「自然界の2つのサイクル」

地球には、宇宙から与えられた

【自転】と【公転】という二つの回転

(流れ・サイクル)があります。

私たち人間にも、同じような

【二つのサイクル】があるように感じています。。。

一つは地球で言う自転・・・

【自分自身の人生のサイクル】。

別の名前で言うと個人的な人生における「苦難・試練」。

仏教的に言うと「自らに課せられた行・修業」。

一方「公転」は、人間個人(私)を越えた【公のサイクル】。

所謂「国難」や「地球みんなが関わる・共有する苦難や試練」。

公は「私の集合体」であり、私(個人個人)の意志や想い、

そして采配を越えたところで起こるものであります。

地球的規模で起こる自然災害や、

国境を越えたテロがこれに当てはまるかと思われます。

一方、地球内部には「風」という流れ・サイクルがあります。

別名「気」と言います。

貿易風や偏西風、気流・・・いろんな流れ・サイクルがあります。

これを人間に例えるならば、地球は私たち人間の【心】そのものであり、

人間の想念(感情、心の中での葛藤)が地球という心の中で

ゴロゴロと風のように流れているようなものであります。

この想念(心のあり方や方向性)がどのような状態かによって、

自分自身の個人的な苦難や公の苦難の捉え方や、

対処の方向が変わって来るかと思われます。

例えば、全く同じ生活的条件を持ち、

全く同じ大苦難に遭った人が2人いたとします。

片一方は前向き&プラス思考、そして自らに対しての

反省懺悔が心の中心にある人、

もう一方は、後ろ向き&マイナス思考、

そして全てを他人や外部環境のせいにして

反省懺悔をしない心を持つ人だった場合、

前者の方が、大苦難に遭う前の状態に心身のレベルを戻すスピードも早いし、

大苦難に遭う前よりも心身のレベルを高め深められるスピードも早いです。

このような感じで、私たち人間は、この地球上で生きていること自体が「動」であり、

この大宇宙の流れ(サイクル)に乗っかっていて、

自分自身の意志・想念とは関係ない部分でも

試練や苦難を与えられるということです。

【私や公からの試練や苦難を与えられること=

生きることそのもの=この地球上(娑婆)での修業】であり、

この図式から外れている人間は存在しないです。

この「動(どう)」流れは正に「道(どう)」であろうかと思われます。

人間死ぬまで、自らに与えられた“道”を

極めようと切磋琢磨しながら生きる(=修業する)存在であり、

この動のサイクルから外れた人間は「静・止」の状態で、

この地球(娑婆)に誕生する前の魂のみの存在か

もしくは生物学的に命がない存在・・・つまり死んだ人間となり、

これらの人間は、人間という定義からは外れます。

我々人間の定義は、

「人間の体裁をした“肉体という器”の中にある心に“魂”というものが合体した存在」

であり、肉体と魂が、心で合一した存在が「命がある状態」になり、

それで初めて人間が人間としてこの地球上に存在出来るのだと思います。。。