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2009/11/08のBlog
[ 16:03 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
本日は江戸・明治~今日を短時間で散歩しようと、汐留・浜離宮界隈を歩くことにしました。総勢10名の好奇心旺盛な生徒を引率される講師は、江戸・東京の案内人として活躍されている江戸東京茜会の会長の越岡禮子氏。

 先ず旅の始めは新橋から。
 JR山手線新橋駅烏森口を出ると、すぐ「鉄道唱歌の碑」がある。中学生とおぼしき集団は一瞥もくれない。わが国最初の鉄道の開通は、汐留~横浜間28.8キロメートル、明治5(1872)年のことである。鉄道唱歌の作詞者大和田建樹の生誕100年を記念して、昭和32(1957)年10月、鉄道開通85年の記念日にこの碑が建てられた。昔懐かしい“汽笛一声新橋をはや我汽車は離れたり~”の歌が刻まれている。団体の学生にとっては汽笛を鳴らす汽車など考えもつかないことだろう。
 碑の隣には、往年の機関車C-58の動輪が設置されている。余談ながらブログ子はポッポ屋の息子で、幼いころにはこの車輪が、雲をつくような大きさに思えたものでした。

 講義(ガイド)が始まったばかりではあるが、これからの長丁場を前にエネルギーの補給をしておこうということになり、開店前から長蛇の列が続く線路下のすしや「美登利すし総本店」に入った。ランチメニューはニギリとチラシの2種類だが、値段が安い上にボリュームたっぷりで、流石講師ご推奨のお店。美味。これも有難い講義の一つと思うものの、われらの世代には多すぎた人も多かった。

 食後、講義(ツアー)が再開された。「御門通り」を数分歩くと、とあるビルの壁面に「金春屋敷跡」のプレートが貼ってある。勿論東京都教育委員会名義である。金春・観世・宝生・金剛の能家の中でも最も伝統が古く、江戸時代に幕府直属の能役者として宅地や家禄を支給されていた家柄で、現在の銀座8丁目6・7・8番全体を占めていたようである。

 次に向かったのは「芝口御門跡」。宝永7(1710)年朝鮮聘使の来朝に備え、新井白石の建策に基づいてわが国の威光を示すために、新橋の北詰めに桝形の門が作られたもの。因みに新橋とは昔汐留川(現在の高速道路の下に流れていた)に架けられていた橋の名で、昭和39年まで架かっていた。「芝口御門」は享保9(1972)年に焼失し、以来再建されていない。

 「御門通り」の信号を渡り、高速道路のガード下をくぐると、“植えてうれしい銀座の柳~”の歌、「銀座の柳」の碑がある。西条八十作詞、中山晋平作曲のこの歌を口ずさむことが出来るのは、我らが世代の特権である。碑のそばに立つ柳は二世である。
さらに数分歩くと新興高層ビル群にぶつかる。「汐留シオサイト」である。昔新幹線の窓から何気なく眺めていた工事中のダダ広い土地が変身したものである。渋谷・新宿・品川・丸の内など10年前の姿を容易に想い出せない変貌振りを見せているが、この「旧国鉄汐留貨物駅跡地」の変わりようも尋常ならざるものがある。
 その一角に「旧新橋停車場」が往時のまま復元され、資料館として多くの人に楽しまれている。館内には工事中に出土した多くの遺物が展示され、歴史を偲ぶことが出来る。

 「汐留シオサイト」のセンターを突き抜けると、「浜離宮恩賜庭園」の青い森が拡がる。ゆりかもめの汐留駅の向かいにあたる。
 海水を引き入れた潮入りの池と二つの鴨場を伝え、江戸時代には江戸城の「出城」としての機能を果たしていた徳川将軍家の庭園だった。六代将軍家宣の時代になってから、ここは将軍家の別邸となり「浜御殿」と呼ばれて来た。明治維新後は皇室の離宮となり、名称も「浜離宮」と変えられた。
 昭和20(1945)年に東京都に下賜され、21年から一般に公開されるようになった。昭和21年11月22日、国の特別名勝および特別史跡に指定され今日に至っている。園内には「三百年松」が太い枝を張り出し、今なお堂々たる姿をみせ我々を歓迎する。「鴨場」
「鴨塚」「中島の御茶屋」「潮入りの池」「お伝い橋」「将軍お上がり場」等を見て回った。昭和19(1944)年11月空襲で焼失した「松の茶屋」は復元工事が始まるようである。
 時間の都合で園内のすべてを観ることは出来なかったが、都会の喧噪を忘れさせてくれる風景を楽しむことが出来た。

 江戸から今日までの歴史を慌ただしくたどりながら、講義の終わりが迫ってきた。
 帰路は浜離宮から水上バスで13の橋をくぐり、両岸の景色を、また往時を思いつつ浅草で解散となり、それぞれ家路を急いだ。(酒)

ふれあい塾あびこは、我孫子市の「ようこそ地域活動!インターンシップ」に参加しています。運営スタッフとしての活動を体験ご希望の方は、市民活動支援課嶋田 連絡先:04-7185-1467(直通TEL)にお申込みください。
2009/11/04のBlog
本日の市民カレッジでは、手賀沼についての学習を、講義と船上学習の二本立てで行いました。10月8日に予定していましたが、台風で中止となり、振り替え開講したものです。
講義のレクチャーは、我孫子市環境経済部・手賀沼課主任の松沢公男氏にお願いしました(主査の津川雄飛氏が補足説明)。平易明快な説明がなされた上に、核心に触れる質問もあった結果、手賀沼の現況や問題点が極めてクリアーに浮かび上がってきた感じがありました。質疑応答の部分も加味したレクチャーの要点は以下の通りです。
▽手賀沼湖面の縮小:手賀沼の面積は、時代が下がるにつれ縮小してきた。敗戦後においても、干拓の推進によってこの傾向が続いたことに注目したい。ちなみに現在の面積は6・5平方キロであるが、これは昭和30年台の約6割弱の水準。なお近年は水深が浅くなっており、現在の平均値は僅か86センチに過ぎない(最深3・8メートル)。

▽27年間もの水質ワースト・ワン:手賀沼の水質は、昭和40年台に入ると急激に悪化した。周辺人口の急増が主因だが、湖面縮小の影響も少なくない。水の汚れの程度を示すCODのリットル当たりミリグラムの数値は、昭和44年には10であったものが54年には28にまで急上昇(悪化)。この過程において、手賀沼の水質は昭和49年には全国ワースト・ワンになってしまうが、この不名誉な呼称は平成12年まで都合27年間もつけられ放しだった。

▽ワースト・ワンからの脱出:平成7年を境目として状況は好転した。CODの数値は、同年の25から14年には8にまで急速に改善。ただ以後はこの水準近辺で横ばいという動きだ。この間に、前記の通りワースト・ワンを返上し、現在は同7位となっている。情勢好転の背景は次の4点だが(カッコ内は事業の運営主体を示す)、①の寄与が最も大きかった。①北千葉導水路の完成(国)、②ヘドロの除去(県)、③下水道の整備(市)、④市民の協力。

▽手賀沼管理には、国、県、市の三者が関与:市としてはCODのあるべき数値は5以下であると認識している。であるのに近年の数値は、そのかなり手前で足踏みしている格好。市民にはワースト返上で市は安堵してるかに見えるかもしれないが、一筋縄ではいかない事情もある。ご認識頂きたいのは、手賀沼の管理には、国、県そして我孫子市の三者がかかわっていることだ。まず国管理の北千葉導水路について見ると、それを更に積極的に活用すると水の還流が速くなり過ぎ生態系を損ねてしまうというジレンマがある。また導水作業の高コストがさらに嵩むという問題もある。次に県との関係だが、前述したヘドロ除去作業は平成17年に打ち切られている点にご留意頂きたい。県としては、今や水質ワースト・ワンになっている印旛沼への対応を迫られている模様だ。なお我孫子市では下水道の整備を鋭意進めてきたが、この作業もほぼ完了している。

▽市はこれからどう対応するのか:要は、水質の一段の改善は容易ではないということだが、だからといって我孫子市が手を拱いているわけではない。県ならびに周辺市との連携の下に、新たな手賀沼浄化作業を展開している。その主な動きは次の通りで、新たなメソッドを総動員して臨もうというわけだ。①水環境創造事業、②植生帯の創出、整備、③アオコ分離脱水装置、④礫間河川浄化装置。このうち①は、柏、松戸、鎌ヶ谷三市との始めての本格的連携事業である点がとくに注目されよう。
<大好評の船上学習>
1時間半の講義の後は、手賀沼に赴き、遊覧船からの見学に移りました。快晴にして暖かくかつ微風という、最高のコンデションのもと、遊覧船会社・湖上園の津川社長の説明に一同ゆったりと耳を傾けました。津川社長は昭和17年生まれの67歳、いまや手賀沼の生き字引的な存在です。それだけに、この津川社長の景観や生物の移り変わりについての説明は奥が深く、参加者からは好評さくさくでした。

魚類や水生植物の種類は激減したものの、鳥類はおおむね健在とのお話でしたが、実際、じつにいろいろな鳥が飛び交っていました。とくに目立ったのは川鵜で、これは上野の不忍池をねぐらとし、えさを求めてここに日参しているとのことでした。手賀沼には、‘鳥の楽園’という新しい魅力が生まれているように思えてなりません。(久)
2009/10/28のBlog
[ 08:25 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
「我孫子の歴史と文化を楽しむ」の第3回目、講師は軽妙洒脱な語り口で人気の、我孫子の文化を守る会名誉会長の三谷和夫さんです。詳細なレジュメやパワーポイント画像などで、以下のような説明をしてくださいました。
Ⅰ:江戸時代の我孫子
1 参勤交代のための宿場町であった我孫子宿には仙台・伊達藩など多くの大名が往来しました。例えば土浦藩は江戸を出た後、我孫子宿の本陣に泊まり、さらに牛久で泊まって、2日半の日程で土浦に帰りついたようです。
この行程のランドマ-クである一里塚が、東我孫子駅近くや布佐・湖北に現存しています。
この一里塚には必ずヒト10人とウマ10頭が、行列に供すべく用意されていました。しかし常時ヒト10人とウマ10頭を用意するのは困難で、加助郷(カスケゴウ)と呼ばれるシステムが構築されました。我孫子宿からの依頼により、近隣から助っ人が馳せ参じる制度で、いまの野田など近隣の村を加助郷村と言います。

2 布佐には河岸(カシ)が出来て、こめ500俵が積み込める大型の高瀬舟が就航するようになります。そして布佐で荷物を小分けして江戸に運び込む物流システムが出来上がり、ロジスティックスを中心に関連する人々が布佐に集まって大変賑わうようになりました。
この布佐の繁栄は、毎年9月に行われる竹内神社の祭礼の豪華さに、往時の名残を伝えています。

3 手賀沼の我孫子宿と、利根川の取手宿との間に展開する新西国相馬霊場八十八箇所めぐりは、取手の光音禅師が250年前に開いたもので、我孫子に28・柏に4・取手に57の札所があります。この行程を成就させるために5箇所の渡し場があり、この霊場めぐりはいまも続いています。江戸時代にはなんと24時間での全札所めぐりもあったようです。

4 コウノトリは、我孫子にも棲んでいました。手賀沼に多くいたコウノトリが、我孫子市高野山に飛来して造巣、コウノトリが居る山→こうのやま→我孫子市高野山と言われるようになったのではないかと思います。このように鳥が多く棲んでいるところから、将軍の狩りがしばしば行われました。将軍の狩場になることによって、むやみに鳥を捕ってはいけない・鳥の餌になる魚を捕ってはいけない-などの制限を、住民は受けるようになったそうです。

5 幕末期、品川のお台場を造営のため、根戸村の御林(オハヤシ)が切り出されるようになりました。切り出された木材は布施弁天の河岸まで運ばれ、船で房総経由江戸に運ばれました。またこの時期、我孫子では柴崎の東源寺を初めとして数多くの寺子屋が開設されました。そしてここで育った人材が、黎明の明治時代で活躍するようになります。
Ⅱ:明治時代の我孫子
1 明治6年に、先生ひとり+用務員ひとりの小学校が、布佐と我孫子に開設されます。
また17年には茨城大演習の視察途中、明治天皇が今の角松旅館に宿泊された記録があります。

2 水運の要である布佐河岸はさらに賑わうようになり、10年頃には20トンの外輪船「通運丸」が就航するようになります。この船は夜間に東京を出港し、利根川を下って銚子に着く航路でした。同時期に、中峠の「海運丸」という船が、土浦や石岡まで就航していたという話しがあるそうですが、検証はできていません。

3 明治22年に帝国憲法と市町村制が布告され、我孫子町・布佐町・湖北村が発足します。
29年には常磐線「我孫子駅」が開設され、34年には成田線も開通。この鉄道整備によって、当時は大規模であった生糸工場もでき、我孫子は発展期を迎えます。この我孫子駅開設を、資財を投げ打って招致した飯泉喜雄の顕彰碑が我孫子駅前にあります。

塾生さんのアンケートから
・うろ覚えの知識が、はっきりしてとても面白く楽しみなお講義です!!
・はじめて我孫子に来た時、カイコのニオイがプンプンしてましたっケ・・・。
・我孫子と周辺の話まで大変参考になり面白かった。知らないことが多くて情けない。
・面白く聴くことができた。近くから行くことにしたい。
我孫子の賢人 岡田武松とバルチック艦隊の日露戦争の話まで飛び出し、楽しいひとときを過ごすことが出来ました。
2009/10/27のBlog
[ 08:21 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
きょうは「江戸という時代」の第17回目の企画として、江戸東京博物館を訪問した。今回は塾生、スタッフ17名が参加し、特別展「よみがえる浮世絵-うるわしき大正新版画」とともに、館内の江戸時代の展示品や、豊富な資料などを見て回った。
 
特別展「よみがえる浮世絵-うるわしき大正新版画」は、大正から昭和前期の近代東京に興隆した「新版画」の代表作品を一堂に紹介したもの。明治維新を機に、社会の近代化に伴い西洋文明の流入で、江戸時代の浮世絵版画は衰退しますが、大正から昭和の初めに再び興隆します。江戸の伝統的な木版技術を復興し、新たな芸術へ版元、版画家、彫師、摺師が集まり、2000点を超える様々な画題の「新版画」が作られました。
内外から集めた250点の今回の展示作品のなかには、世界最高峰の新版画コレクション、スミソニアン協会アーサー・M・サックラー・ギャラリー蔵 ムラー・コレクションからの30点(日本初公開)も含まれていました。ロバート・ムラーは、1937年 ハーバード大学の学生の時、新版画に感銘を受け1940年に来日、版元や版画家と交流を深め、約4000点を収集したとのこと。外国人により日本の伝統文化が護られた一例です。

江戸時代に関する展示では、小学生向けの企画展「えどはくでおさらい!江戸時代-教科書で見たあの人、この絵-」が、小学6年生の教科書に出てくる江戸時代の始りから終わりまでを易しく説明してあって、楽しめました。 

塾生の皆様は、館内の広さと特別展、常設展の展示品や各種の資料の豊富さとボリュームに圧倒され、少々お疲れ気味でしたが、「江戸時代を見て知る」という所期の目的は達成されご満足頂けたと思います。(山) 
2009/10/25のBlog
市民カレッジ「我孫子を知る」コースでは,12回の講座のうちの3回を、我孫子市の現状、課題、展望などの学習に充てています。
本日は、その最初の講座を表記のテーマで実施しました。我孫子市企画財務部主査の榎本 宏之氏によるレクチャーのポイントは以下の通りでした。
この中では、人口動態の多面的な分析が光っていました。受講者からは、グラフを活用した現況説明がわかりやすかったとの賛辞が多かった一方で、財政の見通しなどについてはより詳しい説明がほしかったとの声も出ましたので、次回以後で補足説明していただくことになりました。

〔人口の推移〕
 我孫子市の人口は、昭和40,年代、50年代には、大幅に増加した。実際、45年の5万人から55年の10万人へと10年間で倍増している。ただそれ以降は、増加のペースは鈍化してきており、現在の人口は13・5万人。増加率はこの先更に大きく落ちる見通し。市では、平成27年に13・6万人に達したところでピークを打つと予測している。
 二つの動きがとくに注目される。ひとつは、地区別の人口の推移にはかなりの開きがでていること。我孫子地区と新木地区が増加傾向、湖北地区と布佐地区が減少傾向、天王台地区は横ばいという状況。我孫子、新木野両地区の増加は、大型団地の出現による。
 当市においても高齢化が進んでいるが、この傾向にも地区別に大きな隔たりが出ていることが第二の注目点。久寺家、新木野、若松の三地区(町)の高齢化がとくに進んでいる。

〔財政の状況〕
 経常収支比率は、自治体財政の健全度を示すもので、数値の増大は財政状況の悪化を示す。千葉県全市の平均値は、平成12年度を底として上昇(悪化)傾向に転じている。我孫子市も同様の動きをたどっているが、その度合いはより厳しくなっている。ちなみに、平成19年度の実績は、全市平均が92・5%、当市が97・0%であった。
 今後の展望も厳しい。人口動態の変化によって、税収が構造的に減少するからだ。市では、昨年度には188億円であった市税が、平成27年度には174億円に減少すると予測している。

〔市民アンケートの結果〕
 ‘これまで取り組んできた市の施策に対する満足度’という設問に対する、上位5位までの回答は次の通り。①手賀沼の浄化・再生、②手賀沼の魅力化、③上水道の安定供給、④生涯学習の機会充実、⑤消防・救急体制の強化。
 ‘今後、市に力を入れて取り組んでほしい施策’という設問に対する、上位5位までの回答は次の通り。①医療体制の整備・充実、②犯罪のないまちの実現、③高齢者支援、④手賀沼の浄化・再生、⑤自然環境の保全・育成。

〔第三次総合計画〕
 我孫子市では現在、平成14年度を起点とし、同33年度を最終年度とする、第三次の長期総合計画を推進している。当長期計画は、‘手賀沼のほとり心輝くまち’をメイン・テーマとし、かつ次の5点を重点プロジェクトとしている。‘手賀沼’,‘活力’、‘安全’、‘子育て’、‘健康’。 (久)


ふれあい塾あびこは、我孫子市の「ようこそ地域活動!インターンシップ」に参加しています。運営スタッフとしての活動を体験ご希望の方は、市民活動支援課嶋田 連絡先:04-7185-1467(直通TEL)にお申込みください。