片寄先生の話を聞く会+懇親会

12月5日(月)18時半〜、街角広場において、片寄俊和先生の話しを聞く会「ブワナトシとニュータウン開発の頃」+懇親会を開催しました。まちびらき50周年を来年に控え、大阪が元気だったニュータウン開発の頃の生き生きとした話を片寄先生から是非聞きたいとの思いから企画したものです。この日、住まいの学校会員の他、合計17名が集まりました。先生の話の要旨は以下の通り。
ニュータウン開発を考えた人は戦前から多く(都市計画家の石川栄耀、高山英華など)、満州でも新都市開発が構想された/住宅公団の発足(’50年)とともに始まった住宅団地は人が増えることで好まれなかったこともあり、街をつくりたいという思いが多くの人にあった/千里の開発が遅れたのは水がなかったことだが、淀川の水利権を獲得して事業が可能になった/

63年に国連の阪神都市圏調査が実施されたことがニュータウン開発の気運を高めた(調査の本当のねらいは何だったかは未だ不明)/未来都市論の系譜の中で千里ニュータウンは開発されたが、明文化された理念はなく、ペイの論理とモデルの論理のせめぎ合いの中で進められた/千里の開発が成功したのは、立地条件が良かったことと権力に近い企画中枢を擁したこと/用地買収に伴い住民は激しく抵抗したが、行政はリーダーと繋がり、一致団結することによって切り抜けた/千里市の構想は当初からあった/建設に当たっては近隣住区理論を徹底的に利用したが、これによって人間の暮らしとニュータウン空間のありようにズレが生じた/

「山の手的な風致」を理想としたが、中心は集合住宅(賃貸と分譲)の大量供給であり、これを「階層のミキシング」という美しい言葉でくるんだ/南面する暖かい部屋にみんなが集まるから、囲み型より平行配置の方が暖房費が安いことが分かった/千里中央のエリアが当初計画の3倍に拡張されたことによって、企業局は財政的に非常に豊かになった/「ブワナトシの歌」は、今西錦司のタンザニアでの調査に、プレハブ住宅建設スタッフとして参加した時の記録が映画化されたものだが、映画の内容は本とはまったく異なる

このあと、街角広場の上田さんの手づくり料理、美味しい飲物類をいただきながら、参加者全員で懇親しました。

2011年も残すところあとわずか・・
皆さん、良いお年をお迎えください。