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映像保存再生への道
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2008/09/06のBlog


7月のサーバー不調から、ブログまで休むことになってしまいました。
この間にGoogleのストリートビューが8月初めにはじまったことも休みが長くなった原因の一つかもしれません。
左の写真は7月に横を街歩きしていた都営の池尻アパートが取り壊されているところを写したものです。この地が、戦後の人口増加に対応した時代の役割も終えるのかもと思ったのですが。


この辺り、変化の兆しが見えてからケータイで記録していたのですが、Googleのストリートビュー(右写真)は、ほぼ同じ地点で360度の景色を見ることができます。この地域は今年の初めから春にかけて撮影されものらしい。通りの右奥(東)には、先に建て替えが終わった新しい高いビルが見ることができます。
13,4年前、空中写真・地図と地上写真や全周画像を結びつけた道案内のCD-ROMコンテンツ企画開発していましたが、それら技術の延長がインターネット・グローバル企業に集約していくなど当時誰も想像できなかったでしょう。

今週、池尻から西方にある、都内最大級の都営下馬アパートの建て替え計画が、近隣住民に対して初めて説明会がありました。住人には3月頃から説明をしていたらしいのですが、近隣では寝耳に水の方も少なくなかったようです。
右は計画のパース図ですが、もう少し歴史や環境配慮したものにならないものであろうかと思います。建ぺい率、容積率、日影規制など、敷地内の条件だけでビルを並べたような。近くの区有地や周辺地域との連携なども考えて欲しいものです。また、せめて屋上緑化など必須にしなければ、「みどり33」の実現や温暖化対策にならないのでは...

会の方向性までにも影響を与えたこの夏であったかもしれません。


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2008/07/12のBlog
[ 22:33 ] [ 地図・絵図 ]

今日は午前中からもう夏本番を思わせる暑さで、Y氏に電話を入れると、「戦争遺跡を巡る」の予備調査ために、午後から21日講演予定のきむらけんさんと池尻を歩くと言います。急遽、打ち合わせの事もあり、少しだけ一緒に歩きました。
 写真は、軒先に出ておられた年配の方に声を掛けられて、聞き取りをされている時の様子です。お二人のコンビネーションも良く、巧い取材を見させて頂きました。
この後、入道雲は雷雲に変わり、家路を急いだ筆者はびしょ濡れ、雨宿りのお二人は30分後には「雨上がる」、調査の足を進められたようです。


右の写真は、7月7日(七夕、川の日)に戻ります。
池尻・三宿周辺は、大山道(R246)の古郷せたがやへの玄関口であることは、何度か書いてきましたが、言い方を代えれば、写真の目黒区大橋を超えれば渋谷でもあり、青山の城下に繋がります。この目黒川を跨ぐ大橋は、大坂上や道玄坂上へと続く大山道帰路の最大で最後の難所であったとも言います。
数年前の「渋谷」で、渋谷は渋谷川と大山道の交点を中心に発展・密集していったことを見てきたことが、映像保存再生への道のプロローグとしましたが、古郷せたがやヴィジョン研究会の誕生(2006.6)も池尻・三宿周辺地域の地理・歴史的背景が此処の地塊・地霊から感じたからだったかも知れません。

(20080717 チラシPDF追加)
2008/07/07のBlog

今日は七夕で、洞爺湖サミットでも、各国首脳が短冊に願い事を記したようです。
「平和」、「子ども」、「未来」などと言った直接的な表現が多かったようですが、議長国首相は「温故創新」、孔子の温故知新とは違って「未来を拓く」の意味らしい。
 古郷せたがやヴィジョン研究会では、昭和・大正(・明治)の頃を古地図・映像などから知ることを楽しみとしていますが、知ることによって子どもたちの郷土、将来を考えた活動に繋げたい方も少なくありません。子どもたちの風景資産探訪やマップ作りを支援する活動は、この実践であるのかも知れません。写真は日本地図センターの玄関・入口で、渋谷から世田谷・三軒茶屋の大山道(R246)と東名高速に繋がる首都高が地下工事中の山手通りの交点「大橋」にあります。空からの画像では以前にココで取り上げましたが、このジャンクションの直ぐ北に日本地図センターがあり、「マップ・リーダー研修会」が今日行われました。
と、上に書いてからサーバーの状態が良くなく、状況を見守っていましたが、随分と時間がたってしまいました。運用管理者事務局ブログ(7/10)では、「原因は、データセンターの共有部分であったことが判明し、先ほど交換修理が終了いたしました」とお詫びにあります。
 さて、マップ・リーダー研修会の話しに戻ります。30名ほどの研修者が今回集まり、ガイダンス、「地図学概論」から「地図と測量」、国土地理院特別講義までの一日研修となっています。地図倉庫の見学もあり、「タモリ倶楽部」でも取り上げられ取材されていたシーンを思い出しました。

地図センターの会場ならではの写真が紹介されていました。昭和20年3月10日東京大空襲米軍撮影空中写真です。この日、燃え盛る墨田、江東など東京下町の斜め空中写真には、西方の青山、渋谷、三軒茶屋から環七辺りまでが幽かに写されていました。この2ヶ月余り後の5月24日、25日には、山の手世田谷周辺の空襲でも多くの犠牲者・被害が出るのですが、空襲前の画面中央渋谷周辺や明治神宮・代々木公園、駒沢練兵場(現在の三宿交差点周辺、池尻、世田谷公園、自衛隊病院、昭和女子大ほか)など空襲前の最後の様子を伝えるものかもしれません。


駒沢練兵場周辺には、近衛砲兵営や重砲兵営、目黒川の北側には駒場練兵場、騎兵山と呼ばれた騎兵営の宿舎などが立ち並んでいたことが分ります。

そこにはどんなドラマが展開していたのでしょうか。戦地に出向いて亡くなった方、抑留された人、片足亡くした傷痍軍人、未復員兵など病院に運ばれた人など、此処を訪ねることもあるのでしょうか。
2008/06/28のBlog
 今はもう雨です。
東京・下北沢で「せたがや自治政策研究所主催シンポジウム」が本日午後に行われ、先日の「古郷せたがやと地球温暖化」セミナーや7/21(月、海の日)の「地域風景資産探訪とマップ作り」オリエンテーション・説明会のこともあり、参加して来ました。
 基調講演は、「温暖化防止に向けた国際的潮流と我が国が歩むべき道程」と題して、政府政策提言もされている末吉竹次郎氏。氏は、学生時代に世田谷に住み、又銀行マン時代には区内で支店長をしておられていたこともあるとの由。地球温暖化問題で、欧米ではビジネス社会の意識変化が起きており、低炭素社会に向けてCO2を出すことは悪で、CO2削減することは良いことであると言うCO2基準が登場しているようです。企業・ビジネスだけでなく、行政・市民の3者協働体制が必要で、アメリカ先住民の言葉「最後の木が枯れ、最後の川が毒され、最後の魚を獲った時、人はお金は食べられないことに気づく」で講演を閉められました。銀行マン出身らしいお考えをお聞きしたように思えました。
基調講演後のシンポジウムでは、「『地球』の課題を『地域』の課題として捉えるために」と題して行われ、2、3月に行なわれた北沢総合支所の「区民講座・地球温暖化を考える」企画会議での意見が生きているのかと思われるものでした。右写真は、ビデオ撮影などの収録が禁止された(??)このシンポジウムの閉会挨拶(区政策経営部部長)時の様子です。将来的なせたがやのビジョンは、歴史認識に基づき、地域での協働によるマップ作りなども挙げられていたように記憶します。
右映像は、6/15(日)に行われた古郷せたがやヴィジョン研究会のセミナーでの梅干野(ホヤノ)先生講演風景。東京周辺の夜の熱画像を説明されています。都心部は東京湾と同じように、夜になっても赤くなっており、ヒートアイランドの様子が示されました。地球温暖化シミュレーションでは、地球の平均気温が1.7~4.4度今世紀末までに上昇し、今後の気候変動が心配されていますが、東京は高度経済成長期以降既に、ビルの空調・クーラー、車排気などで数度の気温上昇が起きているのです。地球温暖化とヒートアイランドのメカニズムは違っていますが、対策を考える上で共通する部分も少なくないと考えられます。
右映像は講演の中でのスライドで、渋谷・表参道の一画の事例で、効果的な樹木を配置して地域温暖化対策がなされています。
 本日のシンポジウムでは、世田谷・経堂の環境共生型コーポラティブ住宅の事例で、250年樹齢のケヤキの木の移植の話しがありました。土地所有者・大家の想いと数家族が、共同でみどりを守り増やすコーポラティブハウスを建てられたようで、涼しい快適な住環境は地域にも貢献しているようです。喜多見にお住まいの梅干野先生は、住宅を持たれる時の決め手は隣りのケヤキの大木でしたが、10年前に一日で切り倒されてしまったことを非常に残念に思ったそうですが、このような例は区内でもたくさんあったものと思われます。当時の経済(金)優先の社会が古いせたがやの良さをかなり犠牲にして地域発展(?)してきたのかも知れません。
 古郷せたがやの良さは、地域風景資産として選ばれた場所と密接に関係しているものがあります。地形や歴史的背景と共に、次世代にも引き継いで行くべきものなのでしょう。
2008/06/21のBlog

 夕方から雨が降り出している。午後、北沢川文化遺産保存の会による街歩きに参加する。
 集合の京王線「代田橋」駅を小田急線の「世田谷代田」駅と勘違いし、集合時間にやっとのことで間に合った。世田谷には、代田と名のつく駅は、もう一つ京王井の頭線「新代田」駅があり、注意が必要である。10名余りとなった一行は、この「都市物語を歩く会」を主宰されているきむらけんさんの案内で、柳田国男も探索した巨人伝説ダイタラボッチ痕跡を探訪した。

右の写真はこの地域の街区案内板。甲州街道(R20)は、新宿からの京王線と共に、隣りの杉並区との凡その境界となっている。また、この地域の豊かな風景の中心をなす和田掘給水所は、神田川や玉川上水、淀橋浄水場などともに水道歴史に重要な施設と位置付けられているようだ。
 ダイタラボッチの痕跡は、今はない「代田橋」、「代田半島?」を思わせる地形にあると言うことらしい。街区案内板だけでは、その立体的イメージを思い描くのは難しい。
そこで役立つのが、古地図。今の地図にはない地形的な情報は、大正や昭和の初期の地形図に表れているからである。
この日も、近くにお住まいの方に取材、お聞きする際に古地図が使われた。
 (古郷せたがやヴィジョン研究会でも、古地図をベースに「探訪」を行っていますが、新たな発見ができるものなのです。)

鉄道開発後の昭和初期や、高度経済成長期後の都市化によって、住宅や道路、水道・下水道、送電線鉄塔など現代社会のインフラ整備によって、ダイタラボッチの痕跡探索は柳田国男の時代に比べ、更に難しくなっていると言える。
 過去の地図や映像、この街歩きを支援する情報技術なども駆使しなければ柳田国男のイメージを膨らませることは至難である。右映像は、小さな川が流れていたと言う線形を追う参加者、調査隊。
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