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2019/03/08のBlog
シリーズ こだわって生きる我孫子の人⑳
ネパール&ヒマラヤを歩く(2)
白樺同人(薪割り集団) 高橋 重氏

高橋重氏は高校時代から山・岩・沢・雪・スキーに傾注すると同時に、植物観察をも楽しむ自然志向の講師です。ふれあい塾あびこでは2018年4月に、ネパール連邦民主共和国探訪をお話頂きました。高橋氏は「70歳になったから行かなくちゃ、という思いでエベレスト見物の定番である、ゴーキョピーク(5357m)、カラパタ―ル(5550m)などに登って、エベレスト(8848m)、ローツェ(8516m)、マカルー(8463m)などの8000m峰を見てきた話を昨年4月にしました。時間配分が悪くて、予定していたアンナプルナ(8091m)、マナスル(8163m)はお話できませんでしたので少しお話します。また、昨年7月に行ったモンスーン季のランタン谷の植物やネパール地震の爪痕などもお話します。古希も過ぎたので、登山が目的ではなく、2-3週間ほどの山旅を楽しんでいます。」と話されて次のように解説下さいました。

*アンナプルナに行ったのは6年も前の3月ですが、山好きにはどうしても見ておきたい山です。それは人類が初めて登った8000mの山、壮絶な登山でしたが、これを契機に各国が威信をかけて8000m峰初登頂目指しての登山ラッシュに火を付けた山だからです。
ツツジ科のシャクナゲ、日本と異なり20m以上にもなる種があり、ネパールの国花となっています。標高2000mを越えるトレッキング街道沿いには、サクラソウの仲間、トキソウやランの仲間、ユキノシタ科の花が咲いていました。道中のテントを張った石切り場では長いバールで石を切り出していて、住民の生活道でもあるトレッキング道は、その石を敷き詰めて歩きやすく、石は住居の屋根や壁などにも使われています。トレッカーが泊るのはロッジで、ロッジでは小学生が働いていました。ロッジで働いてロッジに下宿し、授業料や文房具代などに充当しているとのことでした。屋外では青空学級が行われ、川は洗濯で賑わっていました。人々の表情は明るく、生活を楽しんでいるように見えました。

*マナスルは日本人今西壽雄が1956年に初登頂した8000m峰、どうしても見たかった山です。これもアンナプルナに行った年の秋なので、2013年10月の話です。
カトマンズが1400mほど、スタートのアルガットバザールは500mそこそこ、亜熱帯です。ラルキャ峠5160mを通って、2週間でマナスル周辺をサーキットしてきました。
プリ・ガンダキのV字谷の急斜面に付けられた一本道ではトイレも出来ず、吊橋は馬やロバ、ヤクなどの動物が優先通行です。ちょうど10日間行われるネパール最大のお祭り「ダサイン」に遭遇し、帰宅先の実家から3日間かけてサマの学校の寄宿舎へ戻る途中の8人の子供たちに会いました。日本の革のランドセルを背負っている子や、年少の子の荷物を担いでいる子どももいました。親と離れるのに、とても楽しそうな雰囲気でした。
私たちがキャラバン中に摂ったネパール料理の代表はダル・バートと言われるネパール全土共通のもので、ダル(豆のスープ)とバート(ごはん)を基本におかずやお肉と一緒に食べるまさに日本でいう定食で、お店によって味もかなり違います。チベタンブレッド=揚げパン(ランタン地区は焼いただけ)はネパールの食文化に欠かせないもので、トゥクパ(日本のうどん)、チョウメン(焼きそば)やモモ(饅頭)はその代表です。

*ランタン谷は首都カトマンズの北に位置し、国立公園に指定されています。春はシャクナゲ、夏は高山植物を鑑賞するトレッカーで大変賑わう地域で、7000mを超えるランタン・リルン峰の眺めの良い場所です。2018年7月降り立ったカトマンズは、いつも通りの雑踏の町でした。カトマンズからチベット手前のシャブルベシまでは車で8時間、途中の田んぼでは女性が田植えをしていました。林道には紫色のオニルリソウに似た花が多く、集落をたどる小さな道にはオリヅルラン、ミズトンボの仲間、トウダイグサなどが見られました。岩場にはセントポーリアを思わせるイワタバコ科の花がビッシリと張りつき、リリウム・ネパレンセは独特の色と形をしています。際立って、大きくて美しい花ですが写真を撮ろうと手に取って近づけると、何と葉っぱに潜んでいたヤマビルがピョコピョコと吸血にやって来ました。ヒルは、ストックの下からも上がって来ます。吸血の間は痛くも痒くもありませんが、帰国後は3週間ほど痒みが残りました。ランタン谷の下の村には新しい建物が数軒建ち、その上のかつての村の中心だったあたりにはランタン・リルン側から押し出したおびただしい土砂が広がっていました。上流には青屋根が点在するランタン上の村が見え、大規模な土石流は表面が厚さ数m以上の土砂と岩の層、その下は落下した氷河が厚く再堆積して融けずに残り、スノーブリッジもできていました。氷河上にも水が流れ、ルートは荒れていました。すべては2015年5月に起きた、ネパール地震の爪痕でした。

高橋氏は「大雨や洪水、地震や土砂崩れなど自然災害は、日本といわずネパールといわず、地球上のどこにでも起こり得る現象です。自然を敬い、自然を大切にし、自然から身を守る術を身につけながら、自然を楽しんでいきます。」と話されて解説を終えられました。

以下は参加頂いた方々からのご感想です。
*三の谷を紹介頂き、変化に富んでいて面白かった。登山をしない一般の方にも、わかりやすい内容であったかと思います。アンナプルナ、マナスルの登山史での苦労話も、シニアの方にも新たに知ることが多かったのではないかと思う。
*写真を使っての分かりやすい説明でした、「処女峰アンナプルナ」は若いころに読んで感動した本で懐かしかった。
*スライドがとても見やすく写真も綺麗で、感動しました。高橋先生のお話は知識も豊かで、為になりました。4月から10日くらいエベレスト街道にトレッキングに行く予定ですのでとても参考になりました。準備も大変だと思います、ありがとうございました。

2019/03/06のBlog
チェコ:そのあふれる魅力 一度は行ってみたい国
元スロベニア特命全権大使 石榑利光氏

きょうの講師 石榑(いしぐれ)利光氏は在学中に外務省試験に合格、チェコ共和国にはチェコスロバキア時代を含めて合計3回 累計10年間在勤されました。その豊富なご体験から、建国101年のこの中欧の小国チェコの歴史と魅力を、数多いスライドを使って以下のように解説して下さいました。

・みなさんのチェコのイメージは何でしょうか?ボヘミアングラス、スメタナ、チェコ
ビール、チャスラフスカなどなどでしょうか?チェコは中欧の国、周囲はゲルマン族とロシア族に囲まれ、首都はプラハです。

・チェコは1918年にチェコスロバキア共和国として建国し、1993年にスロバキアと分離
独立しました。このチェコの歴史の中で過去3回、大きく繁栄した時期があります。
1回目は神聖ローマ帝国カレル4世の時代、2回目は19世紀の産業革命時代、そして
3回目は第二次世界大戦後の西欧への回帰時代です。

・チェコの人口の28%を占めるドイツ人とチェコ人との対立は熾烈を極め、ヒトラーはチェコスロバキアを解体しました。28%のドイツ人による支配が行われ、ナチスドイツはチェコの兵器工場を掌握し、第二次世界大戦へと繋がっていきました。

・第二次世界大戦でプラハはソ連が解放、戦後はソ連がチェコを支配、選挙では共産党が38%の支持を得ることになりました。

・1968年春、共産党第一書記に就任したドプチェックは、個人の自由を尊重した「人間の顔をした社会主義」改革を主唱して、「プラハの春」と言われる自由化政策が展開されました。1969年アイスホッケーの試合で、チェコはソ連に勝利します。興奮した民衆はソ連のフラッグキャリアーである「アエロフロート」の事務所を襲い、怒ったソ連やワルシャワ条約軍の侵攻により「プラハの春」は一年で終了します。以後20年間、チェコは社会主義時代を送ります。

・20年後ベルリンの壁が崩壊し、学生の合法的デモを強制弾圧したことを契機にチェコ国内で民主化運動が起こります。この運動は流血をみることなく政権が交代し、「真実は勝つ」のスローガンのもと民主化が達成されます。ベルベットのように滑らかに行われたこの「ビロード革命」の達成後、チェコはNATOやEUに加盟して欧州に回帰します。

・チェコの魅力は何でしょうか?ロマネスク様式やゴシック、バロックやロココ様式の建造物が多く残っています。またピルゼンビールや南モラビアのワインは美味しいです。ボヘミアングラスや磁器、音楽や文学、絵画や人形劇も魅力的です。

・小国チェコの生き方は、大国に媚びない独自の生き方、チェコ民族としてのアイデンティティの保持、徹底した合理主義、非暴力と反骨の精神、そして「真実は必ず勝つ」の国民性にあります。

講師は最後に「日本との関係は1989年の民主革命後急速に発展し、1993年のチェコ独立と同時に日本は承認しています。進出する日本企業は250社以上、邦人は2000人が在住しています。自動車関連や家電関連企業が作り出す製品の85%はEUに輸出されて、チェコの貿易黒字と雇用の増大に貢献しています。みなさんもぜひこの魅力あふれるチェコの地で、本場の生ビールをお楽しみください」と話されて解説を終えられました。

皆さんからいただいたご感想の一部です。
*大国に媚びない独自の路線を維持するチェコの魅力を、たっぷり伺うことができました。歴史的にも経済的にも、魅力の尽きない国だということが改めてわかりました。またお聞きしたい講座です。
*やさしくお話下さいました、高校時代の歴史の授業を思い出し理解を深めました。
*オカリナコンサートでプラハのドボルザークホールでコンサートに参加します、練習も
追い込みに入った時期に地元我孫子でチェコについてのお話を聞かせて頂きとても
イメージが湧きました。ありがとうございました、歴史など知らない事が多く役に立ちました。
*自分の体験や豊富な知識で分かりやすく、楽しい講演でした。チェコの歴史や文化を、もっと知りたいと思いました。
2019/02/28のBlog
老後の安心を支える成年後見制度とは
認定NPO法人東葛市民後見人の会理事長 星野征朗氏

きょうは退職後に民生委員や地区社会福祉協議会で活動されたあと、東京大学市民後見人養成講座の修了生仲間などと設立されたNPO法人東葛市民後見人の会(平成26年3月認定NPO法人に)の理事長として活躍しておられる星野征朗氏に講演頂きました。星野講師は「いまや例えば銀行で、ご主人名義の口座から大きな金額を引き出そうとすると、窓口で必ず後見人の存在を聞かれる世の中となりました。きょうはこの成年後見人制度の課題と問題点などをお話します」と前置きされて、次のように解説してくださいました。

講座概要:日本社会は今、超少子高齢化、経済の長期低迷、公的債務の累増、人口急減時代への移行など歴史的な大変動に直面しています。
社会保障は大丈夫? 自分たちの将来はどうなるの? 誰もがこんな不安を抱いています。
数年後には一人暮らしの高齢者680万世帯、認知症高齢者720万人の時代が到来し、後見爆発が起こると予測されています。
高齢者が老後をのんびり過ごせるバラ色の時代は終わったのです。
超高齢社会を支える成年後見制度(仕組み、現状、問題点)や市民後見人(担い手)の問題をやさしく解説いただきました。

介護保険と成年後見制度は、車の両輪とされているが、介護保険利用者は600万人を超したが、成年後見制度利用者は20万人にとどまっている。推定対象者は800万にとされており、成年後見制度の普及・啓発活動、制度の見直し、公的支援、市民後見人の育成などが急務になっている。専門職後見人が財産管理中心で高報酬であるのに対し、市民後見人は、ボランタリーな報酬でおもに身上保護を担当するという形で、この制度の普及を図っている。

平成28年4月に、制度面の改善と利用促進を図る成年後見制度利用促進法が成立、これに基づく利用促進基本計画で政府、市町村、都道府県一体となっての利用促進が打ち出された。この中には、官民一体になって高齢者などの見守りから貢献までを担う地域連携ネットワークの構築も歌われており、私たちはこれらに対応して、認知症高齢者や障害者を支えるよき理解者、伴走者を目指している。

「すべての団塊世代が75才以上になる2025年、誰が支える側にまわるのかが大問題です。本人の生活改善のために働く後見人の育成をどうするのか、横領など不正事件が起こらない仕組みをどう作り上げていくのか、きょうの支える側からあすの支えられる側へスムースに移行するにはどうしたらいいのか。私は、あすは我が身の市民後見人のひとりとして活動しています」と話されて解説を終えられました。

参加された方々からのご感想です:
*本日の講師の講演の目標は達しているのだと思います、いろいろなことを教えていただきました。必要な点は自分で学んでいかなければならない、と思いました。
*講座資料が多岐にわたり、平素より将来に向けて学んでいることが二重三重に理解できました。益々選択の困難さを知り、どうしたら良いのか。一日も早く品川社協方式のような発展をお願い申し上げます。
*いままで無関心でしたが、子供たちに終末期医療や財産の話をしておこうと思いました。明日は我が身、本当だと思いました。
2019/02/19のBlog
2/18 「震災後文学の行方」
 ― 災害列島ニッポンの文学 ―

本日の講師は東洋大学文学部教授、石田仁志氏です。
「私は2016年の1年間、フランスに留学していました。そこで日本文学を学ぶ学生から、『大地震や原発事故は日本の文学にどのような影響を与えましたか』という質問を受けました。それが本日のテーマにした一つの理由でもあります」と前置きされ、以下のようなお話をして頂きました。

1.〈震災後〉という視座
 国内はもとより、世界を見渡すと自然災害、大規模な事故、紛争やテロといった出来事が日常化しています。そこに〈震災後〉という視座が意味を持っています。

2.「震災文章」というジャンル
大正12年、『文芸春秋』は関東大震災後、多くの作家に大震災に関する寄稿をもとめ、ここに「震災文章」というジャンルが生まれたように思います。
その中で、横光利一は「このような大災害をもたらしたのは地震ではない。それは人間の功利が生んだ文化だが、人間は生きている間にはその災難に合わないと思っている。 なぜこの災害が大きくなったのだろうか。それは人間が功利であったが故に、人々は大声を発して警告しあう暇を忘れていた」と。
また、芥川龍之介は「震災の我々作家に与える影響はさほど根深くないであろう。ただし、今まで作家が取り扱った人間の心理はどちらかと言えばデリケートなものであるが、今度はもっと線の太い感情の曲線を描いたものが新たに加わるかもしれない」と書いています。

3.村上春樹と震災
 『神の子どもたちはみな踊る』(6つの短篇を収録、2000年新潮社刊)
 短篇では直接には阪神淡路大震災の被災場面は描かれていない。すべて「震災後」の物語です。
 『カタルーニャ国際賞』受賞スピーチより(2011)
 「日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本語には『無常』という言葉がありますが、すべてはただ過ぎ去っていくという視点は、自然に逆らっても所詮はムダで、ある意味では仕方のないものとして受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのです」

4、東日本大震災後の現代日本文学
 数多くの作家が大震災を作品に描いていますが、代表的なものをご紹介します。
 ①川上弘美『神様2011』 原発事故と自分自身に対する怒り
 ②玄侑宗久『光の山』 高さ30mの汚染土の山、30年後は観光地に?
 ③垣谷美雨『女たちの避難所』 避難所内での差別、偏見、セクハラなどほぼ実話
 ④他に、高橋源一郎『恋する原発』、多和田葉子『献灯使』、津島佑子『ヤマネコ・ドーム』、桐野夏生『バラカ』、黒川創『岩場の上から』、よしもとばなな『スウィート・ヒアアフター』、いとうせいこう『想像ラジオ』など。

先生は以上のような数多くの震災後文学をご紹介くださったあと、今日のまとめとして、「坂口安吾の『堕落論』を借りて言えば、第2次世界大戦後のように、大震災や原発事故で人間は生き、人間は堕ちる。人間は上っ面の救済に頼るのでなく、絶望と向き合い、堕ち切ることによって自分自身を発見し、救わなければならない。もっと絶望すべきではないのか、それを直視してこそ本当の未来があるのではないかと思います。」と結ばれました。

私たちも「震災後」の文学を読み続けることで、災害の厳しい実態を学び、未来へつなげていくことが大切であると改めて認識したお話でした。 (佐藤明)
本日の感想からいくつかご紹介します。
 ・ついこの間の大震災のことなのに、知らないことが多いことにショックを受けました。ご紹介いただいた作品を是非読んでみたいと思います。
・大変興味深く拝聴しました。全般的に素晴らしく、ご紹介いただいた本は全て読みたいと思いました。
・文学(本)の力を改めて感じることが出来た。
 
2019/02/15のBlog
堤先生の連続講座“古典の恋歌”⑫
失われた物語の復元 ―散逸物語『かばねたづぬる』―
國學院大學講師・文学博士 堤康夫氏

今回は「平安・鎌倉時代には存在したが、長い年月の間に読まれなくなり、書き写されなくなり、現在はその作品のほとんどが失われ、わずかに一、二個所の断片だけが残されている作品を散逸物語といいます。そうした散逸物語の一つ、『かばね尋ぬる宮(死体を捜し求める宮様)』という作品を、残された和歌と『更級日記』にみえる若干の記事から復元してみたいと思います。いわば縄文式土器のかけらから元の壺を復元する作業にも似た、文学考古学とでもいう作業に挑戦してみましょう。」と話されて、次のように解説頂きました。

*(『更科日記』)から)姉がこどもを産んでから亡くなった。法要も済んで落ち着いた頃に親戚の人から、姉が探していたという本が送られてきた。姉が健在であれば喜んだであろうに、亡くなってから届くのは悲しい。届いた『かばね尋ぬる宮』という本は、ある女人に恋をした宮様が、その恋のために入水した女人の屍を探す物語である。宮様は結局亡骸を見つけることが出来ず、出家して女人を弔うストーリーである。死体探しなのに、亡骸が見つからないというミステリー作品に仕上がっている。

*この『更級日記』の記述を裏付ける内容が、『風葉和歌集』に存在する。
姉が亡くなって居場所が無くなった姉の乳母は、姉の墓所に参ったあと泣き泣き実家に帰って行ったという。妹は、野辺の送りをした場所は今は煙も上がらず、目印も無いのにどうして墓所を見つけることが出来たのかと訝る。

*これを聞いた父の愛人である継母は、「確かな見当は無かったかもしれないが、きっと流した涙が導いたのでは」という。『かばね尋ぬる宮』という本を届けてくれた親戚は、「人も住んでいない原野だから目印もある筈はなく、泣きながら訪ねて行ったのだろう」という。その兄は「火葬の煙はすぐに燃え尽きて無くなってしまった。どうやって乳母は訪ねることが出来たのだろうか」と訝しがる。

先生は「ここからミステリーの謎解きが始まります」と以下の興味深い推測を披露して講座を締めくくられました。

*荼毘に付した煙も無いのに、どうしてお墓が分かったのでしょうか。お墓だという目印も無いのに、なぜそこがお墓なのでしょう。そして『かばね尋ぬる宮』物語を送ってくれた親戚が、なぜこんなに口を挟んでくるのでしょうか。ひょっとすると、池で入水したから荼毘の煙も無く、だからお墓も無いのかもしれません。この姉のふるさとの奈良で入水可能な池と言えば猿沢の池(=去差和池)で、姉は猿沢の池に入水したのではないか、とも推定できます。

*もしかすると、妹や乳母や親類などは前もって『かばね尋ぬる宮』物語を読んでいて、この物語を踏まえた歌『風葉和歌集』で野辺送りをした、つまり『風葉和歌集』は亡き姉への大鎮魂歌だとも読み取れるのではないでしょうか。猿沢の池には、帝のお召しがなくなったのを嘆いて身を投げた采女を詠んだ柿本人麻呂の歌などが収容されている『大和物語』があり、今も、身を投げた采女をお祭りしている『采女神社』があります。

参加頂いた方からのご感想の一部です:
*更科日記に書かれたかばね尋ぬる宮という物語を筋にして、風葉和歌集のつながりから大和物語に采女が帝に恋い焦がれて猿沢の池に入水した事件に結び付ける講義の流れには、感心させられた。
*いろいろな物語から推測する面白さもある、と思いました。
*一般的な中学や高校の古文の授業では、きょうの先生のような物語の中の歌から他の物語との関連性を解説する先生が居ないのはなぜか?