継体大王VS筑紫君磐井

日 時 2019年3月7日(木)13時30分〜15時
 継体大王の命を受けて朝鮮半島に向かおうとした近江毛野の
軍を、筑紫君磐井が阻止しようとして戦争になりました。
 この527年の事件は、新羅が磐井に賄賂を贈り、軍勢を阻止
させたとも言われています。
 上記の継体朝の一大事についてご教示いただきました。
 この頃の朝鮮半島は、百済が高句麗に侵略されて、都である
漢城(ソウル)が攻め滅ぼされ、百済王も戦死しています。
 そのような状況の中、「日本書紀」によれば・・・・
527年:近江毛野は兵6万を率いて新羅に侵略された南伽耶を奮還するために出兵するも
 筑紫の磐井に阻止される。(新羅が賄賂を贈ったか否かは不明)
 天皇は磐井軍を鎮圧するため、物部麁鹿火を派遣した。
528年:物部麁鹿火は筑紫の三井郡で磐井を斬首し、乱を鎮圧した。(写真は、磐井の墓・岩戸山古墳)
 ・・・で、なぜ磐井はこのような行動に出たのでしょうか。 それは・・・
 (1)百済王と倭王が直結したため、対外交渉における九州勢の既得権が奪われた。
 (2)よって、筑紫の盟主・磐井は新羅と結んで対抗することにした。
 ・・・と考えられますが、結局 磐井は敗退したため、息子の葛子は支配地(糟屋)を献上(対外交渉権を献上)し、ヤマト政権は以後九州の各地に直轄地を設置していったとのことでした。