およそ20年(京都で大学生してた時か

卒業してすぐくらい)ぶりに京都・大原へ。

行ったのは日曜日の午後でしたが、

そんなに観光客はおらず(外国人は数名)、

ゆっくり大原を満喫出来ました。

時間の都合上、三千院と寂光院しか

お参り出来ませんでしたが、大満足です。

夜は大原の旅館に泊まり、

静寂で清らかな大原の夜に光るホタルを見、

人間の持つ儚き人生と強い夢や希望溢れる

人生の両方を観じました。

聖徳太子の時代から歴史の表舞台に

この大原が登場して来ますが、

自動車で京都市内までカンタンに行けるようになるまでの大原は、

完全なる僻地(ド田舎)で、侘び寂びの中に何とも言えない

“美という名前の先人たちの生き様”が積み重ねられており、

とても居心地の良い場所でした。

ある意味素朴な、京都らしい京都が大原には

まだ遺っているのかも知れません。

寂光院の方は前回、2000年に本堂が火災で

燃えてしまった関係でお参りが出来なかったので

今回初めて行きました。

焼けたご本尊の周りにあった小さな仏様たちが、

宝物殿に展示されていました。

黒焦げで形が崩れ、とても痛々しかったです。

だけど・・・なんと言ったらいいんでしょう。

お寺(信仰そのもの)や信心深い人々を護るため

/消罪&弥栄のために、仏様たちは、

自らが成り代わって焼かれていったのでは?と観じました。

アンパンマンがおなかを空かしている人に、

自分の頭(アンパン)をあげるという発想と同じです。

仏像って、依代(いれもの)なんです。

“みたま”は自由自在なので本当はそこには無い

/どこにでも在るんですよね。

ですので信心さえあれば、仏像の中にも、

信仰心の篤い人の心の中にも常に宿るものなんだと思います。

その心さえ無くさなければ、その仏様(信じている存在)って、

そこから無くなることは無いんですよね。

仮相は仏像という目に見える・五感の範疇にあり、

本当のこと・実相は目に観えない、

五感を越えたところにあるということであり、

それに惑わされることなく今、

自分がすべきこと・考えるべきことを

一所懸命すべきであるということを、

御身を持って教えて下さっているようにも観じました。

とにもかくにも大原界隈は、

「ホトケという“カガミ”」を通して、

自分自身を見つめるにはとても良い場所ですし、

恐らく先人たちもそれを求めてこの地にやって来て、

そんな場所にして行かれたのだと思いました。

●「京都 大原観光保勝会」

https://kyoto-ohara-kankouhosyoukai.net/

●「三千院」

http://www.sanzenin.or.jp/

●「寂光院」

http://www.jakkoin.jp/