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まなびの会
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2020/01/07のBlog
日 時 2020年1月6日(月)10時30分~12時
 マイナーな作曲家であるセザール・フランク(1822~1890)
唯一の「ヴァイオリン・ソナタ」をいろんな楽器で聴く機会が
ありました。
 フランクは1822年にベルギーで生まれ、主としてフランス
で活躍した作曲家であり、オルガニストです。
 彼は幼い頃から父の教育によりピアニストを目指して
1835年に一家でパリに移住してパリ音楽院に入学しました。
 そしてピアノ講師、その後教会のオルガニストとしてつつましい生活を送り、その間に作曲家としては宗教音楽を中心に曲を手がけています。
 この「ヴァイオリン・ソナタ」は同郷の大ヴァイオリニスト:ユジェーヌ・イザイの結婚祝いとして贈られた温かい心情のこもったものとのことです。
 今回はこの曲を3つのソロ楽器(フルート・チェロ・ヴァイオリン)で聴き比べようとの企画でした。
 第一楽章は、展開部を省略したソナタ形式で、ピアニシモで静かに終わりました。
 第二楽章は、リズム感のある第一主題と美しい旋律の第二主題で構成されていました。
 第三楽章は、自由で独創的で、伴奏(ピアノ)の美しいアルペジオが印象に残りました。
 第四楽章は、第三楽章までの主題が配され、最後はカノン風で華々しく終曲するものでした。
 フルートはリズムよく、チェロは落ちつきのある雰囲気でしたが、やはりヴァイオリンが一番しっくりでした。
2019/12/21のBlog
[ 16:10 ] [ 生活・社会 ]
日 時 2019年12月21日(土)13時30分~15時
 ノーベル賞にまつわるお話しがありました。
 今回は、(1)化学賞の受賞テーマである「リチウムイオン
電池の開発」と(2)物理学賞の受賞テーマである「宇宙の
進化と宇宙における地球の立ち位置の解明」が内容でした。
 まず(1)ですが、日本の吉野彰さん他2名が受賞された
のは、周知のことです。
 従来のイオン電池は、金属リチウムを負極として用いた
電池で、放電のみの使い捨てで、充電しようとすると発火・破裂の危険性があるものです。
 一方 今回受賞の対象となりましたリチウムイオン電池は、負極として金属リチウムを用いず充電を可能としたものであるとのことです。
 これの優位性は、①電池電圧が高い、②リチウムを含んでいるので充電反応から電池反応を開始できる・・・がある由でした。
 次に(2)のことですが、まず「現代宇宙論」(宇宙背景放射および異方性の理論的予言・・・等)で、宇宙は未来永劫から存在していたのではなく、何かがあって生まれたものに我々は住んでいる(場所と時間の共有)としています。
 また「太陽系外の惑星の発見」は、星のふらつきを探していて銀河の太陽らしきものを発見し、ホットジュピター(木星の資質の約半分)を見つけたとのことでした。
2019/12/20のBlog
[ 16:28 ] [ 政治・経済 ]
日 時 2019年12月20日(金)10時~11時30分
 令和元年の年末となりましたので、来年以降の予定や懸案事項
についてお話しがありました。
 まず、政府が目標としている事項ですが・・・
 ●訪日外国人客を年間4000万人に(令和2年)
 ●外国人労働者を5年間で34万人に(令和5年)
 ●プライマリーバランスの黒字化(令和7年)
 ●キャッシュレス決済比を40%に(令和7年)
 ●再生可能エネルギーを電源構成比22~24%に(令和12年)
 ●新車販売中、ハイブリッド車の合計を2~3割に(令和12年)
 ●東京電力福島第1原発の廃炉完了(令和23~33年) ・・・・・等々です。
 また、懸案事項としましては・・・
 ●団塊の世代が75才以上の後期高齢者になり始める(令和4年)
 ●総人口が1億人割れ(令和35年)
 経済は「生産→分配→支出」のサイクルで廻っており、うまく回転している時はよいのですが、人口が段々減少してくると生産者や需要者も減ってくるので、これの対策が急務です。
 現政府は三本の矢(金融、財政、成長戦略)で対応していますが、好転のスピードが遅く、少子高齢化への対策を平成の時代に打ち出せなかったのが、何と言っても残念なことです。
2019/12/18のBlog
[ 14:33 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2019年12月18日(水)11時~12時30分
 日本の名槍「天下三槍」についてのお話しです。
 日本には古来から三本の名槍が伝えられています。それは
(1)後藤又兵衛の「日本号」
 この槍は元々正親町天皇が足利義昭の将軍即位時に祝い
として贈ったものと言われており、伝承では、正親町天皇→
足利義昭→織田信長→豊臣秀吉→福島正則→母里太兵衛
→後藤又兵衛・・・・と引き継がれたとのことですが、史実では
母里家が所持していたらしく、現在は「福岡市立美術館」が所蔵しているとのことです。
 特にこの槍は、民謡・黒田節「酒は呑め呑め 呑むならば 日本一(ひのもといち)のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士」にもあり、因みに母里太兵衛は黒田藩の家臣でした。
(2)本多平八郎の「蜻蛉切」
 この槍は本多平八郎(徳川四天王のひとり)が戦さの時に野で休んでいたところ、そばに立てかけていた槍の穂先にトンボが止まり、そのトンボが自分の重みで体が真ふたつに切れてしまいました。
 それを見ていた主君の徳川家康が「蜻蛉切」と命名したとのことです。
(3)森武蔵守長可の「人間無骨」
 森武蔵守長可は織田信長の家臣(森蘭丸の兄)で、鬼武蔵の異名を取った人です。
 この槍の刃表に「人間」、裏に「無骨」と彫られていたことからこの名がついたとのことでした。
2019/12/16のBlog
[ 16:13 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2019年12月16日(月)13時30分~15時
 紫式部の同僚であった「赤染衛門」と「伊勢大輔」の生き方等
についての考察がありました。
 まず赤染衛門(957~1041)ですが、彼女は当初藤原道長の
正室となる源倫子に仕え、そのころ学才のすぐれた大江匡衡と
結婚しています。
 彼女は夫を支え子を守る良妻賢母型の女性だったと言われて
います。
 歌人としてもすぐれており、百人一首に「やすらはで 寝なましものを さよふけて かたぶくまでの 月を見しかな」(ぐずぐずして寝ずにあなたを待っていましたが、結局 あなたは来なかったので、西の山にしずむ月を見てしまったじゃないの)を残しています。
 彼女は良妻賢母とされていますが、以前から恋人がいて、それは夫のいとこだとも言われています。
 一方伊勢大輔(989~1069)は伊勢神宮の祭主をつとめる家系に生まれ、中宮彰子に出仕いたしました。
 当時 彰子サロンには紫式部がおり、また遅れて和泉式部が入ってきて、話し相手を勤めたとか。
 彼女はサロンの文学的な雰囲気の中、歌人として力量を発揮して多くの歌を残しています。
 その後 高階成順の妻となり、三人の娘を儲けました。
 百人一首には、「いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に 匂いぬるかな」(昔の都である奈良から八重桜が送られてきて、今の都の京都の九重(宮中)に咲きほこっています)と詠んでいます。
2019/12/14のBlog
[ 17:12 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2019年12月14日(土)14時~15時30分
 フランスを中心としたヨーロッパの古代・中世の記録を後世に伝え
るための写本についてお話しがありました。
 まず最初に「アングロノルマン語」について解説がありましたが、
この言語はある時期ある地域で話されていたフランス語のことだそう
で、それは11~14世紀にイングランド地域であったとか。
 なぜ英国南部でフランス語が話されていたかですが、その昔バイ
キング(ノルマン人)がフランス北部に住みつき、ノルマンディ公国を
つくり、この一部が英仏海峡を渡って、イングランドを征服したことによるのだそうです。
 その時の王・ヘンリー2世(1154年即位)は歴代の王の歴史を編纂するよう命じ、この中にアーサー王の物語が入っていたことから、後世の私達が知ることになったわけです。
(英国はその後、1362年に英語が公用語になりました。)
 このように、他人や相手に伝える手段のひとつが「写本」です。
 この写本(書写)の歴史ですが、文字が発明されるまでは専ら絵画によるものでしたし、その記録媒体も紙が発明されるまでは、石や植物等を利用していたようです。
 たとえば、ロゼッタ石には勅令が書かれていますし、パピルスにはヒエログリフが書かれ、ポンペイには壁画が残っています。
 そして羊皮紙→紙へと進化し、1445年にはグーテンベルクによって活版印刷が発明されました。
2019/12/13のBlog
[ 21:57 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2019年12月13日(金)13時30分~15時30分
 来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公・明智光秀が
主君・織田信長を本能寺で討ち、短い期間でしたが天下を
掌握した頃を中心としたセミナーがありました。
 光秀は1580年には丹波制圧を成し遂げ、丹波経営・坂本
城改修等を行い、加えて丹後や大和国支配の補助も任されて
大きく飛躍しました。
 光秀はこの時期、織田家中随一の実力者になりました。
 その後も光秀は多忙で、1582年には武田勝頼攻めに出陣したり、安土に逗留する徳川家康の馳走を命じられたりしています。
 そして信長は、武将達を最前線に立たせる一方、整備の済んだ領地は一族に与える等しており、このような状況が光秀ら武将に不満を抱かせる要因になったかもしれません。
 1582年5月に信長から西国出陣を命じられた光秀は、坂本から亀山に移動し、愛宕山で連歌を催しており、この時の発句が謀反の決意表明と言われています。
 すなわち、「とき(土岐)」「あめが下(天下)」「下しる(下知する)」と解釈されていますが、謀反の理由は怨念説・野望説・黒幕説・四国政策転換説等々諸説あり、いまだわかっておりません。
 光秀は束の間天下人になりますが、山崎の合戦で秀吉に敗れ、落武者狩りで殺害されました。
 本能寺の真相は本人が殺され、親族等も自害しており、資料も残されていないため不明とのことでした。
2019/12/12のBlog
[ 19:13 ] [ 文学・宗教 ]
日 時 2019年12月12日(木)14時~15時30分
 今回の関西文化に育まれた文学は、司馬遼太郎の「燃えよ剣」
が取り上げられました。
 この小説は新選組副長・土方歳三の生涯を描いたもので、松竹
が1986年に映画化し、1997年には宝塚歌劇でも舞台化され
ました。
 新選組は1863年に江戸で集められ、京都に移動した浪士組
から、芹沢鴨一派と近藤勇一派が手を組んで独立し、京都守護職
会津藩主の庇護のもと発足された組織です。
 任務は、倒幕武士の探索・捕縛や警備・反乱の鎮圧でした。
 また主な戦歴は、池田屋事件・尊王攘夷派志士の斬殺・捕縛、蛤御門の変・・・等々で戊辰戦争の終戦とともに解散されています。
 この小説の最後には、「五稜郭は降伏し、開城した。総裁・副総裁・陸海軍奉行など8人の閣僚のなかで戦死したのは、歳三ただひとりであった。8人の閣僚のうち、4人まではのち赦免されて新政府に仕えている。」とあり、この時歳三は函館政府の陸軍奉行でした。
 歳三は、「攘夷も開国もない。事がここまできた以上、最後まで徳川幕府を守る覚悟になっている。時勢など問題ではない。勝敗も論外である。男は自分が考えている美しさのために殉じるべきだ。」と言い、また「もしここで自分が生き残れば地下の近藤にあわせる顔がない。」として、生涯を閉じました。
2019/12/09のBlog
[ 19:05 ] [ 歴史・考古 ]
日 時 2019年12月9日(月)14時~15時30分
 第2次世界大戦敗戦後、すぐに食料事情の悪化等により闇市が
起こります。
 因みに「闇市」とは、公定価格を外れる価格(闇値)で売買する
店舗群のことを言います。
 今回は神戸市における闇市を例にしたお話しでした。
 戦後すぐ、すなわち1945年(昭和20年)の9~11月頃には
はやくも神戸市内の中心地である三宮や元町の高架下と南側
街路上ならびに湊川・新開地に闇市ができました。
 まず「三宮国際マーケット」についてですが、1945年に三宮自由市場の地域指定と組織化が計画され、中国人・台湾人・朝鮮人・日本人の各営業者が県警で協議して、外国人と日本人の営業地域を分けることになった由。
 次に「三宮ジャンジャン市場」ですが、路上不法占拠店舗の撤去に伴い、三宮町一丁目の北東部に2区域(東:新興街、西:三宮市場)ができ、このうち「三宮市場」のことを通称「ジャンジャン市場」と呼ぶようになったとのことです。
 そして「湊川公園商店街」のことですが、ここは戦前から湊川の付け替え・埋め立てによって商店が生まれた所ですが、戦後引揚者の救済目的もあって店舗兼住居群として開業されたものです。
 このような闇市はやがて「市街地改造事業」や「土地区画整理事業」によって整備されていきました。
2019/12/08のBlog
[ 17:31 ] [ 音楽・美術 ]
日 時 2019年12月8日(日)13時30分~16時
 富岡鉄斎の絵・書法にまつわる講座がありました。
 彼は1836年に京都三条通に生まれ、1861年に長崎へ
遊学しました。(この頃から絵画を志す。)
 その後15年間ほどは神社の宮司を歴任し、以後隠棲
生活に入ります。
 やがて京都市美術学校の教授を勤め、1924年に自宅で
没しました。
 彼の絵画は日本画とは少し異なり、中国人の視点や中国の理念を直視したものである由。
 因みに、中国画は(1)北宗画(画院画)と(2)南宗画(文人画)に分かれ、(1)は絵具を使った絵画であるのに対し、(2)は墨で描く水墨画が多いとのことです。
 彼の絵画は正に文人画であり、これは詩心を画にしたもので、老荘思想(自然賛美)とも言われているものだそうです。
 したがって、絵の中にその説明のため、詩を書いているものが散見されます。
 さて彼は京都に生まれ、京都で没しているわけですが、当時の京都は円山(応挙)四条(呉春)派が主流で、その円山四条派は写生画がメインでしたので、彼とは一線を画していたようです。
 ただ彼は、四条派の呉春の弟子(小田)に学んだことがあったとか。
 またやはり四条派の幸野楳嶺とも交友があって、品評員としても招かれたことがあった由でした。