江戸無血開城の経緯

日 時 平成30年10月17日(水)11時〜12時30分
 明治維新のハイライト・江戸無血開城を中心とした幕末のお話
しを聞いてきました。
 最後の将軍・一橋(徳川)慶喜は、「鳥羽・伏見の戦い」(1868年
1月)が始まりますと、同月6日の深夜に大阪城を抜け出し、舟で
江戸に帰ってしまいます。
 翌日 新政府は「慶喜追討令」を公布し、松平容保(会津)や
松平定敬(桑名)らの官位を剥奪してしまいました。
 一方 江戸では慶喜が勝海舟を呼び出し、海軍奉行並→陸軍総裁・若年寄に任命するとともに、今後の善後策を検討させていました。
 新政府側は、同年3月6日の駿府城での会議で15日を江戸総攻撃と決定いたします。
 それを知った勝海舟は、山岡鉄舟を西郷隆盛のところへ走らせ、会談の下ごしらえをさせます。
 その時の西郷案は、1.慶喜は備前預け(人質→処刑)、2.江戸城明渡し、3.兵器全てを渡す等、一方 山岡(勝)案は、1.慶喜は水戸にて謹慎、2.兵器全ての引渡しは無理、3.城中の者は城外で謹慎等でした。
 結局 14日の西郷・勝会談において、おおむね勝案を西郷が呑んだ形で決着するわけですが、これは勝が「江戸総攻撃を受けた場合は、町に火をつける焦土作戦」を背景にしたためとも言われています。
 そして4月11日に無事「江戸城は無血開城」となりました。
 ただ、一部徳川兵は軍艦等を持って江戸を脱出しています。