八尾市・太子堂「勝軍寺」(足元の歴史)について改めて考えてみる。

先程、「ネコマンガ」をブログにアップして

「さてもう寝ようっ(%ニヤ女%)(%ハート%)」って

満足しかけてしまいましたが(笑)、

これまた必要なことをお話しするのを忘れてマシタ。

八尾市の中に走っている国道25号線・・・

難波から大和の国へ向かう、昔からの重要な幹線で

今でも多くの交通量があり、

私の自宅もこの国道沿いにあります。

国道沿いに「太子堂(たいしどう)」という交差点があり、

この交差点と言えば・・・

「いっつも渋滞してるねんっ(%痛い女%)」という

いいイメージがない場所なんですが(笑)、

この交差点の側に「大聖勝軍寺(しょうぐんじ)」という

宗派:高野山真言宗の、

昔からある結構大きなお寺があります。

ここの本尊は、「聖徳太子十六歳像」なんです(驚)☆

開基も、聖徳太子と言われています。

一体このお寺がどれだけ古いのか・・・?

ちょっと調べましたら、用明天皇2年(587年)でした!

今から1426年前って、ビックリ仰天〜っ☆

(※四国88ヵ所のお遍路ルートは出来て再来年で、1200年デスヨ〜!)

——–

587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の

物部守屋との戦いで「いまもし我をして敵に勝たしめば、

かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」(日本書紀)と

祈願して戦勝したことから、

戦後間もなく四天王を祭るための寺院として

摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、

当寺の太子堂が建立された。

——–

・・・とのことです。

昔、奈良のどこかで聞きましたが、

一般的な燈籠は、本尊がまつられている建物の前に

間を挟むように2つありますが、

ここの燈籠は真ん中に1つだけなんです。

昔(奈良時代頃。仏教伝来の初期?)のお寺はこのように

1本だけなんだそうです。

こんな古いお寺があることは、

八尾がいかに歴史のある古い町か・・・

お分かりいただけるかと思います。

長い歴史・・・で思い出しましたが、

今日、桃林堂という八尾の最も有名なお菓子屋さんで、

右の情報が書かれた冊子を見つけました。

縄文時代。

大阪の淀川周辺や、東大阪市あたりまで、

「河内湾」という名前がつけられた海だったんです。

ここでポイントなのが、北隣りの東大阪市までが海で、

南隣りの八尾市が、陸(海辺)だったということです。

ですので、この八尾市は縄文時代の頃から、

海から人がやって来て、内陸(大和)に行ったり、

内陸にいる人たちがこの八尾まで来て、海を渡っていた

ということになります。

そんな縄文時代まで遡ると・・・

縄文時代って、今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)〜約3,000年前までに

なりますので、想像を遥かに超える、とんでもない時間の間、

ずーっとこの八尾に人が住もい続けていて、

その人たちは、確実に私の「遠い先祖」になる訳なんですよね。

なんか、万感の想いですよね。。。

だって、そのご先祖様、誰一人として欠けては、

この私って生まれて来なかった訳ですから。。。

このお寺は、「高野山真言宗」ということで、

まさに、アノ四国遍路さんと同一の宗派(%ハート%)

明日から、また四国に行くことですし、

ここで弘法大師さんに旅の安全祈願を・・・(%ニヤ女%)(%星%)

こんな感じで、明日の夜いる予定の

松山界隈のお寺も含め、

88ヵ所の寺の碑が建ってあり、

わざわざ四国で1300キロ歩かなくても

20メートルくらい歩けば、もー、結願です(笑)。

これからは自宅から800メートル離れたこのお寺で、

20メートル歩いて、修行を積みたいと思いま〜す!

う〜ん♪ ラクチン過ぎ〜っ(%ニヤ女%)(爆)☆

・・・きっとこの八尾にも、かつて(今でも)

四国遍路に渇望して・・・だけど行けなくって、

そんな需要に応える形で、このようなものが

長い歴史の中で出来て来たんだと思います。

今こうして、気軽にお四国参りにも行けて、

本当に有難いなぁ・・・って思います。

先人達の渇望と叡智の結晶(徳の賜物)ですもんね。

ってことで、また明日から(お遍路さんとちゃいますけど)

四国・愛媛に行ってマイリマ〜ス(%笑う女%)(%王冠%)