結願への道 〜歩きお遍路、最終章〜 高松市街→86番・志度寺 前編

23日(日)夜。

86番・志度寺近くの民宿にいます。

古い民宿でエアコンをMAXにしても

隙間風が入ってきて、なんだか寒いので、

今日はコート着て寝なければならないほど、

なんだかかなり寒いです(%ショック女%)(%涙%)

だけど、そんなかんだ言っても、明日で歩き遍路行は終わります。

うれしいような、さみしいような・・・

ふくざつな心境です。。。

やっと終わる苦難の行、その反面、

これほど歓喜を味わえる行もなかなかありませんので。。。

さて、今日の報告です。

23日(日)、天皇の誕生日。

朝食を取りながら天皇陛下のお姿をテレビで拝見し、

朝7時半。また歩き出しました。

高松の旧市街地の川沿いを歩いてますと、

ウォーキングしていたおばさんに前から声をかけられ、

『お接待です。これでジュースでも買って下さい』と150円頂きました。

更に、国道11号線に出る道を地図片手に考えてましたら、

ジョギング中のおねえさんに『どこかお探しですか?』と

わざわざ足を止めて下さりました。

わざわざ足を止めて、見ず知らずの人(お遍路さん)の為に

時間や何かを与えられる人とは、

この遍路道でたくさんお会いしましたが、

例外無く100%、後光のさす美しい方々でした。感涙です。。。

ちまたには『接待』という言葉があります。

例えば私が建築屋さんだとして、

地元の政治家を『接待』し、どっかの道路や橋を作る時の入札で

便意を図って欲しいと、あれこれご馳走したりあげたりします。

一見同じような『お接待』と『接待』ですが、

典型的に違うのは、『お接待』は相手のことだけを想い、

相手の幸せのためにひたすら尽くす‘徳積み’の行です。

それに対して『接待』とは、相手ではなく自己中心的傾向にあり、

自分の‘得積み’のためにやっている行です。

‘徳’と‘得’の相関関係もこの遍路行でぼやーっと見えて来ました。

私自身の経験、身の回りの方々や四国で出会う方々をたくさん観察し、

分析した結果、‘得’は追っかければ追っかける程逃げて、

‘徳’を追っかける程、‘得’として返って来るという

『大自然の法則』が見えて来ました。

これはいつ誰がやっても同じです。

‘得’を追い求め、我欲のままに人の幸せまで奪う強欲な人は、

自己努力により、ある程度の金持ちとか名誉を手にすることは可能のようです。

問題はその『継続性』です。

得を追い求める程、徳とは反対に‘罪’を積んで行きます。

罪がある程度積み上がりますと、

一気に『苦難』と化けてその人に襲い掛かります。

その苦難の量と質、起こるタイミングは絶妙で、

人間業を越えた『天の采配』の的確さに、深い恐怖と感動と覚えます。

そんな恐ろしい…あまり味わいたくない『苦難』と『幸福』にも、

相関関係があるようです。

『苦難福門の話』〜苦難は幸福へ至る狭き門〜

そんなことを、倫理法人会でも勉強しています。

過去何度かこのブログで書かせて頂いていますが、

人間として生まれて来る限り、いいところわるいところ両面を持って

生まれてきます。

いいところは『徳』で、わるいところは『罪』です。

罪は仏教用語で「煩悩」(わがままなどの自己中心的なマイナス的思考や言動)

によって引き起こされます。

罪を直そうと天が人間に与えた試練は『苦難』です。

苦難は恐れ忌み嫌うものではなくて、

その真理は、その人の間違った心のあり方ややり方(言動)を

直すための「信号(サイン)」として現れます。

そのサインに気付かなかったり、

「めんどくさい」とか「逃げたい」とかいって

心のあり方ややり方を変えずにいると、

自己成長・進化できないばかりか、どんどん罪が増して、

どんどん罪が重くなってしまいます。

例えば、歯がちょっと痛い・・・って思っていても、

歯医者に行くのがめんどくさいからと放置し続けていたら、

とんでもなく痛くなってから歯医者に行くと、

歯を抜くばかりか、歯周病が酷くなって、どうしようもなくなった・・・

という感じでしょうか?

身体の病気も心の病気(間違った心のあり方)も

早期発見&対処は非常に重要です。

自らのあり方・やり方が間違っていますと「黄色信号」として

苦難がやってきます。

その苦難を真正面から受け、喜んで対処していると

自らのあり方・やり方が正しい方向に向いてきます。

そうすると、苦難は去って新たな進歩を手にし、

そして幸福がやって来る・・・ということも、また「自然の法則」であります。

お遍路さんをしていますと、

その自然の法則が、特によく見えます。

だけど、その『罪』や煩悩、苦難があるからこそ、

人生の感動もより深まって行きます。

人生、幸せなこと、徳なことばかりでは、

その幸福な安泰な状態が「当たり前」になって、

何にも面白くないと思います。

つまり、嬉しいこと、幸せなことは、

その真逆にある、悲しいこと、辛いことがあるからこそ、

感じられる幸福感なんですよね。

だから、喜怒哀楽全部ひっくるめて「これがよい」「一切が善」なんですよね。

こんな考え方は、「プラス思考の考え方」という表面上のものではなく、

『真理』であります。

この真理を知らずに、あれこれ不平不満・不足不満を言って、

苦難を嫌い、逃げたり嫌がったり誰か・何かに責任転換してますと

永遠に「幸福感」を得ることが出来ません。

例え、殆どは相手がわるいことであっても、

100%相手がわるいということはありません。

残り数パーセントの己自身のわるかったところだけを見て、

反省し、自己を更に変えて進化させていく・・・。

相手のわるいところ(罪)は、

天の采配で、自分が手を下さなくっても、

勝手に罪が落雷のようにその人に落ちるので、

ほっておけばいいんです(%ニコ女%)(%星%)

源平の戦いの中に『屋島の戦い』があります。

今晩、NHKの大河ドラマ『平清盛』が終わりましたが、

その『屋島の戦い(1185年)』の舞台になった、

屋島と志度を今日、歩きました。

高松市街から12キロ、山の上にある

84番・屋島寺をお参りさせて頂きました。

この山は、一回目のお遍路さんの時から、

なんとなーくですが、ほんの少し、よろしくない“気”を感じます。

人間の“怨念”とはこの世において最も強い念

なのかも知れません。

その場所でも私たちの想像を絶する

血みどろの争いがあったかと推測されます。

平家滅亡から800年以上経った今でも、

その“念”は、その土地や風土に染み付いているのかも知れませんね。。。

私は『平家物語』の冒頭部分・・・

祇園精舎の鐘の声

諸行無常の響きあり

沙羅双樹の花の色

盛者必衰の理をあらわす

おごれる人も久しからず

ただ春の世の夢のごとし

たけき者も遂には滅びぬ

偏に風の前の塵に同じ

・・・がとっても好きで、手帳の最初のページに貼っています。

平家は源氏によって滅ぼされましたが、

源氏もまた滅び、足利氏も滅び、戦国時代になり・・・

とまぁーこんな感じで、昔から人は争い人を殺し合って来ました。

永久に対立していたらいつか必ず滅ぶんですよね。

諸行無常・・・平家物語状態です(笑)。

現代社会でも未だにあっちこちで源平合戦を繰り返しています。

祇園精舎の鐘が今もこの世で響いています。

人の命を奪わないまでしなくても、

人の文句を言ったりするのも、命を傷つけることになります。

攻(責)め心ではなく、相手のことを思った上での説法的なニュアンスで

あれこれと言って差し上げるのであれば、いいかも知れませんね。

84番・屋島寺をお参りし終えて、そこにあった「宝物館」で

源平合戦の遺品とかを見て、ますます諸行無常を

心に刻み付けて山を下りました。

この平家物語の「諸行無常観」をしっかり把握した上で、

この娑婆の世界で「源平合戦」に参加すると、

真理を外すことなく、“深み”にはまることはないかと思います。

常に、山の上から娑婆の世界にいる冷静且つ客観的な

自分自身をちゃんと見ていれば、道に迷うこともないかと思います。

そんな『超客観的視点』を体得出来たのも、

このお遍路行のおかげでございます。

屋島寺の下り道に、大変保存状態のいい

お地蔵さんがありました。

「享保十四年(1729)」と書かれています。

お地蔵さんには「●丁」と書かれてあり、

(※1丁は約109メートル)

あと何丁で次のお寺に着くか?教えてくれる便利なツールであり、

そして私たちお遍路さんの旅の安全の祈願という

精神的なツール・・・両方を兼ねています。

どんな意図でこのお地蔵さんが誰の手によって作られたのかは

分かりませんが、その人がこの世を去った後もずーっと

250年以上もの間、お遍路さんの安全を見守っているという

“慈愛の心”が、そのお地蔵さんから感じます。

戦後の開発で、この手のお地蔵さんはどんどんなくなったようですが、

今でも多くのお地蔵さんが、静かに私たちお遍路さんの

安全を祈り続けています。ほんと、現在過去未来・・・

いろんな人に感謝、感涙です。。。

85番・八栗寺手前3キロのところで正午になったので、

スーパーで買ったお弁当を食べることにしました。

が、どんどん寒波到来で、風が吹いてきて寒くなってきました。

住宅地にはベンチとはなくって、

池のほとりで食べることにしました。

冬のお遍路行では必ず一回は極寒の空の下で

ご飯を食べる行があります。

ほんと、髪の毛を食べながら・・・鼻水たらしながら・・・

手はかじかむし・・・めちゃくちゃみすぼらしい姿。。。

だけど、こんな過酷な状況になっても「感謝」で感涙です。

「ああ、普段あったかい場所であったかいものが食べれて

有難いなぁ〜・・・」って、ひしひしと実感する訳です。

いつもあったかい場所であったかいモノを食べたり、

『お接待』受けていたら感動しない…有難いとも思わない。

つまり『当たり前』で『幸福感が味わえない』の状態。

だから普段はある種・広い意味での『苦難』の状態。

『苦難』というものがあるからこそ、それから逃れられた時や、

乗り越えられた時の感動歓喜・有難さを実感し、

そして初めて『幸福感』を味わうことが出来る。

この『幸福感』の質の高さと量の多さが

人生の幸福や価値を決めるのではないでしょうか。

ですので、人生をより価値&幸福あるものにする為には

まず『感謝する能力(感謝力)』を研ぎ澄まさなけれはならないと思います。

感謝することは、幸福を掴む為の最初のステップで

幸福を陰で支える基底にあるもののようです。

感謝力を研ぎ澄ます最も手っ取り早い方法は、

昨年11月に会いに行った、インドネシア・バリ島の

日本人大富豪の愛称『アニキ』が…

『それは死にかけることや』とおっしゃってました。

つまり、‘命’というこれが無かったら絶対に生きて行けないものを、

死にかけることによって、その有り難さに気付き、

感謝出来るんだそうです。

命があるからこそ、今私たちは生きていけるんです。

だから幸せも苦難もみんな

『生きてるからこそ実感出来る有難い存在』なんですよね(%笑う女%)(%王冠%)