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2019/04/09のBlog

新シリーズ「再訪・絵画を観る喜び」④
ルネサンス美術 その4
美術愛好家 長野一隆氏

大好評の長野絵画解説新シリーズの4回目は「ルネサンス美術」その4です。今回のテーマは、イタリア以外のヨーロッパでも花開いていたルネサンス美術です。
今回も長野講師が、40年近くにわたって訪問された42ヶ国、2112ヶ所に及ぶ美術館、博物館、美術品のある邸宅や教会などで実際に観てこられた世界中の名画を紹介下さいました。

きょうは11人の画家について、その代表作106枚をスクリーンに映写しながら、作者、作品の特徴、歴史的背景、収蔵施設、所在地などを丁寧に解説下さいました。

ヤン・ファン・エイク(1390頃-1441) 生年不詳、
「ゲントの祭壇画」バーフ大聖堂、ゲント、ベルギー:キリストのエピソードを1枚の絵にまとめたもので、油彩画を確立した作品。長野講師は今まで見聞した絵画の中で、世界最初の油絵にして、色彩豊かな世界最高の名画と評価。いまから500年以上も前、宮廷画家としての彼の年俸は360万ポンドといわれ、今の値で2億円と言われている。
「アルノルフィーニ夫妻像」ロンドン・ナショナル・ギャラリー

ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1400-1464)
「キリスト降架」 プラド美術館:西洋絵画の中で庶民の姿、市民の生活や風俗画を描いた最初の画家。モデルを置いて描いた画家で、緻密な技法でフランドル絵画のリーダーとして、ヨーロッパ中に大きな影響を与えた。
「女性の肖像」ワシントン・ナショナル・ギャラリー

マビューズ(1478-1532)
「ある紳士の肖像」クラーク美術館、アメリカ合衆国 
肖像画を多く残した。この絵が収蔵されているクラーク美術館は、安藤忠雄が設計した。
「自画像」クーリエ美術館、マンチェスター、アメリカ合衆国

ピーテル・ブリューゲル父(1525頃-1569)
「雪中の狩人」ウィーン美術史美術館:庶民に光を当て、その生活を中心に描いた農民画家。
「ネーデルラントの諺」ベルリン絵画館

ヒエロニムス・ボス(1450-1516)
「快楽の園」プラド美術館、マドリード:怪奇的、猟奇的、幻想的な画風で、ヨーロッパ中に多大な影響を与えた。しかし偶像破壊の宗教改革によりほとんどが灰塵に帰し、残された絵画は少ない。
「十字架を担うキリスト」ゲント美術館、ベルギー 

デューラー(1471-1528)
「自画像」ルーヴル美術館:画家が婚約者に送った、世界最初の油彩画の自画像。ドイツ絵画史上で、最高位に位置する画家。当時の画家は絵の具も自ら作っていた、そこで携行に便利な水彩画を油彩画並みの芸術に昇華させた画家でもある。また版画でも生業として成功させた、世界初めての画家でもある。
デューラー 「自画像」プラド美術館蔵 

ルーカス・クラーナハ父(1472-1558)
「ルクレティア」 シネブリショフ美術館:ドイツ・ルネサンスの旗頭で、マルティン・ルターの親友でもあり、商才に長ける一方で市長も務めた。
ルーカス・クラーナハ父「マルティン・ルターの肖像」ウフィツィ美術館

アルブレヒト・アルトドルファー(1480-1538)
「橋のある風景」ロンドン・ナショナル・ギャラリー:油彩で風景を描いた、最初の画家。
「アレクサンダー大王の戦い」アルテ・ピナコテーク:マケドニアとの戦いで出兵したペルシャ軍10万人の兵士を微細に描き上げた作品。

ハンス・ホルバイン(1497-1543)
「大使たち」 ロンドン・ナショナル・ギャラリー:角度を変えて見ると、違うものが見えてくるというアナモルフォーシスの手法を用いて、底辺にゆがんだ頭蓋骨が描かれた騙し絵。
「墓の中の死せるキリスト」バーゼル市立美術館、スイス:世界で最も細長い絵といわれ、なぜ描いたかという謂れは残っていない。かのドフトエフスキーはこの絵を鑑賞して、「腐敗が始まっているキリストが、3日後に復活したとはとても思えない」と記している。

ジュゼッペ・アルチンボルド(1526-1593)
「春」ルーヴル美術館 :花や野菜だけで描いた胸像や、水生動物だけで描いた人物など、驚くべき人物画を世に残した奇才の画家。単に宮廷画家だけにとどまらず、噴水やメリーゴーランドを発明して宮廷の人々を和ませた。
ジュゼッペ・アルチンボルド「野菜売り」クレモナ市立アラ・ポンツォーネ美術館

ジャン・フーケ(1420-1481)
「聖母子と天使たち」アントワープ王立美術館:イタリア・ルネサンスを学んだ初のフランス人で、宮廷画家。ワンピース姿で胸を露出している聖母、色彩は赤と青と白色だけで描かれたカルカチュア紛いの作品。ダヴィンチ(1450年生まれ)より前に、大胆に描かれた技法に脱帽あるのみ。

長野講師の圧倒的な博識と、鮮明な西洋画の数々に魅了された講座となりました。
2019/04/05のBlog
堤先生の連続講座“古典の恋歌”⑭
失われた物語の復元 三 ―散逸物語「雪の内」の場合―
國學院大學講師・文学博士 堤 康夫氏

新年度最初の講座です。堤講師は「きょうは平安、鎌倉時代には確かに存在し、現在は文学史の闇の彼方に消え失せてしまった散逸物語の1つ、『雪の内』という作品を、わずかに残された数首の和歌から復元してみます。現存する歌物語『伊勢物語』との関係を視野に入れて、創作、また散逸の理由も考えてみましょう」と話されて、次のように解説して下さいました。

*「雪の内」というタイトルからこれは、侘しい、寂しい、陰々滅々の物語だろうなということが分かる。これを復元する為の資料に使うのは『風葉和歌集』全20巻、約2000首を納めた物語歌集である。

*『風葉和歌集』巻第四で、梅壺の女御から「貧しい我が家に差し込んでくる月の光のみを頼りに、孤独な暮らしをしています」という和歌を贈られた高僧が「釈迦が法華経を書いた霊鷲山の澄みわたる月を、日本でも見たいもの」と詠う。これに梅壺の女御が「晴らすことの出来ない女性の五つの業を払って、真如の月を見せてください」と返した。以上3首残っているうちの2首を梅壺の女御が詠っているので、ヒロインは天皇のお后のひとりである梅壺の女御であろうと推測することが出来る。

*『古今和歌集』巻第一に、業平と二条の后との密通の噂があり、梅壺の女御が二条の后だとすると当時高僧との噂があったことと符丁が一致する。『扶桑略記』や『宇多天皇御記』にも、后が寺の僧と情を交わしたとか、子供が出来たとか、僧が遠島にされたことが記されている。

*『伊勢物語』121段では、梅壺(梅が植えられた中庭)から雨の中を出ていく男を見て詠った「傘があるといいわねえ」「いやいや傘よりも、あなたの熱い思いが欲しい」という遣り取りが出てくる。梅が植えられた中庭のある屋敷の持ち主は、二条の后である。

以上のように堤講師は、3首の和歌と周辺の書物からの情報を俯瞰して「『雪の内』は、二条の后と高僧の関係を純粋な思情として描いた、仏教的な美しさを目指した物語だったのではないでしょうか。仏教物語ゆえに登場人物も派手さに欠け、普遍的な話で終わっていたと思われます。いわゆる色恋沙汰が無いゆえに読者を魅了することが出来ず、恋のクライマックスを迎えることのないストーリーが、『雪の内』が散逸してしまった原因ではないかと考えています」と結んで解説を終えられました。

参加頂いた方からは、<楽しく聞かせて頂いております、勉強不足ですが楽しいです。><散逸物語のお話は楽しいので、またシリーズとしてお聞きしたいです。>との感想を頂きました。
2019/03/26のBlog
連続講座“古典の恋歌”⑬
失われた物語の復元 二 -散逸(散佚)物語「嵯峨野」の場合―
國學院大學講師・文学博士 堤 康夫氏

堤講師は「かつて存在していたが、今は消えてしまった物語を散逸(散佚)物語と言います。
例えば源氏物語は54帖以外に「正三位」という巻があったとされています。継母・継子の物語とされていますが、今は残っておらず、残っている題名や和歌から、いわばレトロスペクティブに復元するしか方法はありません。散逸物語は、いろいろな研究者が、いろいろな題材をもとに推測していくので結論も個々に違ってくるのも仕方ありません。数ある散逸物語の一つとして、鎌倉時代初めに編纂された『風葉和歌集』のうちの「嵯峨野」を取り上げてみましょう」と話されて、以下のように解説して下さいました。

*『風葉和歌集』は藤原為家が後嵯峨天皇の中宮の命を受けて編集した勅撰和歌集である。当時知られていた物語、和歌から、物語200編、和歌1418首が選ばれており、この時代の研究に欠かせない資料である。

*この『風葉和歌集』の巻第七に、言い寄った中務卿の娘が仏事を行ったときに、”嵯峨野の二のみこ“が『極楽は広い大きな蓮の葉のようだと聞いているが、私の涙や朝露・夜露は仏様にすくってもらえる(掬う・救う)』という和歌を贈り、これに中務卿の娘が『極楽の地の蓮の花なので、この世で流す涙は掬ってくれない』と返した、というくだりがある。中務は天皇の詔勅を管理する役所で、天皇の子息などが務めた。”嵯峨野の二のみこ“はこの中務卿の娘と和歌を詠みあう程の身分の男性だということが推測できる。

*さらに巻第九では中務卿が亡くなった後、嵯峨野の頭中将が中務卿の娘にラブレターまがいの歌を送り付けている。頭中将は天皇の身近にいる天皇のいわば親衛隊であり、家柄も良く天皇に近い職位の若手エリートで、不祝儀のさなかでもラブレターを送る性格の男性であった。

*また、巻第十一では、中務卿の娘侍従が、「関東の佐野にある船の橋(舟橋)ではないが、最初からこの橋を渡らなければよかったのに」と二人に言い寄られた中務卿の娘の心を詠っている。

*この「嵯峨野」のくだりは、源氏物語46帖「椎本巻」(「宇治十帖」第2帖)で、薫が宇治の大君に思いを寄せるくだりを連想させる。この「宇治十帖」の宇治八宮と中務卿には、お互いが学者であるという共通点が存在している。そして舞台も共に京の都から離れた宇治と嵯峨野である。

*そう考えてくると、誠実な薫と浮ついた匂宮の性格をそっくり入れ替えて、舞台も宇治から嵯峨野に変えて作ったのが風流和歌集の「嵯峨野」ではないか、との推測が成り立つ。

以上のようご説明の後、堤講師は「この『嵯峨野』の場合は、人気の高い源氏物語の写しと見なされたために凋落し、散逸してしまったのではないかと推測します」と話されて、解説を終えられました。
2019/03/19のBlog
この国のかたちのアイデアはどこから? 儒教の日本での受容 小島毅氏

本日の講師は東京大学大学院人文社会系研究科教授 小島毅氏です。昨年12月の「論語―いま読むことの意義」に引き続き2回目のご登壇です。

講師は冒頭、「最近、中国と韓国が駄目なのは儒教のせいだという本が売れているようですが、日本では儒教が誤解されています。そこで本日は前半と後半に分けて、前半では儒教について、後半では日本の国づくりと儒教とのかかり合いについてお話をします」と、以下のようなお話をされました。
1、儒教とはなにか

1)日本では「論語」のみで儒教を理解しようとしていますが、儒教には「論語」以外に、後世の思想家の論語解釈が織り込まれています。つまり儒教は「論語」の教えだけではありません。
2)儒教のキーワードは礼です。
礼は国家制度から生活習慣までを含み、宗教的儀礼から科学的思考までを含んでいます。例えば冠婚葬祭という言葉は儒教のものです。
3)儒教は次のような天、地、人の神を崇拝します。
天神(皇天上帝、日、月・・)、地祗(社稷、泰山、黄河・・)人鬼(孔子、関羽・・)
4)儒教の世界観は科学的です。
天地創造の如き荒唐無稽な開闢神話はなく、最初から天地ありきなのです。伏犠は自然現象を分類し、天、地、火・・の易の八卦を定めました。天文学や数学が高度に発展しました。
5)儒教は男尊女卑です。
天=陽=男、地=陰=女 なので、自然界の理法ですから従わざるを得ません。
中国には女帝はいませんし、日本にもそれを見習った7~8世紀以降は女性天皇はいません。
6)儒教では夫婦別姓です。
女性は結婚後も実家の姓を名乗り、娘は父の姓を名乗ります。今でも漢民族や韓国人は伝統の名残りで夫婦別姓です。日本でも明治以前は夫婦別姓でした。

2、日本は儒教をどのように国づくりにとり入れたか

1)日本古代の国づくりは律令制の整備
律=刑法、令=行政法 は礼社会の実現のための道具です。日本は律令編纂を急ぎ、形は作りましたが、社会に広く礼が浸透することはありませんでした。
2)明治維新
明治維新は西洋近代国家への転換、旧い東アジア伝統国家からの脱却とみなされますが、その実、明治維新の思想的背景には儒教(朱子学)がありました。江戸時代後期に社会に浸透した朱子学は当時の体制宗教だった仏教の批判・改革の担い手でした。朱子学は、西洋の学術・思想も理解し、頑迷固陋ではなかったのです。儒教に基づき、天皇を中心に、国を守る尊王攘夷という考えもペリー来航以前からありました。明治の近代国家を作り上げたのは倒幕の志士でなく、朱子学を学び、普遍的な西洋の事情を紹介した知識人たちです。
3)江戸時代の教育
江戸時代の初期は学問は軟弱、という武断主義の時代でしたが、17世紀後半からは好学大名が登場してきました。特に松平定信の「寛政の改革」による学問奨励以降、藩校が急増し、寺子屋が普及して庶民も読み書きできるようになり、その教育水準は同時代の西ヨーロッパに匹敵していました。明治時代の近代化の成功はこの教育水準が支えたもので、殖産興業政策によるわけではないのです。

講師は以上のようなお話の後「儒教は確かに旧弊な思想ですが、儒教のなかで将来に向けて活かすべき教義・慣習はなにかを追及していくことが大切と思っています」と締めくくられました。

大変わかりやすい名講義でした。知っているようで知らない儒教と日本という国づくりに果たした儒教の教え、大変勉強になりました。 (佐藤明)
本日の受講者の感想です。
*儒教に対する見方が理解できた、明治維新と儒教精神や、朱子学、陽明学などを聞きたい。
*大変おもしろいお話で、ありがとうございました。
*日本での儒教の受容が明確・体系的に語られ、わかりやすく中身の濃いご講義でした。物事の正しい理解の大切さを再認識しました。
*日本の国造りには儒教が大きな位置を占めていることが理解できた。

2019/03/15のBlog
[ 17:57 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
「地名から知る自然災害への警鐘!」
日本地名研究所理事・地名研究家 太宰幸子氏

講師は冒頭で「年々数が増し、規模がどんどん大きくなっている自然災害を防ぐ対策の一つとして、私たちの先人が付けてきた“小さな地名”が持つ意味をお話します。これを知ることで、少しでも災害被害を軽くできるようにしましょう。我孫子市の『布佐エリアなどの液状化被害』は皆さん、ご存知ですね。また、我孫子市が発表しているハザードマップにはあちこちに『急傾斜地の崩壊』などの記載があります。自然災害は止められません。これらの情報をよく頭に入れたうえで、いざというときには自助・共助をすることが大事です」と参加者に前置きされたうえで、以下のようなお話をされました。

1.地名には小さな地名と大きな地名がある。
大切なのは過去に「字(あざ)」と付けられていた「小さな地名」。これはピンポイントでの土地情報を含んでいることが多い。「大きな地名」は比較的広い範囲をまとめて付けられ、「字」が伝えてきた個々の土地の特徴が消えてしまうことがある。

2.地名に多く使用されているのは和語(日本語)。大切なのは「音」であり、文字(漢字)は後世になって次のようにいろいろと付けられた。
・栗(崩れ)を「久里」の二字へ変更、崖を表す岳・嶽・滝・倉・欠を「竹」と表記、川の氾濫で土砂が堆積したところ意味する埋めを「梅」(梅木・梅の木・梅田・梅津など)、崩れたとの意味があるアズを「小豆」(小豆島・小豆坂)、地滑りで表土が剥がれたところを「萩」、同じく地滑りですぐれない状態を「杉」とするなど旧地名が「植物・美しい・めでたい」地名に一変している場合がある。

・猿、鹿、熊、蛇などの動物地名も要注意。
ザレ=凝灰岩など崩れやすい地質を「猿」(猿ケ久保・猿田・猿尾・猿跳・笊川など)、川が曲がっているとか川べりを「熊」、がけ崩れが多いところ「鹿」(大鹿、鹿込、鹿落坂など)、「鶴」の付く地名(鶴田・鶴見・都留・水流など)、地滑り・鉄砲水・洪水が起きたところは蛇崩れ・蛇抜けなどから蛇田・蛇喰・銭神などに変化、川などが溢れたことを意味する猪狩・イカリ(碇ヶ関、五十嵐、五十里など)、まっさらになるとの意味の漢字「白」(白幡・白石・白沢・白木など)、地滑りなどを表すアラ(荒砥沢=戸沢、各地にある「荒川」はそのほとんどが暴れ川として知られる)などは、自然災害や地形・地質などに由来したものが多く、危険を避けるための地名として重要である。

講師は以上のような数多くの地名と自然災害をご紹介くださったあと、まとめとして、「災害を伝える地名はわたしたちのすぐ傍ら、身近なところにあります。よく確認して、その意味を知り、善後策を考え、防災に役立てましょう。後世に伝えたいと思って付けられた地名は、後に名称が変化し、本来の地名とは別物の地名伝説が生まれます。地名は単なる記号ではありません。先祖が伝える大きな歴史の足跡であり、自然災害などへの警鐘です。古い、小さな地名は、大いに大切な財産です。」と結ばれました。 (高橋 重)

受講されたみなさんからのご感想の一部です。
*古い地名、昔の人は地名に子孫への思いを込めていたのかも知れません。興味深かったです。
*災害マップを入れて、また、我孫子の事も含め話を聞き、大変分かり易かった。日本列島の歴史と災害のつながりを感じられた。
*私達の住む我孫子は「字(あざ)」表示がほとんど消えていますが、それでも地図を見ると、昔を象徴する地名もまだ残っています(都内はもうズタズタです)。「東京近郊で昔が残る我孫子」を再認識し、嬉しく思います。