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2019/02/13のBlog
新春公開映画「この道」関連企画
第1部「『白秋+耕筰』を歌う」ソプラノ:塚本江里子さん
(ピアノ伴奏:清水瑞穂さん)
第2部「続『白秋と三人の妻』」講師:北澤和郎氏

北原白秋の波乱に満ちた半生を、山田耕筰との友情と共に描いた童謡誕生100年記念の映画「この道」(映画「この道」製作委員会)が、2019年1月に全国公開されました。この日の講座は、これに関連した特別企画で、ふれあい塾あびこ初めての2部構成講座でした。朝は雪交じりの寒い日でしたが、多くの方に受講していただきました。

第一部は北原白秋作詞 山田耕筰作曲の童謡を、塚本江里子さん(東京藝術大学大学院修了)に、清水瑞穂さん(武蔵野音楽大学卒業)のピアノ伴奏で歌っていただきました。塚本さんは、「童謡100年は、日本の童謡運動を主導した鈴木三重吉の児童文芸誌「赤い鳥」発行から数えたもの」と解説されたうえで、この2人による童謡のうち「この道」「ペチカ」「かやの木山の」「鐘が鳴ります」「からたちの花」「あわて床屋」などを、以下のような解説を交えてご披露頂きました。

*「この道」:白秋が晩年訪れた北海道と、母の実家である熊本、生家のある柳川の道がうたいこまれています。
*「ペチカ」:1924年発行『満州唱歌集』に収載されましたが後に削除。その後、いまに
歌い継がれています。
*「かやの木山の」「鐘が鳴ります」:白秋が一時寄宿していた小田原の住まいに、大きなかやの木があり、そこをモチーフに作詞しました。
*「からたちの花」:ミカン科のからたちは、白い花をつけます。養子に出されて夜学で
学んだ耕筰は、昼間のつらい勤労のたびに、からたちの垣根で泣いたとのちに語っています。耕筰のこの悲しい思い出を、白秋が作詞しました。
*「あわて床や」:カニの床やとお客のウサギ、滑稽な動きが時代を越えてなお歌い継がれています。

以下は、お客様のご感想です。
*とても楽しかったです、曲の説明もわかりやすく楽しかった。
*江里子さんの透明感あふれるいつもの歌声がありがたい、心が温まります。
*江里子ちゃんの澄んだ声、とてもよかったですよ。MCもとても上手ですね、解説もとても分かりやすかったですよ!! ブラボー!!でした。
*まるでミュージカルを見ているようで、素晴らしい歌、表情、お話を楽しませて頂きました。
*さわやかな歌声とダイナミックなピアノ伴奏、楽しませて頂きました。懐かしい曲ばかりで、もっと多く歌って頂きたかったです。
第二部は北原白秋の研究家である北澤和郎氏に、2017年4月の「白秋と三人の妻」講座の続編としてお話頂きました。白秋は大正2年に第1の妻福島俊子、大正5年に第2の妻江口章子、そして大正10年に第3の妻佐藤菊子と結婚しています。前回の復習の後、第2の妻章子の神出鬼没ぶり、などこの3人の妻について以下のような追加解説をされました。

*第二の妻「江口章子(あやこ)」は明治21年いまの大分県豊後高田市香々地の生まれ、最初の結婚は破談し、曲折を経て白秋と結婚、白秋を支えます。しかし白秋の肉親と折り合わず離縁となった後は<恋多き女><多情夜叉>の生活を送ります。最後は故郷に戻り他界しました。

*第一の妻「福島俊子」は明治21年三重県名張市の生まれ、隣に住んでいた白秋と情を通じ、姦通罪で獄に落ちた後、二人は結婚します。しかし白秋一族との生活はうまくいかず、離縁の後に今でいう孤独死を遂げます。

*第三の妻「佐藤菊子」は明治22年大分市に生まれ、大正10年に白秋と結婚します。
一男・一女に恵まれ、資料の整備や口述筆記で白秋を支えます。白秋の作品の多くは、この時期に作られています。菊子は白秋を押し上げただけではなく、江口章子への物質的支援も続け、93才で他界した<良妻賢母>でした。

以上の説明に対するお客様のご感想です。
*明るく多才でちょっぴり目立ちたがり屋の北澤さん、いつまでもお元気で。
*興味深い講演内容で、わかりやすい解説でした。
*歯切れのいい迫力満点のお話で、面白かったです。
*楽しいトークで、初めて知ったことばかりでした。
2019/02/05のBlog
新シリーズ「再訪・絵画を観る喜び」③ ルネサンス美術 その3
美術愛好家 長野一隆氏

長野一隆講師による大好評の絵画解説新シリーズの3回目は「ルネサンス美術」その3です。今回のテーマは、ルネサンス期の一方の旗頭ヴェネツィア絵画とラファエロが中心でした。
今回も長野講師が、40年近くにわたって訪問された42ヶ国、2112ヶ所に及ぶ美術館、博物館、美術品のある邸宅や教会などで実際に観てこられた世界中の名画のなかの代表作を130枚のスライドで写しながら、作者、作品の特徴、歴史的背景、収蔵施設、所在地などを丁寧に解説して下さいました。

*ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430-1516)は15世紀ヴェネツィア派の第一人者、父のヤーコポ、兄のジェンティーレ、義兄のマンテーニャも高名な画家、ジョルジョーネ、ティツィアーノは弟子であった。
「荒野の聖フランチェスコ」フリック・コレクション、ニューヨーク1480年頃124 x 142cm
「死せるキリストと天使達」リミニ市立美術館、イタリア1474年頃91 x 131cm

*アンドレア・マンテーニャ(1431-1506)はイタリア、パドヴァ近郊の生まれ、マントヴァ侯ゴンザーガ家の宮廷画家で初期ルネサンスを代表する画家、北イタリアの芸術全体へ強い影響を与えた、ジョヴァンニ・ベッリーニは義弟。
「墓場のキリスト」コペンハーゲン国立美術館、デンマーク1500年頃 78 x 48cm
「死せるキリスト」ブレラ美術館 イタリア、ミラノ 1480年頃 68 x 81cm

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1485頃-1576)はイタリア、ピェーヴェ・ディ・カドーレの生まれ。
星々を従える太陽、色彩の錬金術師、ヴェネツィア絵画を代表する画家。西洋絵画全体へ強い影響を与えた、王侯貴族を友に、栄光の後半生を送った。ヴェネツィア最大の画家と言われ、「ティツィアーノ」とファーストネームで通じる稀有な画家である。
「聖愛と俗愛」 ボルゲーゼ美術館、ローマ 1514年 118 x 279cm
「ヨーロッパの略奪」イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 1562年 178 x 205cm
「田園の合奏」 ルーヴル美術館、パリ 1510年 110 x 138cm

ジョルジョーネ(1477-1510) 本名はジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコ。ジョヴァンニ・ベッリーニの一番弟子で、盛期ルネサンス様式を確立した画家、後の画家達に多大な影響を与えた。
「眠れるヴィーナス」 アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン 1510年 108.5 x 175cm

ラファエロ(1483-1520) ルネサンス三大巨匠の一人で、盛期ルネサンス様式を集大成した画家である。西洋美術の規範であり、聖母の画家、大工房、教皇を最大限サポートした。
「システィーナの聖母」アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン 1514年 270 x 201cm
「聖母子」 ラファエロの生家 1499年頃
「自画像」(16歳) アシュモレアン博物館、オックスフォード 1499年 38 x 26cm
「キリスト磔刑」 ロンドン・ナショナル・ギャラリー 1502-3年 280 x 165cm
「牧場の聖母」 ウィーン美術史美術館、オーストリア 1506年 113 x 88cm
「小椅子の聖母」 ピッティ宮殿、フィレンツェ 1514年 直径71cm
「アテネの学堂」 ヴァティカン宮殿、ローマ 1510年 577 x 814cm
「アテネの学堂下絵」 アンブロジアーナ図書館、ミラノ 1508年頃 274 x 792cm

ペルジーノ(1450-1523) 本名はピエトロ・ヴァンヌッチ、レオナルド・ダ・ヴィンチと同門で同時代の画家。
「神のごとき画家」と称賛されペルージャで活躍、ラファエロやピントゥリッキオが弟子
「マグダラのマリア」 ピッティ宮殿、フィレンツェ 1500年 47 x 34cm
「正義の旗」 国立ウンブリア美術館、ペルージャ 1496年 278 x 138cm
「慰めの聖母」 国立ウンブリア美術館、ペルージャ 1496-98年 183 x 130cm

ソドマ(1477-1549) 本名はジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ、シエナで盛期ルネサンス様式を実践した最初の一人である。レオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受け、その画風は優雅である。
「ゴルゴタの丘への行進」ボブ・ジョーンズ大学美術館、グリーンビル、アメリカ 1525年 202 x 156cm
「聖家族」市立美術館、モンテプルチアーノ、イタリア 1525-27年 70 x 47cm

ヴィットーレ・カルパッチョ(1465-1525)イタリア、ヴェネツィアの生まれ。ジョヴァンニ・ベッリーニやアントネッロ・ダ・メッシーナの影響を受け、ヴェネツィアの景観を描いた画家達の先駆者である。
赤を多用したところから、肉のマリネを(カルパッチョ)と呼ぶようになった。また全身の肖像画を初めて描いた画家でもある。
「風景の中の若い騎士」 ティッセン=ボルネミッサ美術館、マドリード 1510年 219 x 152cm
「二人の貴婦人」 コッレール美術館、ヴェネツィア 1490-95年頃 94 x 64cm
「ラグーンでの狩猟」 ゲッティ美術館、ロサンジェルス 1490-95年頃75.6 x 64cm

ティントレット(1518-1598) 本名はヤコポ・ロブスティ、ティツィアーノに師事し、ミケランジェロに傾倒した。劇的な構図と明暗の対比でヴェネツィア絵画を刷新、バロックを予兆した。ティントレットとは、染物屋という意味で彼のあだ名である。ヴェネツィアの地で、見ておくべき絵画であり、その作品も多いのがティントレットである。
有名なレオナルド・タ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、長テ-ブルに横に広がって描かれている。がティントレットの「最後の晩餐」は斜めのテ-ブルを上から俯瞰して描き、明暗がはっきりしていて動きのあるバロック調の絵として仕上がっている。
「最後の晩餐」サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 、ヴェネツィア1594年 365 x 568cm

パオロ・ヴェロネーゼ(1528-1588) 本名はパオロ・カリアリ、1553年以降ヴェネツィアで活躍し、ルーベンスやティエポロなど、後世の画家達に多大な影響を与えた。ティントレットより10歳若く、ティントレットよりも10年早く亡くなった。かつて絵の名前、作品名は画家本人がつけたことは無く、多くは後世の人々によって名前がつけられていた。ところがヴェロネーゼは、自分の作品に自分で名前を付けた最初の人である。
「レヴィ家の饗宴」 アカデミア美術館、ヴェネツィア 1573年 555 x 1280cm
「女性の肖像(美しきナーニ)」 ルーヴル美術館、パリ 1560年頃 119 x 103cm

参加者から頂いたご感想の一部です:
*有名な画家の人間関係や師弟関係を詳しく説明されるので、絵が師の影響を受けたところや、またはそれを打ち破った手法など、絵画を鑑賞する場合の参考になる。
*西洋絵画史の流れや背景が、実際の絵を通して理解できた。
*絵や美術館の写真も素晴らしいですが、豊富な知識から出てくるお話もすばらしいと思います。次々と話される逸話、挿話、エピソードに感心致しました。
*大変面白く、のめりこんで聞いておりました。あまりにも多くの知識がおありで、脱帽していました。それぞれの画家たちの生い立ちや、お互いのかかわりかたが良くわかりました。
2019/02/01のBlog
堤先生の連続講座“古典の恋歌”⑪
悲恋の行方 ―『大和物語』『発心集』―
國學院大學講師・文学博士 堤 康夫先生

「現実のままならない恋模様を反映して、文学作品には多くの悲恋物語が存在します。その結末には救いがあるもの、あまり救われないもの、様々なパターンがあります。きょうは平安、鎌倉時代の悲恋物語のいくつかを取り上げ、その類似点、相違点などを考えてみましょう」と前置きされて、次のように解説して下さいました。

*「大和物語」百五十七段
長年連れ添った男がほかの女に心を動かしてある日、什器備品の一切合切を持って立ち去ってしまう。後に残ったのは飼い葉桶のみ。この唯一の桶さえも取りに来た従者に女は『こんなことまでされて、これからどうやって暮らしていけばいいの?』との歌を託す。その歌に感動した男は、鞘を元に戻した。歌を詠む、という芸が身を助けた例である。

*「大和物語」百五十八段
長年共に暮らしてきた男が別に女を作り、あろうことか家の壁向こうに住まわせた。遠くから鹿の鳴き声が聞こえ、壁向うで「西の方に鹿がいるよ」と会話しているのが聞こえてくる。女は『昔は私も鹿のように可愛く鳴いて恋い慕われたのに、今は鹿の声を聞くのみの寂しい環境となってしまった』と詠んだ。この歌に心を打たれた男は、新しい女を送り届けた後に、もとの女のところに戻り鞘に納まった。

*「発心集ほっしんじゅう」巻第八―九
乞食をしている高年の尼がいた。もともとは四条の宮に仕えていたが、ある時男の任地に一緒に向かうことになった。方々に挨拶を済ませて男の迎えを待ったが、肝心の男が姿を現さない。聞けば男は正妻とすでに任地へ出発した、という。ならばと『正妻を殺してくれれば、この命を差し出しましょう。もし私のほうが生き残ったら、乞食をして無間地獄に落ちましょう』と願掛けをする。後日、正妻は亡霊の出現に悩まされ、重い病気でなくなってしまう。ところが願掛けをした女にも不幸が連続し、生き残ったがゆえに乞食の身となってしまった。女は「どうしてあんなに恐ろしい考えを起こしたのか」と悔やむが、今となってはどうしようもないと嘆く。
(堤講師は「これは実話ではなくて、こんなことをしてはいけないよ、という教訓を伝えるために鴨長明が創作した話です」と解説されました。)

以上の3様の悲恋の行方をお聞きになった受講者の方からは、次のようなご感想を頂きました。
*「大和物語」など学校でもあまり詳しく学ばなかったので、今回の悲しい立場に立たされた女性が歌を巧みに作り、自分から逃げようとした男を踏みとどまらせてもとの鞘に収まった歌を解説頂き新しい発見をした。
*古い時代、学校というものが無くましてやそれほど高貴でない女性が、男女関係の微妙な関係の恋歌を、どこでどのように勉強をしたのか?また歌の指導者は、どのような人たちだったのか?
2019/01/25のBlog
「利根川下流域のシギ・チドリ類
-我孫子の鳥たちの生態にせまる-」
我孫子市鳥の博物館学芸員 小田谷嘉弥氏

「手賀沼のコブハクチョウに標識を行いました。手賀沼(千葉県我孫子市)に生息するコブハクチョウにデータロガー(記録装置)と首環(緑色)を装着しました。これはガン・カモ・ハクチョウ類の位置や移動に関する詳細な記録を収集する技術を開発する目的で、東海大学、山階鳥類研究所、我孫子市鳥の博物館が共同で実施しているものです。
2018年3月に3個体に装着した発信器は、実験が終了したため2018年5月から6月にかけて取り外しました。緑色の首環と足環については引き続き装着し、個体の移動の追跡を行います。
(2018年6月22日追記)」

これはきょうの講師である小田谷嘉弥氏が、我孫子市の山階鳥類研究所の広報ブログに寄稿された記事です。我孫子市鳥の博物館学芸員である小田谷嘉弥氏は、講座テーマのシギ・チドリの仲間を中心に、我孫子市の手賀沼にはどんな種類の鳥が棲んでいて、どこからどこへいくのか、について次のように解説頂きました。

*利根川と手賀沼という湿地に挟まれ、多くの水田を抱える我孫子市には、繁殖する鳥類は少なく、大半は渡り鳥が多い。記録されている275種のうち47種が、シギやチドリの類である。夏は少なく冬に鳥が多いのは、我孫子の地がワタリの越冬地になっている証である。ラムサ-ル条約に湿地の定義が詳しいが、一般的には田んぼや河川、水辺の環境を指す。

*我孫子市に多いシギ・チドリの類はカモメとウミスズメを除くシギ科とチドリ科のグループで、くちばしが長く、体に比して脚が長く、浅い水辺で餌を捕食している。彼らは夏はシベリアで繁殖し、冬は日本より南で暮らす渡り鳥である。そして日本はワタリの中継地であり、例えばオオシギはアラスカからニュージーランドまで約7日をかけて渡っていく。
シギは目が小さく、走らない。一方 チドリは目が大きく、走り回る。このことから「千鳥足」という言葉が生まれ、英名がスナイプであることから「狙撃手」の語源となった。

*我孫子には春から冬に向かって、ムナグロ・チュウシャクシギ・キョウジョシギ・キアシシギ・コチドリ・タマシギ・ヤマシギ・タシギなどが見られる。春と秋のワタリの時期には、中継地となる水田や休耕田で多くの姿を見ることが出来る。我孫子市の湿地はこれらワタリの中継地であり、繁殖地であり、越冬地の機能を果たしている。

*人間の活動による地球の温暖化、温暖化によるキツネなどの繁殖と彼らによる捕食、人による密漁、生息環境の破壊や埋め立てなどによって、シギやチドリの生息環境が劣化の一途をたどっている。絶滅危惧にさらされているシギやチドリの保全のためには、私たちのすぐそばに彼らが生きていることを知って、私たちの手で彼らが暮らしていける環境を守ってやることである。

以上のようなお話の後、小田谷講師は、「私たちに何ができるか、考えてください。野鳥の会や探鳥の会をノックしてみる、標識のついた野鳥を見たらこれらの会に連絡する、見慣れない鳥の死骸を見つけた時も連絡する、減少しつつあるシギやチドリのことに関心を持ってください。田んぼでお米をつくることと、シギやチドリの共生の可能性を考えて下さい。シギやチドリがいてくれる環境を守ることで、私たちの文化的な高みが得られると思います」と締めくくられました。

スライドで数多くのかわいい鳥たちの生態を紹介頂いた講座に、参加者からは次のようなご感想が届きました。
*私たちの身近な手賀沼周辺に、こんなに多くの鳥がいたことは知りませんでした。
*渡り鳥の生態が少しわかって良かったです、シギやチドリにこんなに多くの種類がいたのに驚きました。
*何気なく見ている鳥たちも遠いところからきているんだなあーと思いました、スズメのエサ遣りをしていますがかわいい鳥たちです。
*今日初めて鳥のお話を伺いました、今までボーっと歩いていた手賀沼を違った目線で見ることにします。
2019/01/18のBlog
ふれあい塾あびこ新春寄席 今年も談吉さんで初笑いを!
立川談吉 独演会

きょうは7代目立川談志の最後のお弟子立川流二ツ目立川談吉さんをお迎えしての恒例の「ふれあい塾あびこ新春寄席」を開催しました。

立川談吉さんは北海道帯広市のご出身で、2008年03月に立川談志に入門。落語のみならず音楽ライブの司会進行や、作詞、朗読などの活動も続けておられます。
「ふれあい塾あびこ新春寄席」では2016年に『鼠穴』、2017年には『垂乳根』、2018年には『富久』などを演じて下さいました。

4年目2019年のきょう1月17日寄席は、太田みつるさんの出囃子演奏で高座に上がられ、枕で大晦日から新年をどう過ごしたか、ご自身や一門の動きを振った後、以下のお噺をして下さいました。

*お馴染みの与太郎さんが登場する江戸小噺から、「親子三人馬鹿」。
<一年は正月があるから十三か月だろ? いやお盆が抜けてるな、十四か月だ>

*次いで、おじさんが家を新築したので、一つ覚えの口上でお祝いに出向く「牛ほめ」。
与太郎さんの口上は<家は総檜づくり、畳は備後の五分べりで、左右の壁は砂摺り>なのですが…。

*博打場の流れを盛り上げようと、今は引退している隠居に壺振りを頼む「看板のピン」。ひとつのサイコロで出た目を当てる、イチの目=ピンに纏わるお噺です。

*さて本目は、横綱稀勢の里が引退したタイミングでの「阿武松」。
相撲取りを目指して能登から出てきた若者が、大飯喰らいゆえに苦労を重ね、人の情けに助けられながら遂には日の下開山。横綱『阿武松』を張るという、出世物語の一席でした。

大陸からの寒気の張り出しが厳しい日でしたが100名のお客様に来席頂き、立川談吉さんの演目を楽しんで、以下のような感想をお寄せ頂きました。

*初めて寄席を聴き、演者の熱演がじかに伝わって面白かった。
*高座から遠ざかっていましたが、久しぶりに生きのいい、テンポの速い面白いお話を伺いました。ありがとうございました。
*ものすごくうまい落語家です、将来にわたって大出世する予感がします。
*若さ、ハリ、エネルギ-、さすがです。若い人の講座があると刺激になり、良いです。