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ふれあい塾あびこレポ-ト
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2008/10/19のBlog
[ 05:30 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
今日は、神長哲郎講師を迎えての71回目のふれあい塾俳句会。好天に恵まれ、常連のメンバーが早々に集合、定刻前から選句に入った。

 今月の兼題は「運動会」と「冬支度」。いずれも今の時期にぴったりの季語で、ともに26句づつ、計52句が寄せられた。10時過ぎから選句発表に入ったが、「運動会」は“卒業”気味の人も多いせいか、高点句はいずれも「冬仕度」。「人生の冬支度」とうたった句(選句者がすべて男性ということでも話題になった)、庭仕事の木鋏のさえた音をうたった句など、名句が並んだ。
高点句の選句理由、作者の説明に続いて、神長講師による全句へのコメントが行われたが、選句された句がかなりしぼられたのもこの日の特徴。神長講師は「皆さんの選句力が高くなっており、現に『俳壇』10月号には4句も佳作入選しているが、いずれもこの句会での高点句だった」と評価された。

 この入選句は「色あせし父の匂いのパナマ帽」(小坂和子)、「先頭の保母の大きな夏帽子」(同)、「かなたより兄の声する蛍の夜」(相津勝)、「夏帽子振り向かず振る別れなり」(川田和子)の4句。この号には神長講師の句も3句佳作入選というにぎやかさだった。

 次回は11月6日で、兼題は「返り花」と「冬日和」。
午後の時事懇談会は、タイミングぴったりの「金融危機」。10月11日放映のNHKスペシャル「アメリカ発世界金融危機の深層に迫る」のビデオを視聴した後、なんともやりきれない心境を語り合った。(多)
2008/10/17のBlog
本日は、市民カレッジ‘我孫子を知る’コースの9回目の講座がありました。表記の演題にて、手賀沼漁業協同組合 組合長の深山 正巳氏が講演されました。

 我孫子の歴史を遡りますと、当地が古くより手賀沼における漁労によって潤っていたことがわかります。しかもこうした状況は、昭和30年代まで続いていたのです。
 深山氏は、昭和28年 に当地の漁業協同組合の職員となり、さらに同52年には組合長に就任され、今日に至っておられます。本日は、83歳にしてなお矍鑠たる‘スーパー組合長’が、今から約50年前に自ら撮影された貴重なカラー写真なども提示されつつ、手賀沼の移り変わりについて熱弁を振るわれました。以下にその要旨をお伝えします。

〔手賀沼の干拓と漁業の衰退〕
 江戸時代に入り、手賀沼の干拓が活発化した。この流れは太平洋戦争後の昭和40年代まで脈々と続いた。この結果、手賀沼の面積は、終戦時の昭和20年には1180ヘクタールであったものが、同40年代には600ヘクタールへとほぼ半減している。
 当然のことながら、このような干拓の進展は、手賀沼漁業をじりじりと圧迫する事態となる。加えて、昭和40年代に入ると、沼の汚染が急激に進んだ。こうした展開から、手賀沼の漁労は、残念ながら往時の勢いを失ってしまっている。

〔手賀沼の浄化作業〕
 前述の通り、昭和40年代に入ると、周辺地域の宅地化の進展から、手賀沼の水質は急ピッチで悪化。昭和49年には、ついに全国湖沼の水質ワースト1位となる。この不名誉なポジションから抜け出したのは、実に27年後の平成12年のこと。もっとも以後の改善振りには目を見張るばかり、嬉しいことだ。ちなみに、近年のCOD年平均値は、ピーク時(平成7年度)の三分の一内外に改善している。
 この水質改善には、北千葉導水事業と呼ばれる大規模工事の寄与に負うところが極めて大きい。この工事は、利根川の水を取り込み、これを手賀沼の上手から流し戻すという、画期的なものだ。
 もちろん、行政、民間両サイドの努力、尽力の効果も小さくない。行政の動きのひとつに、護岸壁を‘生物に優しい’蛇篭(じゃかご)工法で仕上げたことがあるが、これは深山氏が当時の農林省に対して執拗に要望した結果、実現したものという。

〔手賀沼とその周辺の生き物たち〕
 手賀沼に生息する生物の種類は、主として水質の悪化によって、ここ50年の間に大幅に減少してしまった。そしてこの傾向は動物により強く現れている。
 手賀沼はかって、魚類を主体とする、水棲動物の宝庫であった。しかし現在では、魚類16種、甲殻類3種、両生類と貝類各1種ずつという寂しい状況。魚類では、コイ科が11種を占め、圧倒的な存在。このほかには、ウナギ、ナマズ、ブラックバスなどが生息している。ただワカサギ、サヨリ、メダカ、ドジョウなどは今では全く見られない。貝類、甲殻類の消滅ぶりも著しい。以前にはシジミが大量に取れたものだ。
 現在、最もよく目にふれる植物は、ヨシ、マコモ、ヒメガマ、ホテイアオイなど。ホテイアオイは、沼の浄化を狙い千葉県が増殖を進めているものだ。(久)
2008/10/16のBlog
今日は青木西洋史の日。愛好受講者がそろう前に、「いい天気でつい早く出てきました」と講師の青木道彦先生(元川村学園女子大学教授)がご登場。早々に表題をテーマとする講座がスタートした。

「主役のフランス国王ルイ14世には、双生児の弟がいて、彼は島流しで幽閉されていたとされ、黒岩涙香の名訳で知られるデュマの『鉄仮面』伝説を生むことになった」というエピソードから始まって、以下のように解説された。

ルイ14世(1638-61)は5歳(1643)で即位、61年までは宰相マザランの補佐のもと、ドイツの30年戦争に介入、ライバルのハプスブルグ家に打撃を与え、ヨーロッパ政治の主導権を握りうる状況になったが、国内では王権が揺さぶられ、主導権は確立できなかった。

宰相マザランが死去した後の親政時代(1661-1715)にライン西岸の領土化を中心に侵略政策は本格化。1688年までは英仏が友好関係にあり、侵略は順調に進んだが、1688年のイギリス名誉革命で、親仏ジェイムス2世が追い出されて窮地に立たされ、9年にわたったファルツ侵略でもほとんど得るところはなかった。

スペイン承継戦争(1701-13)でも、英・蘭・皇帝連合に敗北し続け、大きな領土譲渡を余儀なくされ、結局ルイ14世の大陸支配政策は、「勢力均衡の原理」に阻まれ挫折した。国内は戦費で苦境。大胆な財政改革案を提案した功労ある軍人ヴォーバン元帥は、社会の根底を揺るがす提案として、投獄された。

「結局、戦争がいかに国家を破綻に導くか、絶対王政とはこういうもの、の見本のようなケース」と、ご自分の太平洋戦争開幕時の思い出を交えて結ばれた。

この日の残り時間には、多くの受講者から、日頃気になっていた中世のヨーロッパに関連するいろいろな質問が出され、講座とは別に有益な時間となった。アンケートには「フランス太陽王も戦費との闘いで一生を終わったことはヴェルサイユ宮殿イメージと違いました」、「詳しい話でエピソードも入り大変面白かった。解説はとても勉強になりました」などのコメントがあった。

午後は太極拳同好会。(多)
2008/10/07のBlog
今日のふれあい塾の講座は “江戸という時代”シリーズ第六回目で「武士のイメージ/武士の実像」であった。講師は(財)東方研究会研究員の森和也氏。
武士道とは何か、武士道が確立するまでの歴史などについて①明治時代②戦国時代③江戸時代に分けて詳細に解説いただいた。会場は大阪屋カルチャールームで 参加者は23名だった。

①明治時代
明治政府は人心を掌握する精神的な支柱として、室町時代以来長い歴史の中で明治官僚の心の中に育まれた武士道を活用した。伊藤博文枢密院議長が憲法制定会議の挨拶のなかで述べたように、西欧のキリスト教のように、当時の仏教・神道に精神的な支柱求めるには不十分であると考えた。
米国に滞在中の新渡戸稲造が、日本という国を説明するために著した「武士道」にその辺の状況が記され、新しい国造りの上で武士道を活用していくという意思が述べられている。武士道を記したものとしては、山鹿流兵学につながる「甲陽軍艦」、また「葉隠」などはあるが、武士道にいわゆる教典はない。また中江藤樹、、熊沢蕃山など武士道を説いた人はあるが、いわゆる教祖はいない。名誉心、フエアプレイ、克己心などによってイメージされる武士道は指導者の倫理観を形成し、日本を近代化へ導いた。
②戦国時代
仮名手本忠臣蔵にも「切取するも侍のならい」というくだりがあるが、この時代の武士道は、まだ今考えられているような立派なイメージではなく、あくの強いものであった。武士の本分は「戦い」にある、戦うのは所領を増やすためであり、ほしいものは力ずくで取るというのが、当時の武士の考え方であった。
③江戸時代
江戸幕府は「戦争はしない」を基本方針とし、戦国的な武士は否定された。
中国の士農工商の士は、戦うことだけでなく、皇帝に仕えるまつりごとの主役であった。江戸時代の武士も、平和な時代には武士道ではなく士道を求められた。当時儒教が盛んになり、中江藤樹、山鹿素行、熊沢蕃山などの儒者を輩出した。これらの儒者が儒教=武士道を心の機軸として、武士に「専ら人民の道を守る」という役割をあたえ、武士を位置づけした。
室町時代後期以降いろいろな経験を積み重ね、この時期に武士道は確立し、奉仕、信義、道徳心などの現代につながる良いイメージも定着したものと思われる。このなかで山鹿素行の唱える武士道は新渡戸武士道につながっていく。
この講義を通して日本人の心は、仏教、神道などの宗教だけではなく、武士道の影響を強く受けていることが理解できた。

アンケートの結果も「おぼろな知識が系統づけられたようで面白く伺いました」「武士道の精神考え方の説明を多方面の儒者の例から戴いた」「奥の深い難しい話でしたが勉強になりました」などおおむね好評であった。

午後の同好会は会場を白樺文学館に移して、名曲鑑賞会であった。前半はいつものクラシック、後半は昭和流行歌の名曲、ラジオ歌謡の名曲を鑑賞し、若い時代の思い出を語らい大変好評だった。(青)
2008/10/02のBlog
市民カレッジ‘我孫子を知る’コースでは、12講座の中の2講座が史跡めぐりとなっています。我孫子といえば、白樺派文人との深いかかわりがあった地として広く知られています。そこで史跡めぐりは、文学とのゆかりが深いところと、それを除くところとに分けて訪ねることにしました。

本日は、後者の史跡めぐりを、‘我孫子宿を中心に’というサブテーマの下に行いました。ガイド役の講師には、‘我孫子の文化を守る会’副会長の越岡禮子氏にご登場いただきました。越岡氏は、40余年にわたり、この領域の調査・研究を鋭意進めてこられた方。このような講師が、明快かつ平明に説明を進められたので、当然、中味の濃い‘史跡めぐり’となりました。

我孫子は江戸時代に入り宿場として急速に発展しました。それだけに、史跡といわれるものの多くは、当市内を東西に走る旧水戸街道に沿って分布しています。本日の探訪は、こうした史跡を、我孫子駅を始点として、いわゆる逆時計回りの形で訪ねることとしました。

我孫子駅南口をスタートしたのが9時半で、以後3時間のうちに、15ヵ所を回りました。講師の越岡氏は、解説の冒頭、‘今日は通常の場合には余り触れない点もお話ししたい’と語られましたが、実際、氏ならではの、掘り下げられた指摘が多々ありました。以下に、主だった史跡のプロフィールを訪問順にご紹介しましょう。
*飯泉喜雄氏顕彰碑(我孫子駅前);飯泉氏は、明治29年に常磐線が開通した折、私財の大半を無償提供することで、我孫子駅の誘致に尽力されたが、惜しくも若くして病没。氏に対する謝恩の念がにわかに高まり、平成14年、この碑が建てられた。

*八坂神社(白山一丁目);創建は古く、応永元年。我孫子宿の鎮守で、スサノオノミコトを奉る。関東大震災直後の混乱のさなか、この境内にて三人の韓国の人々が殺されたという痛ましい歴史のあることが、近年明らかとなった。

*興陽寺(白山三丁目);我孫子三ヵ寺のひとつ。相馬霊場59番所がある。俳人、石田波郷とのゆかり深く、文学の寺といわれる。薬学の権威で、下山事件にて他殺説を唱えたことで知られる、秋谷七郎博士の墓もある。

*大衆キネマプロダクション跡(白山一丁目);昭和5年から7年まで白山の台地にあった映画の撮影所。メインのスターは岡田嘉子で、‘君恋し’、‘東京行進曲’などが製作されている。地元の古老は、まばゆいばかりに美しかった岡田嘉子を覚えているという。なお当撮影所はその後、松竹蒲田に吸収された。

*香取神社(緑一丁目);我孫子宿の産土神。明治初期に近隣の社を合祀。以後、村社として尊崇されてきた。大正12年の震災後に植えた50本の欅の一部がなお健在。金石文石造物が多数あり、郷土史を学ぶものには興味深いところ。

*大光寺(緑一丁目);江戸時代の度々の出火により、由来は不詳とされる。本尊不動尊は厄除け大師として名高い。また、夢告大師、歓喜天が安置されていることでも知られている。

*問屋場跡(寿一丁目);宿の継立実務を行っていた場所で、江戸時代には我孫子においてもっとも活気のあったところ。四人の村役人が運営に当る一方、25人の人足、25疋の伝馬を常備することが義務付けられていた。現在は、派出所となっている。

*我孫子本陣跡(寿一丁目);問屋場跡からやや北東にある。ここも、まさに跡地であるが、一部の遺構は、旧村川別荘に移築されている。

*脇本陣(本町3丁目);享保年間より、名主、問屋などを歴任してきた小熊家の居宅。現在も美しい萱葺き屋根の建物として健在。本陣はここだったと誤解している人が結構いるという。多数の古文書を蔵していることでも貴重な存在。

*山一林組跡(現イトーヨーカ堂);山一林組は、長野県岡谷市に本拠を構えた、全国有数の大製糸会社(名作、‘ああ野麦峠’の舞台となる)。同社は、我孫子が鉄道立地に恵まれていることに着目、明治39年、当地に大工場を作る。創業以来、昭和10年代まで、当工場は400名もの工女を擁していた。跡地の近くには今も蚕霊塔が建つ。(久)