「長崎レポート④ 出津集落とド・ロ神父」 後編

・・・が、豊臣秀吉〜徳川幕府は諸事情あって国禁にしました。

(その政治的決断は間違っていなかったと私は観ております)

国禁になった後、キリシタン大名(支配者層)は存在しなくなり、

アンチキリシタンの大名が

徹底的にキリシタン(組織)を破壊して行きました。

一方、長崎の地形を観ますと、坂/急斜面が多い・・・

つまり、山が多く平地が少なく、

この出津集落に行こうと思っても、

昔は幹線道路はほぼ無く、船移動がメインとなっていました。

船移動=人の移動も制限され結果、

キリシタンが潜伏しやすくなりました。

そして、海に面していて平地が少ない=米が穫れない、

昔の日本は<米=お金>だったので、

慢性的に出津集落のような潜伏キリシタンが多い地域は貧乏で、

子供も長男以外は全員谷に落として殺さなければならない

(でないと役人がやって来て殺される)ので、

子供を落とす専用の谷まであったとのことです。

出津集落など外海に面し窮境を覚えた一部の人たちは

海を渡り、五島列島を開墾し、そこでもキリシタンを信仰し続けました。

平地でかつ安定した天気で米がたくさん穫れる、

しかも天領(幕府直轄地で年貢割合も低く、比較的裕福)だった、

直系の先祖を持つ私には到底理解出来ない現世の苦しみが、

この長崎の潜伏キリシタンの地にかつてたくさん存在した訳です。

その現世の苦しみを真正面から解決・・・と言いますか、

その苦しみの中にいる方々の心を救おうとしたのが、

【キリシタンの教え】だったのです。

ですので、現状が苦しくても、キリシタンになればなる程、

幸せになれる・・・という境地があったということです。

・・・話戻して、明治時代に私財を投じてこの出津教会堂を始め、

この集落の貧しい若い女性のために住み込みの

職業訓練所(旧出津救助院)等をつくられたのが、

フランスからやって来たマルク・ド・ロ神父です。

ド・ロ神父の実家はとても裕福で、徳の高いご両親は、

ド・ロ神父に財産分与として現在にして24億円

(確かこんな莫大な金額だったかと!?)を渡します。

そのお金で持って、また自らの建築や印刷技術でもって、

貧しい出津集落の人たちのために出津教会堂などを

建てられるなどされたのです。

ド・ロ神父は28歳の時に日本に来てから

一度もフランスに帰ることなく(両親と一度も会うこともなく)

日本で74年の生涯を終え、多くの時間を過ごした、

この出津の地で地元の方々と一緒に眠っておられます。

そんなかんだで出津集落の方々は

今も「ド・ロさま」とお呼びし、

尊敬や感謝の念を絶やすことがないとのことです。

ほんと、こんな【人類愛】がものすごいお方がおられたなんて、

めちゃくちゃ驚きで、そして感動的です。

涙なしには語れません。。。(T0T)☆

【写真】
出津教会堂、旧出津救助院

(2階に置かれていたオルガン、時計、マリア像など全て、

ド・ロ神父の私財でフランスから輸入されたもの)、

ド・ロ神父の墓、

出津集落の海