を継続しています 
 断酒の継続には、例会出席は当然ですが、兎に角、暇を作らないことも大切だと思います。 趣味と実益を兼ねる野菜作りは、格好なターゲットの一つではないでしょうか。それも無農薬で作れば、より安心できるものを家族に提供できます。家庭は円満になり、育てる過程での数々の失敗や(たまには)うまく行くことで、育てる喜びも味わえて、断酒継続の支えになること請け合いです。

 平成10年の7月に定年退職し、その秋から、茨木の泉原にある友人の畑を無償で借りて、無農薬での野菜作りを始めました。平成16年の夏から、自宅近くの身障者の施設で農作業ボランティアを始め、仲間数人と無農薬で野菜を作っています。

 この施設で市価より安く販売して地域に貢献するとともに、この施設に通ってくる身障者の自立支援の一助にしています。この他、池田市の老人菜園が、抽選で当たった時は使わせてもらい、また、自宅の庭ではプランターを並べて野菜作りを続けています。

 これまでの試行錯誤と書物などから得られた知識で、無農薬での野菜作りのノウハウは、少しは掴めたとは思いますが、まだまだ発展途上です。これまでの経験で、今守っていることをいくつかあげると、虫のつきやすい野菜は諦めることにし、キャベツ、ハクサイがその例です。虫の付きにくい野菜でも、その栽培時期を選ぶことが大切で、ヘタな時期に蒔くと、トウ立ちといって花芽が出て、全体が堅くなり、食べられなくなります。

 さて、暑い七月の農作業では、春野菜の後処理に追われる毎日ですが、根ものではニンジンの種まきがあります。この種は好光性で、発芽に光が必要なので、土をかけ過ぎると発芽してこないで失敗します。また、厚蒔きに心がけ、播種後の水やりを十分すれば、間違いなく発芽してくるでしょう。

これからシリーズで、掲載いたします。

PDFプリント印刷できます。
2008/05/21のBlog
「断酒してこそ、親子の幸せ」
兵庫県川西断酒会 Y.Tさん(家族)
平成19年近畿ブロック・三重大会
兵庫県断酒連合会家族代表体験発表

(写真は川西市の夜景・夏)------> 

 主人とは、実家の母の友人の紹介で知り合い、結婚して30年になります。真面目で仕事は熱心で、努力家で、両親を大切にする優しい人がいるからとお付き合いし、昭和50年3月に結婚しました。結婚後の3年間は、お酒を飲んだらすぐに寝て、毎朝決まった時間に起きて仕事に行ってました。賭け事もせず、仕事から帰って来て、お酒を飲むことが楽しみでした。そんな主人を見て、まあまあお酒ぐらい飲ましてあげようと思っていました。

 しかし、いつしか酒量は増え続けていきました。昭和52年に長男が生まれ、同55年には、双子の娘が生まれました。私は、3人の子育てに毎日目が回る忙しさでも、主人は酒を飲み、家事はまったく手伝ってくれませんでした。育児は私がして当たり前のひと言で、毎日が過ぎて行きました。

 平成8年のことです。長男の高校受験の一週間前の日に、主人は酒を飲んで仕事を休みました。有給休日も無くなり、病院の診断書を出して休みましたが、職場からは「いつでも辞めてもらって良いですよ。」と言われて、主人は「辞めます。」と言い残して帰ってきました。

 それを聞いた長男は、「高校受験を諦めて、働く。」と言いだし、私は「お願いだから受験して」と、長男を説得しました。主人にその話をすると、「分かった。明日からは酒を止めて、息子のために働いて休まず頑張る。」と誓うのですが、自分一人の力では断酒が出来ませんでした。、またまた大量飲酒が始まり、家族は酒害に巻き込まれ、毎日が生き地獄の生活が続きました。

 息子と娘が「もうお父さんは、一生お酒は止められないのと違うの。命より、お酒のほうが大切やから、お酒を飲んで死んでも自業自得と違うの。好きなお酒を、とことん飲ましてあげたら。」と子供たちから言われ、私もそうすることを心に決めました。

 長男は、大阪市外の大学に入り、自立生活を始めました。娘二人は京都に就職が決まり、寮に入りました。私は、息子と娘が離れて生活することになり、毎日が寂しく、夜になると子供たちに電話をしていました。

 主人は、子供が居ないことで、酒を飲んでは暴言を吐き、酒乱状態になり、誰に助けを求めることも出来ず、針のむしろの日々が続きました。主人と生活をすることが息苦しくなって、自分を責めることもありました。主人がお酒を飲むのは私が悪いから、私が死んだらお酒を止めてくれるかもしれないと何度も思っていました。

 そして平成13年8月頃、主人を断酒させるために病院に入れなければならないと家族が決断した出来事がありました。ある日のこと、主人が「家の中が盗聴されている。」と言い出しました。初めは、半信半疑で冗談かと思っていましたが、次の日も、「録音が出来るCDラジカセを買ってきて欲しい」、「声が聞こえるから、録音する。」とか、台所の横にある窓に向って、「誰か人がいる。」と言っては問いかけたり、笑ったり、怒ったりしていました。

 主人の様子が異常なので、息子、娘に帰って来てもらいました。これは、幻覚、幻聴が出ているので、家族の力では対処が出来ず、池田保健所に相談して、平成13年8月21日に、豊中市の“さわ病院”に強制入院させました。そして、診断の結果、アルコール依存症と分かり、高槻市の新阿武山病院を紹介してしてもらいました。3ヶ月間の入院生活で精神状態も落ち着き、平成13年12月18日に退院出来ました。

 退院後、川西断酒会につながりました。皆様の温かい励ましにより、主人は断酒継続して3年8ヵ月が過ぎます。断酒のおかげで、60歳の定年も迎えさせてもらい、33年間の職場も無事に勤め上げてくれました。現在も同じ職場で、再雇用してもらって2年目です。

 本当に、主人が断酒してくれると、良い事が続きます。長女が3月13日に結婚し、披露宴の時に両親に手紙を書いてくれました。「お父さん、断酒してくれているから、バージンロードを二人で歩けたね。ありがとう、これからもずーと、ずーと断酒継続して下さいね。お母さんを大切に、仲良くして下さい。」と手紙を披露してくれました。

 今の幸せがあるのは、家族の絆があったからこそと感謝しています。また、この大会で体験談を発表させていただき、ありがとうございました。兵庫県川西断酒会会員家族の皆様を始めとして、当例会に参加していただいた朋友断酒会会員家族の皆様のお陰と心から感謝しております。これからも主人と二人で一歩、一歩、前進して行きますので、よろしくお願いします。ありがとうございました。(了)

前のページ   |   次のページ