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ふれあい塾あびこレポ-ト
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2008/08/31のBlog
[ 09:26 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
ふれあい塾あびこは、9月4日から新学期ですが、その1週間後の11日は、8回目の開塾記念日です。おかげで、平成12年9月11日スタートのふれあい塾あびこは、9年目に入ります。毎週2回の開催を重ねて、この8年間の開塾回数は、549回に達しました。これを支えてくださった塾生ほかたくさんの受講者の皆さん、いまや80人を超す講師の先生方、めばえ幼稚園ほか会場関係者の皆さん、その他たくさんのご協力くださっている方々に、改めて厚く御礼申し上げます。

ふれあい塾あびこは、「卒業のない学校」ですから、引き続いて、新しいテーマ、新しい講師の先生方を探し、内容充実に努めます。また、通常の講座以外に、3年前から月1~2回のペースで開催している、一般市民の方にご参加いただける「特選公開講座」も、更に拡充してゆきます。これらの生涯学習の体制とノウハウを生かして、我孫子市の提案型公共サービス民営化制度に応募して受託した我孫子市公民館の市民カレッジ「我孫子を知るコース」も、2年目講座を実施中です。

これらの講座の予定や、その概要は、引き続きこのブログでご紹介いたします。おかげでふれあい塾あびこブログは、この「ボランタリーライフ」利用NPOの中でもトップ50に入るアクセスをいただいていますが、どうか引き続きご愛読ください。そして、ふれあい塾あびこや特選公開講座にどうぞご参加ください。ご意見もお寄せください。

以下、ブログ子から一言ご挨拶申し上げます。
(青)皆さんに講座のイメージができる限りおわかりいただけるよう、がんばって書いております。今後もぜひご愛読ください。

(多) 内容たっぷりで、ブログでご紹介しきれない講座がたくさんあります。ご自分で勉強してみよう、というきっかけにしていただければ、と思っています。お近くの方は会場にどうぞお越しください。

(足)講師のT先生からブログが開き難いがどうしたの!というメールをいただいたり、時々公開講座にも足を運んでくれる川崎に住む友人、Yさんからは川崎でも同種の塾を立ち上げたいのでと資料提供を求められたり、多くの方々に見守られていることに感謝します。

(佐)講座の内容を簡潔にお伝えするのは結構難しいのですが、引き続きご愛読頂けるよう頑張ります。

2008/07/27のBlog
7月24日、第五回市民カレッジ(我孫子市民間委託事業)をアビスタのミニホールで開催した。本日の講師は我孫子の文化を守る会の会長、三谷和夫氏。お話のテーマは「平将門とその一族」、副題は「将門は今も生きている」である。

ご存じのように平将門は桓武平氏高望の孫。茨城県西部を地盤としていた将門は常陸の土豪と国守の紛争調停に乗り出したがうまくいかず、結局国府に出兵し、国府を焼き払う。この行動が国家に対する反乱となった。自ら新皇と称して関東の自立を図ったが、940年2月討たれてその生涯を終える。これがよく知られている将門の乱である。講師からは、今日は一般的な、よく知られている将門の話はしない。我孫子にとって将門は大変ゆかりのある人物、今日はその辺のことを中心にお話したいと講義はスタートした。
我孫子市及びその周辺には将門伝承が数多く残されている。その例を次々と具体的に解説されていく。

将門は初代高望から3代目にあたる。その高望が大切にしていた不動尊が我孫子市の岡発戸にある滝不動に祭られていること。
将門の守本尊は聖観世音菩薩であるが、今は我孫子市日秀(ひびり)の観音寺に日秀観音として安置されている。日秀の人は将門調伏のために建てられた成田山新勝寺に行っても、お参りはしないこと。将門討伐軍の藤原秀郷が建立した我孫子市高野山香取神社の氏子は将門神社のある対岸沼南の人とは通婚しないこと。

我孫子警察署近くにある大井(柴崎)天満宮は1991年に「鎮座1050年記念」の手拭いを作成した。その手拭いからわかることは、1991から1050を差引いた941年に天満宮が建てられた計算になる。これは将門が死んだ940年の翌年、つまりこの天満宮は将門の霊を祭るものであること。

我孫子市根戸にある北星神社。これは将門の家系につらなる千葉氏が信仰した北斗(北星)につながるものであること。更には守谷の将門城址といわれるもの、東京の大手町にある将門の首塚など、かずかずの将門伝承を紹介された。

更に時代を下って、将門の一族として千葉氏、相馬氏について紹介される。初代千葉常胤の子供、相馬師常は平将門直系への養子説があること。師常から5代目の相馬重胤は奥州相馬氏の初代であること。この千葉氏も相馬氏も江戸時代に入ると歴史の上では消えてしまったことが、その血筋を引く人たちが今もおられること。
将門に縁の深い地域では今でも「将門様」と「様」をつけて呼ぶ。今から1000年以上も前の将門に対する敬慕の心が深く大衆に根付いているのではないか。将門神社は各地に存在するが、朝廷に反逆した将門が神となったのは何故なのだろうか。

講義の途中で、「桓武平氏支族」とかかれた講師作成の一冊のノートを紹介された。そこには将門と同じく桓武平氏の子孫にあたると思われる氏がアイウエオ順に記録されており、受講生の興味を引いた。
講義の終わりには講師が持参されたカセットテープで、福島相馬の民謡「相馬流れ山」と「相馬二遍返し」を聴き、本日の講座の締めくくりとなった。

非常に地元に密着したお話に、受講生はもっと、もっとお話を聞きたい。また、今日紹介された史跡を是非訪ねてみたいと思った講義であった。(佐)
2008/07/26のBlog
BSEやSARS、鳥インフルエンザなど、動物から人間にうつる「人獣共通感染症」が頻発しているのはなぜか、その伝播を防ぐためにはどうしたらよいか-今日は市内布佐平和台在住のこの分野の権威で、この「人獣共通感染症」の名付け親でもある元国立感染症研究所獣医科学部第一室長 獣医学博士 神山恒夫先生からお話を伺いました。

まず先生は、寄生虫・細菌・ウィルスが身体に付着して増殖するのが感染症であり、人から人へと伝染することが社会的問題となる。つまり社会レベルでの障害を引き起こすのが感染症であるとされました。

次いで病原体の種類と数に触れられ、英国の学者が数えた1415種類のうち、ウィルスが200種類・細菌が500種類もあること。そして800種類はもともと動物が持っていた病原菌であり、人間の感染症の60%はこの動物由来の感染によるものであることを話されました。つまり「人獣共通感染症」の概念は、ここに由来します。

先生の調査によりますと、人獣共通感染症が存在することを知っている人は少なからずあるが、60%の人は具体的な病名を知らない。病名は知らなくてもいいから、人獣共通感染症という病気があることを知っていて欲しい・覚えていて欲しいことを訴求されました。

人獣共通感染症は古来からあり、メキシコ・アステカの壁画にも犬と人間共通の寄生虫が描かれているそうです。ジェンナ-の種痘法は牛を使った、人間への初めてのワクチン使用例です。感染すれば発症する、発症するものは治療法が見つかる、対処する事が可能となる、これが天然痘撲滅への成果と繋がったわけです。

天然痘は動物が介在しない疾病ですが、動物が介在する人獣共通感染症はどうか、特に日本の現状はどうなのでしょうか。一番身近にいる犬や猫などのペット、リスやプレ-リ-ドックなど輸入されてくるエキゾチックペット、狸やいたちなどの都市型野生動物、普段口にしている家禽・家畜や魚介類、動物園や保育園で飼育しているふれあい用の展示動物など、数多く接触する機会があります。

しかしながら幸いにも日本は、生物の活動が低下する冬という季節があり、周囲を海に囲まれていることと、研究者の方々の成果と啓蒙により防疫が100年近く有効に働いてきたことにより、100%ではないにしても行き渡って来た国なのだそうです。日本という国が持つ恵まれた条件を活かしつつ、綺麗な環境を作り上げてきたわけです。
ところが、降って沸いたような報道が1999年米国コロラド州で発表されました。
「日本は年間10,000~30,000頭のプレ-リ-ドックを輸入している。が、プレ-リ-ドックは病原菌であるペストを介在させている。ペストを媒介するプレ-リ-ドックを、何の検疫作業を加えないまま日本は大量に輸入しているが、これでいいのか 大丈夫か 日本は」という主旨でした。プレ-リ-ドックがペストと関連ある動物・ペットであることに、衝撃が走ったわけです。

更に2002年8月、米国テキサス州で日本へ輸出するために集められたプレ-リ-ドックに野兎病が発生し、その多くが死亡した情報が寄せられました。野兎病は、バイオテロにも使われる恐れがある細菌で、早速国内調査を行ったが被害は無かったそうです。

この二回にわたるペストと野兎病事件が、プレ-リ-ドックの輸入規制に大きく舵を切るきっかけとなりました。人間の病気を持ち込むことを阻止するために、2003年3月からプレ-リ-ドックの輸入が禁止されました。そして日本経済を守るためにも、動植物の検疫措置が日夜おこなわれているそうです。ちなみに、みつばちは家畜扱い、厳しく検疫されているそうです。(びっくり)

このあと先生は、50年以上日本では発生していないが、狂犬病が入ってくる危険性を危惧されているともお話されました。塾生のみなさんからは、かえる・かめ・はくびしん・わたりどりと共通感染症の質問がありました。

神山先生の結論は、人獣共通感染症を防ぐには必ず、動物との接触のあと、うがい・洗顔・手洗いをすることで99%予防できます-とのことでした。

塾生のみなさんのアンケ-トも、「我々はあまりにもペットとの付き合い方が無防備であったと思います。この講座を機会に認識して付き合って行きたいと思います。非常に重要な講義をありがとうございました」、「とても参考になりました。きょうのようなお話は初めてでしたので、驚きもあり分かり易く良かったです。手洗いの重要性をつくづく感じました」、「身近な動物の感染症について気をつけるようにしたいと思います」、「日本の安全を漫然と受け入れていましたがご苦労がどんなになされていたか知り赤面の思いです。改めてペットと私たちの関係を知らせてくれ目から鱗でした」など、感銘を得た講座となりました。
2008/07/20のBlog
きょうは特選公開講座で、「公事吟味の心得―江戸の裁きの心構え-」と題して、元最高裁判所長官の山口繁先生にご講演いただいた。2002年退官後、我孫子市若松にお住いの先生には、昨年10月の「大岡越前も関与した手賀沼入会権訴訟」など特選公開講座ではすでに2回ご登場いただいており、今回は3回目。ちょうど、2009年5月から施行の裁判員制度を控え、裁判に関心が高まっている折から、定刻の13時にはアビスタ・ホール会場は受講者でいっぱいになった。
先生は、冒頭にマタイ伝第七章「汝ら人を審くな。審かれざらん為なり。己がさばく審判にて己もさばかれ、己が量る量にて己も量らるべし」を挙げられ、古代の神判―くがたち(盟神探湯)から、近世の人が人を裁くシステムまでの歴史的経緯を分かり易く解説された。

本題の「公事吟味の心得」の解説では、まずその出典が、徳川八代将軍吉宗の命で1741年に幕府の法令・判例集「公事方御定書」の制定の際に参考とされた「律令要略」であり、我孫子市史資料の宝暦11(1761)年「我孫子村評定所御定書」(我孫子宿の名主小熊甚左衛門が元文3年ごろ作成された「評定所御定書」(公事方御定書の原型形態)を筆写したもの)に「律令要略」の中身を多く引用していると紹介された。先生の調べによると、この「評定所御定書」は九州大学と長野市と我孫子市の3ヶ所にしかない貴重な資料で、「我孫子に住んだお陰でこの資料に巡り合えた」とコメントされた。

続いて「公事吟味の心得」9カ条につき、原文を読みながら懇切丁寧に解説された。
とりわけ、3カ条目の「理非わかれたりとて、・・・」のくだりではご自身が20代後半、岡山地方裁判所で関わった業務上過失致死被告事件の際に、「20代の人間が人を裁けるか、と随分悩み、特定不動の価値観に帰依して行動される宗教人である裁判官が羨ましく思えた」と、当時の心情を吐露された。

これらの解説の中で、先生が、繰り返し述べられたのは、予断を交えずじっくり双方の言い分を聞き、知恵才覚を恃まず、愚直に、誠実に、ということ。最後はイタリアの参審制度の参審員の宣誓書の次の言葉で締めくくられた。
「私は(中略)社会の期待にかなう判決が出来るように、すなわち、真実と正義の確認が出来るように、熱心に審理を聞き、冷静に証拠、訴追側及び防御側の主張を検討し、厳正かつ公正に判断して自らの心証を形成し、反感や好感を精神から遠ざけることを誓います。(後略)」
難しい裁判への心構えを、いかに分かりやすく解説するか、随分工夫をしてくださったおかげで、講座後のアンケートでも「むずかしい問題をわかりやすく筋道を通して話されましたので、今まで遠かった裁判員制度も身近になり私にもやれるかなという思いにまで至りました」「具体的かつ論理的。ご自身の体験を交え説得力があった。よく準備された内容に敬服します」「分かりやすくて良かった。でも裁判員制度はイヤ!」「時機を得たテーマ。我が国においても江戸時代既に立派な裁判官の心得が確立していたことに驚く」「法廷での鍔迫り合いがなくなったというのが印象的でした」などの声が寄せられた。(足)
2008/07/15のBlog
[ 06:43 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
朝から大変暑い日だったが、前回「天璋院篤姫と皇女和宮」で好評だった高尾善希先生(立正大学文学部史学科非常勤講師)の2回目講座とあって、会場の大阪屋カルチャールームは定刻前に満席となった。

今回テーマは「文字を知った人びと―江戸時代の読み書き事情―」。江戸時代後期には、文化が名もない百姓、町人に広がったが、今回は読み書き能力がどのように広がり、それが社会の中でどのように機能したか、以下の5つの柱で説明された。先生お得意の研究領域とあって、たくさんの具体的資料と、パワーポイントで、明快に解説してくださった。
(1)なぜ学ぶようになったのか
それは、戦争のない時代になり、限られた耕地で生産力を高める一環として、商品作物を作って売買する。それには契約内容を読める農民、商人が必要だったこと。もうひとつ、戦国時代は村にいた武士が、城下町に集結、村に伝達する文書が読める村民が必要だったから。

(2)ではその学びの場は
まずは寺子屋。その数は無数。幕末には毎年300位が開業した。ただし、江戸時代の識字の広がりは、寺子屋だけでは説明できず、父母、店の主人などの指導、振り仮名から漢字を覚える自発的読書など、先生のいう「学びのブラックボックス」の役割が大きいとのこと。

(3)その読み書きが世の中を変えていった
具体例を、先生がこの10年来調査してこられた武蔵国入間郡赤尾村の名主、林家の文書(江戸時代古文書9000点)で説明してくださった。たとえば、名主を1人にするという帳面か、2人にするという帳面かに、村民に「手筆」で名前を書かせた。嘉永4年(1852)には組頭などを選挙した「入札(いれふだ)」144枚が残っている、など。同村には、19世紀には、全軒数の26%、36軒もの農間渡世者(百姓の商業経営者)がいたともいう。

(4)その学びは、明治でどう変わったか
こちらは、先生の曽祖父、加藤退祐(三重県三重郡三重村、1893~1924)の読書論・蔵書目録でご説明。退祐は、ハンストして「百姓に学問はいらない」という父親を説得、師範学校を卒業、小学校訓導などの後31歳の若さで死去したが、その学びは学歴社会の到来を象徴する。暮らしのために必要なものだけを学ぶ江戸時代と決別、卒業証書が社会的地位を決める競争社会に突入した。

「今日は120分講座と勘違いしていた」とおっしゃる内容をそっくり90分に折り込みながら、ユーモアも多い楽しい講座。受講者アンケートも「大変わかりやすく本当に楽しかった」、「30代の若さで今日の内容深い講義は驚くことだらけ。時々笑いのある講座は堅苦しさがなく、とても楽しいひと時であった」、「実証的調査に基づいたお話は大変面白かった」など、たいへん好評でした。
昼食時は久保寺さんの「証券時評」。午後は時事懇談会。今回は、終戦記念日を控えて、「戦争を語り継ぐ」をテーマに、沖縄戦のビデオ鑑賞や、意見交換をした。(多)