チャレンジドという言葉をめぐって‥‥その1

ライターの弾丸ひろこです。(%バイク%)

「改名キャンペーン」の立ち上げなどで、すっかり間が空いてしまいました。すいません(ペコリ)(%ショボ女%)

さて、今回のテーマも改名キャンペーン絡みで、「チャレンジド」という言葉について取り上げたいと思います。

「チャレンジド」とは、米国ではすでに「障害」のある人を表現する言葉として一般的になっています。

従来のマイナス面にフォーカスした“the handicapped”に対し、”the challenged”は、「神から挑戦という使命や課題を与えられた人」という前向きな想いが込められています。

日本でも最近よく聞かれるようなりましたね。

この間、「障害児」のママに会う度に「障害児」改名について、そしてこの「チャレンジド」という言葉について簡単に聞き取りを行ってきました。

現時点で20名、お子さんの年齢は、2歳から15歳まで、ママの年齢はだいたい30代前半から40代後半まで。

そして、お子さんの「障害」は、皆さん何らか「知的障害」があるのが共通しています。

意外というべきか想定内というべきか、ほとんどのママたちが、「障害児」と言う言葉にも違和感はあるけれど、「チャレンジド」という言葉にも別の意味で違和感があると異口同音におっしゃられていました。

ちょっと気になった具体的なコメントを、ご許可を得た上で無記名で挙げてみますと‥

(%ニコ女%)チャレンジドと言う言葉には、プレッシャーを感じる。自閉児を育てていく中で、日々を無事乗り越えるのが精一杯なのに、もっと頑張らなければいけないのかなと。

(%ニコ女%)言葉として敷居が高いし、おこがましい。一般の方に使う際にも説明が必要。使い慣れている「障害児」のままで良いと思う。

(%ニコ女%)うちの子はちょっとおバカなだけで、普通の子と変わらないと思って育てている。「障害児」でもなければ、「チャレンジド」といった崇高な使命を負った特別な子だとも思わないようにしたいので。

(%ニコ女%)チャレンジドとかハッピー・チャイルドとか敢えて前向きな言葉を使わなければならないところがかえって苦しい。肩に力の入ったマイノリティーの悲しさが伝わってしまう。

(%ニコ女%)かつてアメリカに在住していたことがあるだけに、言葉の持つ理念はよくわかるし、素晴らしいと思うけれど、あくまでアメリカという国の文化土壌から生まれたもの。日本の文化やこの国で「障害児・者」が置かれている状況とはあまりにかけ離れていて、少なくとも今の日本で日常的に使うには無理がある。改名をするのは、もっとユニバーサルな社会になってからの話だと思う。

‥‥とまあ「チャレンジド」という言葉をめぐって、いろいろなことを感じ、考えていらっしゃる方もいましたが、違和感を感じている方たちの概ねは、言葉自体知らなかったという方も含め、さほど深くは考えていないようで、「実際問題、“うちの子チャレンジドです”なんて、気恥ずかしくて使えないでしょう」といったところです。

こうしたママの中には、そういう質問をされること自体に、「はぁ?」という感じで引いてしまったり、改名キャンペーンについても、「まぁた変わったことやらかしてるのねぇ〜」といった反応もあったこともご報告しておきます !! f(^_^;)

さて、一方、「チャレンジド」賛成の方も若干名いらしたので紹介します。

(%ニコ女%)限られた能力を駆使して生活している子供を見ていると、日々何をするにも挑戦であると感じる。まさに「チャレンジド」だと思うけれど、勇気がなくて使えない。使ったら、バス停(←特別支援学校のスクールバスのバス停のこと)で確実に村八分になるだろう。いつの日かもっと一般的な言葉になることを願っている。
 
バス停でスクールバスを待つお母さん仲間から村八分になるとは、なかなかリアリティーのあるご意見です。

また、こんな賛同のご意見もいただきました。

(%ニコ女%)日本の実情にはまだ合わないかもしれないけど、敢えてこういうメッセージ性の強い言葉を戦略的に使って世の中の意識を変えていくことが、今、ユニバーサル社会への過度期だからこそ、必要だと思う。

私が「改名キャンペーン」に抱いている想いもこの方のご意見と大変近いので、嬉しくなって、「そうよね、そうよね!」と思わず手を握ってしまいました。

私が「障害児」母という、いわゆるマイノリティー当事者になって実感していることは、人の意識の進化は遅いんだということです。

この20年、テクノロジーはすごく進化しましたね。
20年前、例えばこんな風に多くの市民がブログで情報発信しているなんて考えられなかったですよね。

でも、「障害者」関係の施設を建てようとするとその土地の住民から必ず反対運動があるのは、20年前と全く変わりません。

「障害者」関係の施設が建つと“不動産価値が下がる”とか、“盗みや不法侵入者が増える”とか、昔と相も変わらぬ偏見に満ちた理由で‥‥。

普通の小学校への敷居もこんなに高いとは正直思いませんでした。

どんな障害があっても、親と本人が希望すれば入れる時代になっているのではと思ったらとんでもなかったです。(←またこの件については詳しく書きたいと思います)

だから、いろんな手段を使って、できるところから、人の意識にゆさぶりをかけていく必要があると思うのです。

ユニバーサルな社会になるまで、「障害児」と呼ばれることに我慢する必要はなくて、敢えて前向きな呼び名に改名していくことを、逆にユニバーサル化への一戦略にしてしまったら良いと思うのです。

今から20年後、例えば、うちの子のグループホームを建てようとした時、やっぱり住民の反対が昔と同じようにあったとしたら、それは正直、私ら、本人の親も含めた当事者の責任だと思います。

いったい、この20年何をやってきたのかと‥‥。

当事者から嫌なもんは嫌だ、こうあって欲しいと声を上げて行くことからしか、事態は変わっていきません。

神から挑戦する使命を受けているのは、「障害」のある本人だけでなく、家族も同様だと思っています。

さて、話しがそれました。私も「チャレンジド」という言葉にはいろいろと思い入れがあります。

次回は、私の身近で「チャレンジド」という言葉が使われているし現場の様子の報告と共に、「障害」のあるわが子に照らし合わせながら、私なりの想いを綴りたいと思います。

「(%音符1%)あぁ、こぉ〜のままぁ〜、何時間でもぉ〜、書いていたいけどぉ〜(%音符2%)」
ご精読ありがとうございました!!(%笑う女%)