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ふれあい塾あびこレポ-ト
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2014/12/18のBlog
12/11 救急医療 -我孫子市の現状と課題- 高橋一昭氏

本日の講師は名戸ヶ谷あびこ病院院長 高橋一昭氏。高橋院長は千葉大医学部卒業、外科医であると共に、長年にわたって救急外科全般に携わってこられました。

本日は高橋院長の講演に先立ち、我孫子市役所 健康福祉部健康づくり支援課主査長、飯田秀勝氏より、我孫子市の緊急医療体制についてお話をして頂きました。

1.我孫子市の緊急医療体制について(飯田講師)

 ①市内の8つの病院のうち、事故や急病等による傷病者を救急車が緊急に搬送する救急告示病院はアビコ外科整形外科、我孫子聖仁会、我孫子つくし野、我孫子東邦、平和台、名戸ヶ谷あびこの6つの病院です。
 ②救急車の出動要請は119番ですが、休日や夜間の救急病院の問い合わせは消防署に窓口を一本化しており、7184-0119番です。
 ③救急車による搬送総数は平成25年が5025人、この10年で約1000人の増加です。そのうち、市内の病院に搬送された割合は69.4%です。また、救急隊が連絡を受けてから医療機関に収容する時間は平均37.6分となっています。
 ④市では医療機関や医師会との連携を強化すると共に、負担金や支援金での支援をしています。

2.救急医療体制-我孫子市の現状と課題 (高橋院長)

(1)名戸ヶ谷あびこ病院は平成24年11月23日に開設、病床数は114床、救急(二次応需病院)・労災病院です。また、25年には社会医療法人の認定をうけています。

(2)救急医療体制は、軽症患者を診療する一次救急、手術や入院が必要な患者が対象の二次救急、重篤患者を診る三次救急ですが、症状に応じて適切な施設で適切な治療が行える体制になっているでしょうか。私の方からは救急医療が抱える問題と展望をお話したいと思います。

①救急医療の問題点の一つは格差とその是正です。全国的に見れば医者は昔と比べそれほど減っていませんが、地域によって大きなバラツキがあり、千葉・埼玉・茨城の3県は人口当たり医者の数ではワースト3です。

②専門医がいない、ベッドが空いていない、などの理由でタライ廻しにされたと非難されることがあります。救急医療は一般医でも殆ど対応できます。初期診療さえすれば死なないで済みます。根本的には救急担当医の育成及び救急医療の標準化が必要です。

③突然の心肺停止にはAEDが有効です。消防庁の調査では生存率が5倍になるそうです。10年前から一般市民もAEDの使用が認められるようになりました。当病院も市内の公共施設にAEDを寄贈しています。

④我が国の不慮の事故は死亡原因の第5位、若者では死亡原因のトップです。死ななくても済んだ外傷が40%もあるというデータもあります。これを減らすために、外傷教育や搬送システムの整備に取り組んでいます。また、心肺停止の場合、救急士が現場で行ってもよい措置が拡大されています。

⑤救急医療が抱える問題点に、ベッド数の不足があります。これにどう対応するか、医療機関の連携や在宅医療の促進を図っています。

⑥医療のIT化は今後の救急医療体制の整備にとって非常に有効です。専門医が病院にいなくてもタブレット端末で患者のレントゲン写真をみることで、研修員に的確な指示が出来ます。今後ますます活用範囲が拡大します。

⑦救急受診のリスクを減らすため、当院では定期的に様々な医療講座を開催しています。また、予防という観点から、人間ドックの受診を勧めます。

「救急患者さんを断らない」で知られる名戸ヶ谷あびこ病院は我孫子に開設以来、当市の重要な医療拠点となっています。そのことは当市の救急患者の市内受入れ率の大幅増加などの数字でも裏付けられています。本日、救急医療に経験豊富な高橋院長の貴重なお話を伺いました。これからも市民の安心・安全のための心強い存在でいて欲しいと思います。
皆様の感想をご紹介します、(佐藤 明)

*具体的問題点がよく分かった。
*実際に即した内容で分かりやすかった。
*実家が開業医だったので、よく夜中に戸板に乗せて患者さんの家族が連れてこられたことを思い出しました。救急車などのなかった時代を思い出しました。
*レジメをゆっくり読みたい。
2014/12/11のBlog
12/10 市民カレッジ「我孫子を知る」コース第12回 「継続学級などについて」

5月にスタートした、全12回の本年度カレッジも本日、最終日を迎え、以下の段取りで締めくくりました。

まず、‘継続学級’の説明を行いました。
継続学級とは、市民カレッジを受講された方々が、当講座に関連した学習の継続を希望される場合には、我孫子市が1年間の会場確保その他の支援を行うシステムです。この継続学級がよく利用するのが、我孫子市の「生涯学習出前講座」という制度で、我孫子市教育委員会の浜田 貴子氏から、この制度について詳しいご説明を頂きました。

次に、平成22年度の継続学級のリーダーであった安達 正勝氏から、この制度のメリット、活動のありようを語って頂きました。氏はこの中で、「この継続学級での学習、交流は実に楽しいものです」とのご感慨を幾度も述べられました。

続いて、‘飛び入り’の形で、我孫子市企業立地推進課長の杉山 敦彦氏から、我孫子市の起業、創業支援策についてのご説明が行われました。杉山課長は、我孫子市がさる6月、国の「創業支援事業計画」の認定を受け、今後本格的に創業支援を行うこと、第1回起業・創業シンポジウムを12月13日午後2時から川村学園女子大学で開くこと―などを説明されました。

この後、全受講者各位に、本コース受講の感想や要望などを、1~2分のスピーチで発表して頂きました。ご発言の内容を整理しますと、おおむね以下の通りです。
①表現は区々だが、ほぼすべての方々が、受講してよかったとの感想を述べられた。
②講座の運営に関しては、有難くも大方より、過分の謝辞、賛辞を頂く。
③講座内容についても満足とのお声が多く、中でも歴史、文化関連への評価は高かった。
④要改善点としては、講義の時間を拡大せよとのご要望が一部の方々から出た。
⑤複数の方々から、「継続学級を通じてさらに学習したい」との意向が示された。

最後に、我孫子市公民館・館長補佐の大野 祐信氏が「当講座学習の成果をこれからの街づくりに大いに生かして頂きたい」との閉級のご挨拶をされました。 (久保寺 寛次) 
2014/12/09のBlog
“レクチャーコンサート”M.ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」
ピアニスト 長山絵美さん

東京藝術大学大学院音楽研究科修士課程終了後研鑽を重ね、いまソロ活動のほか、合唱伴奏、後進の指導などで活躍しておられる柏市在住の長山絵美さん。
2006年よりふれあい塾あびこの公開講座に登壇いただき、今日が6回目のレクチャーコンサ-トとなりました。人気の地元ピアニストの登場とあって、今回も100人を越えるお客様をお迎えしての公開講座となりました。

今回はM.ムソルグスキーの組曲「展覧会の絵」を取り上げ、前半で、ムソルグスキーや、対象になった友人ガルトマンの絵などをプロジェクターでスクリーンに写しながら解説、「展覧会の絵」各曲のポイント部分を演奏してくださいました。
そして後半では、その展覧会の絵をバックに約35分、見事に全16曲を通し演奏してくださいました。

ピアノとプロジェクターを組み合わせた今回の「展覧会の絵」は、各曲の背景や全曲を知る格好のレクチャーコンサートになったようで、以下のような感想をいただきました。

*絵と解説と演奏のコンビネ-ションが良く、分析理解されていて演奏を聞くのが楽しかった。何度も聴いた曲ではあるけれど、視覚と解説によりより深く曲を理解し楽しめました。

*全曲を聞いたのは初めてでした、絵が残っていないのはとても残念ですが、絵画展へ行って絵をひとつずつ鑑賞している思いでピアノを聞いておりました。とても良い企画だったとおもいます、ありがとうございました。

*解説つきでたっぷり聴けた。ト-クも含めて、とても楽しかったです。いままでに何度か耳にしてきましたが、一部の曲の抜粋を聴いて知ったつもりになっていました。今日初めて耳にした曲もありました。
2014/12/06のBlog
我孫子天神山の柳宗悦邸に“李朝白磁の壺”を持参し、後の研究学徒に、「我孫子は民芸の聖地」といわしめた浅川伯教(1884~1964)と、その弟で柳宗悦の民芸運動を献身的に支えた巧(1891~1931)。

本日は【柳宗悦を支えた浅川伯教・巧兄弟~二人を育んだ故郷山梨と朝鮮工芸~】と題して二人の故郷、山梨県北杜市に建つ「浅川伯教・巧兄弟資料館」元学芸員の植松正江さんをお招きしての講演です。氏は浅川兄弟研究者として将来を嘱望されており、現在は北杜市郷土資料館学芸員として、郷土の地歴や産業・文化等に関する執筆や講演活動を行っています。

◆故郷の風土
 浅川伯教・巧兄弟は現山梨県北杜市高根町五町田に生まれました。北杜市は周囲を八ヶ岳や南アルプスに囲まれた山間部なのですが、標高700メートル余の高原には閉塞感はありません。年間を通じて晴天率が高く、明るさを感じさせる土地柄で、農作物はもとより、平安時代から馬の飼育が盛んな豊かな土地でもありました。市内には甲州街道をはじめ、佐久往還や「棒道」(武田信玄が造った軍用道路)が縦横に走り、物資や人の往来が盛んな所でした。ために江戸や諸国の情報に通じ、農民でありながらも文化・教養に富んだ人たちが少なからずいました。

◆二人に影響を与えた故郷の人々
 父方の祖父は名主のかたわら、寺子屋の師範や蕉門俳句結社の宗匠として地域の信望を集め、母方の祖父は国学を究め、神官として、医者として地域に貢献し、和歌・俳諧・茶道・いけばな等の趣味を持つ一級の文化人でした。早くに父を亡くした兄弟にとって祖父の影響の多大さは、兄伯教が後年、教員・彫刻家・歌人・文人画家として開花していったことからも理解できます。
また、二人の親友ともいうべき小宮山清三は土蔵の2階に朝鮮の陶磁器や絵画の陳列棚を設けて展観していましたが、このことが兄弟の朝鮮への憧れを育んでいったのです。小宮山は消防の普及に努め「消防の父」と呼ばれ、県会議長にまでなった人です。さらに木喰仏の蒐集・研究家として柳宗悦の民芸運動に多大な功績を残しました。
 この頃の日本各地の農村部では、キリスト教の布教が盛んでした。すでに小宮山清三は入信していましたが、浅川家でも入信し、それは生涯変わることはなく、現在五町田にある浅川家の墓石には十字架が刻まれています。

◆朝鮮半島へ渡ってからの事情
 伯教は小学校の教員になり、巧は農林学校を卒業し秋田県大館の営林署に勤務していました。
明治40年代以降、朝鮮に渡る人々が増え、必然小学校の建設、教員の補充が急務になり、伯教も母と共に朝鮮に渡りました。伯教は教師の傍ら彫刻家を志し、帝展にも入選していました。大正3年、憧れのロダンの彫刻が我孫子の柳邸にあることを知り、ソウルの街角で投げ売りされていた安価な壺を手土産に我孫子を訪れました。柳は伯教が持参した白磁の壺を見て、その静謐なたたずまいに感嘆の声をあげました。この瞬間こそがまさに民芸運動の出発点になったのです。その壺は「青花草花文面取壺」と命名され、現在日本民藝館に展示されています。
 これを契機に伯教は朝鮮古陶磁器の研究を生涯の仕事と定め、日本各地の窯場と朝鮮古陶磁の窯場に眠っていた陶磁器の欠片を拾い集め、その関係性を追究しました。

 巧も兄を追いかけ、朝鮮の営林署に籍を置きます。当時はげ山になっていたソウル周辺の山に緑を復活させる仕事を天職と定め、「露天埋蔵法」という植樹法を見出し、多大な成果を上げました。巧の生活信条は朝鮮人の生活を自分の生活とすることにありました。白の朝鮮服を身にまとい、ひげをたくわえ、朝鮮語を話し、喜怒哀楽を共にすることを日常としたために日本兵等から差別的な扱いを受けることも度々でした。休日になるとソウル市内外の道具店や骨董店を廻り、柳宗悦が計画する朝鮮民族美術館に展示する古陶磁を買い漁りました。
主な著書に「朝鮮の膳」「朝鮮陶磁名考」があります。前者は伯教が舌を巻くほどの文章と正確なデッサンで描かれた膳の挿絵。後者は今では韓国の古陶磁研究家にも名前がわからなくなっている器も「朝鮮陶磁名考」を開けばわかるという一級の資料。昭和6年、40歳の若さで急逝した葬儀の日、墓地までの長い道のりの間、棺を担がせてほしいと多くの朝鮮の人たちが列をなし、途切れることがなかったとの記録が残っている巧でした。墓碑銘には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心に生きた日本人、ここ韓国の土となる」と刻まれています。また、兄伯教は戦後、韓国を去るにあたって、
 野の花を手向けて眠れいつの日かたづぬる人のありと思へば と詠い、偲んでいます。 
 
朝鮮民族美術館は大正13年にソウル市内景福宮緝敬堂に開館され、浅川兄弟が中心になって運営しましたが、巧没後は伯教が終戦の年まで守りました。伯教は残務整理のため翌年まで残り、新たに韓国人が設立した民族博物館に収蔵品を無事に吸収させました。その後、国立中央博物館に移され現在に至っています。伯教はその後、千葉市黒砂に娘夫婦と晩年まで過ごしました。
句作と作陶、茶を楽しむ日々の生活は在りし日の祖父そのものであり、巧の平等・博愛主義もまた故郷で入信したキリスト教に根ざしていました。

柳宗悦が芸術で日本と韓国を結ぼうと尽力した思想と実践は、浅川兄弟二人が補完しあい機能することで朝鮮民族美術館設立という成果を上げることができました。
二人とも、最終的に故郷山梨に戻ることはありませんでしたが、その思想や実践は間違いなく故郷の環境によって育まれたものであり、故郷を出た後も変わらず、彼らを支え続けていたのです。 (竹下賢治)

アンケートより
・お話が具体的で順序よく説明され、話し方も聞きやすくとても学習になりました。最初の自然環境のお話も、個人的に興味深く拝聴できました。今日は本当に有難うございました。
・日本と朝鮮は随分前から、深い関係があったことを知りました。いつまでも仲良くしていくことを願っています。
2014/11/27のBlog
11/27 源氏物語を読む⑲ 「蛍巻・常夏巻・篝火巻」

講師はいつもの國學院大学講師・文学博士 堤康夫氏です。先生は、「いまの季節とはずれていますが、夏から初秋の景を描いた3巻をとりあげます」と前置きして、各巻の次のような部分について、いつものように楽しい講義をしてくださいました。

『蛍巻』
 玉鬘(源氏の養女)から手紙をもらった蛍宮(源氏の弟)は六条院に彼女を訪ねます。蛍宮の来訪を告げますが、玉鬘は御几帳の側に横になっています。源氏は集めておいた蛍を暗い几帳の中に放ちます。明るくなったせいで、扇でかざした玉鬘の横顔は美しく、蛍宮は心を奪われます。その思いを和歌にして贈りますが、玉鬘からの返歌はつれないものでした。蛍宮にしてみれば、父である源氏が娘の顔を見せてくれたのだから、自分との結婚を許してくれるものだと思っていたのですが・・・。
 
『常夏巻』
 右大臣での娘である近江君は、田舎者だとか、無遠慮だとか、評判がよくありません。源氏から皮肉られたこともあり、右大臣は立ち振る舞いを身に着けるようにと、近江君を自分の娘である弘徽殿女御のところにやります。和歌の腕前も下手で、近江君から女御への和歌は散々な出来で、女房たちから失笑される始末です。

『篝火巻』
 初秋になっても源氏は玉鬘のもとを訪ねてきます。恋人のような、親子のような奇妙な関係に玉鬘は困惑しています。源氏からの恋の和歌に対して、玉鬘は和歌でうまくその想いをかわします。源氏が夜になって玉鬘のところから帰ろうとすると、篝火が消えかかっています。自分の恋の想いを篝火に例えた源氏は、篝火を消さないように命じるのでした。
 
今日のお話もとても面白いものでした。例えば、「近江君は何故あんなにひどく書かれているのでしょうか? 近江は都の東にあります。当時、都の西はプラス、東はマイナス、というイメージでした。玉鬘は北九州育ちですから西、それに対して近江君は東ですから、そう書かれたとも言えないでしょうか」―なるほどと思ってしまいました。

皆様の声です。(佐藤 明)
*かすれ声が色っぽく無くて痛々しい、早く良くなってください。小学校の頃よく蛍狩りに行きましたが、「本を読む」実験をしなかったのが悔しい。昔に返すよしもがな、先生は凄い!まるで平安人、平安人に成りきっている。
*物語の解釈だけでなく、いろんな逸話を交えて退屈せず、面白く勉強できました。