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2018/11/16のBlog
現代中国講座⑲
「今後の中国ビジネスをいかに展開するか」
麗澤大学外国語学部客員教授 三潴正道氏

中国ウオッチャ-の三潴講師は、「トランプ政権の保護主義と対中国経済制裁の強化が様々な波紋を呼んでいる。日中の雪解けムードも、日系メーカーの中国から生産拠点移動の開始も、直接間接にこれらの動きと連動していることは明白である。
しかし、それにばかり目をむけていると、大きな流れを見落とし、5年後、10年後に後悔の臍を噬(か)むことになりかねない。
10月末に北京で開かれた日中首脳会談で日本は、中国が進める現代版シルクロード経済圏構想「一帯一路」の国々を「第3国市場」と呼び変え、52の案件で中国と協力することで合意したことで空気が一変した。いまこそ過去に学び、将来に資することが大事な時はない。
見方によっては、トランプ旋風を奇貨として飛躍的発展も可能である。」と前置きされて次のように解説くださいました。

三潴講師は「トランプ政権の対中国経済制裁の強化が日中の雪解けムード、日系メーカーの中国から生産拠点移動の開始など様々な波紋を呼んでいる。しかし、今後の中国ビジネス展開では、このトランプの経済制裁への対応だけでなく、長期的には中国人の行動・思考パターンを改めて認識したうえでの対応が必要である。10月末に北京で開かれた日中首脳会談で日本は、中国が進める現代版シルクロード経済圏「一帯一路」構想などに関連して、52の案件で中国と協力することで合意したが、そのためには、この中国人の行動・思考パターンを学ぶことが大切だ」と前置きされて次のように解説してくださいました。

*中国や中国人の行動パタ-ンには、二つの型がある。
最初の行動パタ-ンは「まず~してみよう」というパタ-ンで、この『まず』は次の七つの型がある。

1. 「まず、好きなようにやらせよう!それから法整備」=1980年代の改革開放、朱鎔基の医療改革など。エネルギーを開放してもらい、ボトムアップを図る。
2.「まず、喫緊の問題をクリアしよう」=リーマンショック対策、PM2.5対策など。その場しのぎ結構。副作用対策はそのあと。
3.「まず、気づいたことからやってみよう」=2000年代初頭の「社区」整備など。切羽詰まっていなくてもいい。
4.「まず、案を提示し、みんなの意見を聞こう」=学者の「試行本」など。不備を指摘されるのは恥でない。
5.「まず、前へ進むことを第1に」=問題は克服されるためにある。デッドロックは避けて前に。
6.「まず、形を整えておこう」=環境問題、知財権問題など。環境・条件が整うまでは取り組む姿勢のアピールで結構。
7.「まず、看板を掲げてから議論を」=都市化、自由貿易区など。リレー式議論で内容拡充を。

*二つ目の行動パタ-ンは、「計画的に事を進める」ということ。
中国にはスケールの大きい総合計画(「規画」)と、数値目標を持った具体的計画(「計画」)があり、統合的理念を踏まえて、各部門がボトムアップ式に提案して統合的理念に反映するのが一般的。統合的理念に沿って各部門が計画する日本と違う。

タイプとしては「当初から計画的」(地域発展計画、宇宙開発、教育改革など)、「途中から計画的」(環境問題。知財権問題、ネット金融、一帯一路への取り組みなど)と柔軟で、いずれにしろ「結果がすべて(利益が出たか、成果が上がったか、など)」で徹底している。

三潴講師は、このほかに、2011年から2018年にかけての企業研修で、グループディスカッションに参加した約70社、2000人が「中国および中国人をどう見ているか」をまとめた企業人アンケートの要旨も配布してくださいました。

そして「以上のような中国の考え方や行動パタ-ンを熟知し、日本企業が短期的に、そして長期的にどう舵を切っていくかが大きな命題となります。」と話されて解説を終えられました。

頂いたアンケ-トの一部をご紹介します:
*わたしの知らなかった分野についての話がほとんどで、中国の現在についてこれからもおききしたい。時間が少し足りないのではと思いました。
*中国の考え方、事の進め方の特徴を、肯定的に捉えた視点が新鮮でした。
*今回も有益満載でありがたかったです、次回も会社を休んで聴講させていただきます。
2018/11/13のBlog
[ 01:53 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
堤先生の連続講座“古典の恋歌”⑩
挽歌の系譜―『古事記』『万葉集』『伊勢物語』『源氏物語』―
國學院大學講師・文学博士 堤 康夫氏

通常、相聞歌は恋の歌、挽歌は死者を悼む歌とされます。広辞苑によりますと「挽歌」とは、①中国で葬送の際、柩車を挽くものがうたった歌②死者を哀悼する詩歌、悼歌 とあります。
堤講師は「けれども、考えようによっては生者を恋うるのが相聞歌、死者を恋うるのが挽歌とも解せそうです」と前置きされて、死者への恋歌としての挽歌についてつぎのように解説して下さいました。

※『古事記』の日本武尊の昇天
ミヤズヒメノミコトのもとに結納の品でもあるクサナギノツルギを置いて、ヤマトタケルはひとり伊吹山に向かいます。山の神と対決するために行った伊吹山で、白い大きな猪が現れます。ヤマトタケルはこの白い大きな猪を、「神の使いの者の化身だから、帰り道で退治すればよかろう」と考えて先を急ぎます。しかし実はこの白い大きな猪こそ山の神自身であり、氷雨を降らせてヤマトタケルを失神させます。
山を下りたヤマトタケルは玉倉部の清水で気を取り戻し、「居覚の清水」と名付けます。杖を突きながら至った三重の地を「杖衝坂」と名付け、桑名の尾津など地名の起源話を撒きながら大和を目指します。しかし熊煩野=今の三重県亀山市に至ったところで、国を想い、ミヤズヒメノミコトを思った歌4首を詠んで亡くなります。
報せを聞いた妃や子は御陵を作り、田んぼで四つん這いになって嘆き悲しみます。ヤマトタケルは白鳥となって飛び立ちます。妃や御子たちはヤマトタケルの白鳥の後を追いきれず、海に入ったときは足に藻がからまります。そして、もっと追いつきやすい浜辺を飛んでくださいと歌を詠みます。
(堤講師は「恋の歌は死の歌と裏表の関係にあります。ヤマトタケルは死んで白い鳥となり、山を越え、磯辺を伝い、海の彼方へ飛び去ります。死んだ人は何処へ行くのか、鳥になって天へ昇っていくのか、死者を恋いうる歌と言えます」とコメントされました)

※『万葉集』の柿本人麿の亡妻を偲ぶ歌
「これは人麿が奥さんが亡くなった後、泣きながら詠んだ歌です。大和の軽の路で楽しく過ごした二人。しかし今はひっそりとした菰の沼で妻との出来事をひたすら思い続け、モミジの葉が落ちるように亡くなった妻を思い、ただただ妻の名を叫び続けます。妻の死を悼む中に恋の歌が読み取れます、まさに挽歌は死者への相聞歌なのです」

続いて堤講師は、恋わずらいの女が死んで、蛍になって天へ上がっていく伊勢物語第四十五段や、源氏物語の葵上と藤壺の死を解説されたあと、「きょうは古事記・万葉集・伊勢物語・源氏物語を通して、空に昇る魂を見てきました。魂は山を越える、魂は海を越える、魂は土に帰るなど、魂の行方についての思いは様々ですが、死者に対する挽歌は大和の国時代から連綿と続いています」と話されて解説を終えられました。

参加頂いた方からは、以下のような感想を頂きました。
*堤先生のお話はとても生き生きしていて、とても良かったです。
*いろいろな方面のことが入ってきて面白かった、解りやすいです。
*昔の人の死に対する考え方がよくわかり、面白かったです。
*すごくわかりやすくおもしろかった、また聞きたいと思った。

2018/11/06のBlog
新シリーズ「再訪・絵画を観る喜び」② ルネサンス美術 その2

好評の長野絵画解説新シリーズ2回目の今回は、「ルネサンス美術その2」。これまでと同様に長野講師が40年近くにわたって訪問してこられた42ヶ国、2112ヶ所に及ぶ美術館、博物館、宮殿、美術品のある邸宅や教会などの中から、ルネッサンス期の「受胎告知」と「最後の晩餐」を中心に、代表的な名画をスライドで映しながら、収蔵施設、所在地、歴史的背景などを含めて、以下のように解説してくださいました。

*ルネサンス以前の中世は、キリスト教の圧力が極めて強く、聖人を描くのが絵画であった。古都フィレンツエは、戦火に見舞われることなく中世の美術が殆ど残っている。一般的に、ルネサンス絵画が取っつきにくいのは圧倒的に宗教画が多いことである。西洋人にとっては、キリスト教は常識的なものであるが、日本人はキリスト教に帰依している人が少ないため宗教画に馴染みが乏しいと言える。

*前回は、古代からルネサンス期ごく初期の肖像画が中心であった。今回はまず、ルネサンスの扉を叩いた画家ジョット・ディ・ボンドーネを初めとする「受胎告知」の代表的な名画とその画家を以下の通り紹介する。「受胎告知」は、処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってキリストを身籠ったことを告げ、マリヤがそれを受け入れることを告げるシーンである。これは自然界ではあり得ないことで、逆に画家の心が刺激され、創造力が掻き立てられたことから非常に多くの「受胎告知」が描かれている。

・作者不詳 
「玉座の聖母子」ウフィツィ美術館、フィレンツェ 1210-15年
・ジョット(1267-1337)、イタリア・ルネサンスの先導者でジョットの愛称で呼ばれる。
「受胎告知」スクロヴェーニ礼拝堂、パドヴァ 1305年頃
「キリストの死」スクロヴーニ礼拝堂、1305年頃
・シモーネ・マルティーニ(1285-1344)、国際ゴジック様式の先駆けで活躍。
「受胎告知」ウフィツィ美術館、1333年
・フラ・アンジェリコ(1395-1455)、宗教的主題のみ描いた修道士画家。
「受胎告知」サン・マルコ美術館、フィレンツェ1442-1443年
・マザッチョ(1401-1428)、イタリア・ルネサンスの扉を開いた画家。
「楽園追放」ブランカッチ礼拝堂、フィレンツェ 1426-1427年
「聖三位一体」サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ1427年頃
・ボッティチェッリ(1445-1518)、フィレンツェ派の代表的画家。
「受胎告知」ウフィツィ美術館、1489年
・フィリッピーノ・リッピ(1457-1504)、独自の様式を確立。
「受胎告知」サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、ロ―マ 1489-1491年頃
・フィリッポ・リッピ(1406-1469)、初期ルネサンスを代表するフィレンツェ派の巨匠。
「聖母子と二天使」ウフィツィ美術館 1465年頃
「受胎告知」バルベリーニ国立古典博物館、ローマ1440-1445年
・ロレンツォ・ロット(1480-1566)、ヴェネツィア派の代表的画家。
「受胎告知」レカナ-ティ市立絵画美術館、レカナーティ 1534年頃
・エル・グレコ(1541-1614)、引き伸ばされた人体の独自の絵画表現。
「受胎告知」大原美術館 1590-1603年
・アントネッロ・ダ・メッシーナ(1430-1479)、フランドルの油彩画技法をイタリアに導入した画家。
「受胎告知」シチリア州立美術館、バレルモ1475年

*続いて、「受胎告知」と同じくらい数多く描かれている「最後の晩餐」その他の絵画を取り上げる。「最後の晩餐」は、キリストが翌日処刑される前夜、12使徒と共に摂った夕食の場で、使徒の一人がイエスを裏切るとキリストが予言した時の情景である。この中には、“全くエラーのない画家”とも称賛されているアンドレア・デル・サルトの「最後の晩餐」もある。日本ではあまり知られていない画家だが、実は夏目漱石の「吾輩は猫である」にはその名が12ヶ所も出ている。

・アンドレア・デル・サルト(1486-1530)
「最後の晩餐」サン・サルヴィ美術館、フィレンツェ 1527年
「アルピエの聖母」ウフィツィ美術館、フィレンツェ 1517年 
・ポントルモ(1494-1557)、マニエリスム期(後期)の第一人者。
「キリスト降架」サンタ・フェリチタ教会、フィレンツェ 1528年頃
「ヴィ―ナスとキューピット」アカデミア美術館、フィレンツェ 1533年
・ミケランジェロ(1475-1564)、盛期ルネサンスの彫刻家、画家、建築家、詩人。
「ピエタ」サン・ピエトロ大聖堂、ローマ 1499年
・ブロンズィーノ(1503-1572)、メディチ家の宮廷画家。
「愛の勝利の寓意」ロンドン・ナショナル・ギャラリー 1545年
「コジモ一世の肖像」ニュー・サウス・ウエールズ州立美術館、シドニー 1545年
・アレッサンドロ・アッローリ(1535-1607)、マニエリスム期最後の画家の一人。
「最後の晩餐」ラジョーネ宮、ベルガモ 1582年
「ヴィーナスとキューピット」ファ―ブル美術館、モンペリエ 1570年頃
・ソフォニスバ・アングイッソ―ラ(1532-1625)、西洋美術史上最初の本格的な女流画家。
「自画像」ブレラ美術館、ミラノ 1560-1561年
「チェスをする3人の妹達」ボスナン国立美術館 ポーランド 1555年

以上、今回も90分たっぷり、原稿なしのよどみがなく、歯切れのよい名解説でした。会場一杯に詰め掛けた受講者の皆さんは、以下のアンケート例のように、大満足のご様子でした。 (小島 隆)

*さすがに美術の第一人者、今回初めての参加でしたが次回も参加したいです。
*いつも長野先生の博識とさわやかな説明に感服しています。今日も大変興味深いお話でした。有難とうございました。
*初めて耳にする画家の特徴や見どころを分かりやすく説明頂き、素晴らしいです。実物を見たいと興味を覚えるほどの講義でした。
2018/10/23のBlog
[ 02:12 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
堤先生の連続講座“古典の恋歌”⑨蜻蛉日記
國學院大學講師・文学博士 堤 康夫先生

古典の文学作品に織り込まれている数々の恋の歌を学ぶ堤先生の「古典の恋歌」シリ-ズ。9回目のきょうは、『蜻蛉日記』が主題です。『蜻蛉日記』は初めての女性による日記文学で、浮気性の男性を夫に持った女性の、やるせない心中が吐露されています。主人公は右大将道綱母で、当時三大美人に数えられた美女です。藤原兼家に求婚されて高貴な一員に加わりましたが、夫の浮気に悩まされ、他の女性を嫉妬し続けました。「しかし彼女の証言は全て真実なのでしょうか、きょうは日記文学における事実と虚構の問題を考えてみましょう」と前置きされて、いつも通りの楽しい解説が始まりました。

*蜻蛉の生命は半日から一日半と短く、いわゆる内臓がありません。これは「蜻蛉のようにはかない私の人生」を記した日記物語です。平安時代に日記をつけたのは主に貴族の男性で、漢文を用いてのちの人々のために毎日の公式行事を克明に書き残しましたが、この日記は貴族に仕える女房階級の女性が、ひらがなを用いて数十年前の過去の出来事を遡って記した回想録です。

*右大将道綱母は19歳の折に妻がいた藤原兼家から言い寄られて、結婚します。子供が二人生まれて当初は夫も大事にしてくれたのですが、そのうちに別の女性のもとへ通い始めます。その中に次のようなエピソードが書かれています。

*外出をした夫の跡を用人につけさせると、やっぱり愛人のところへ通っており、夜明け前に戻ってきた夫に門を開けなかったら、夫は愛人のところへ戻ってしまいます。そして「夫は私の反応を試したというが、もっとかまって欲しい私…」など愚痴が続いています。

*本当にそうだったのでしょうか。「拾遺和歌集」の巻十五に、右大将道綱母の和歌が収載されています。それによると、「夜遅く門を叩く音がするので開けたら、疲れた顔の夫が入ってきた」とあります。「拾遺和歌集」は天皇の命で作られたものであり、虚構は入っていないだろうと思われます。つまり妻は門を開けて、夫を迎え入れたと推測されるのです。

堤講師は「このことは序文からも、検証が可能です。序文には、三大美人と言われていたのに、『顔も醜く美しくない。人から頼りにもされず、退屈な毎日を送っている私。世間にたくさんある嘘や作り話ではなく、私の生きてきたはかない人生を回想しようと思って書きました』と人の関心を高めることを意識した表現があり、上記のエピソードも文学作品としての価値を高めるためにわざと兼家を貶したと推測されます。蜻蛉日記はそういう創作が織り込まれた文学と言えます」という興味深い解説をされました。

きょうのアンケート回答には以下のようなご感想もありました:
*こんなに時代が変わっても、人間の中身は変わらないのですね。夫婦のあり方も変わらないのが、この文学日記からうかがえました。とても楽しく、勉強できました。不謹慎ですが下手な落語よりも面白く、幅広くいろんなことが学べて嬉しいです。

*小林一茶の「八番日記」の中に、「桐壷源氏三つのとし、我も三つのとし、母に捨てられたけれど、みなしごの我は光らぬ蛍かな」の句があります、一茶58歳の時の句です。江戸時代の後期に「源氏物語」が庶民にまで読まれたことに、驚きです。堤先生の考察をお聞かせいただければ幸いです。

*きょうの「蜻蛉日記」の解説を聴き、金婚式を数年前に終えた最近の自分たち夫婦の関係にありそうなこととつくづく感じる。小生も日常のことを約70年間毎日欠かさず、日記を記している。最近は連れ合いに対する不満や小言が、多くなりつつある。これは他人に読ませる日記では無いから、創作ではなく本音である。連れ合いがもしも日記を記していれば、小生に対する不平不満を「蜻蛉日記」以上に厳しいことを書いているであろう。夫婦とは、長年つれそうとそんなものかも?若い男女の間の愛情表現ではなく、これを相手に対する離れられない愛情の表現かも知れぬ。

2018/10/16のBlog
[ 03:00 ] [ ふれあい塾講座記録 ]
あのピアニスト・吉武優氏 再登場
~ドビュッシ-没後100年を記念して~

吉武優氏には昨2017年6月1日、「ショパンの愛と生涯」のテ-マでご登場いただき大好評でしたので、こんどはドビュッシー没後100年をテーマに再度のご登場をお願いしました。会場はほぼ満席、今回も素晴らしい演奏と、要領よく、ユーモラスなレクチャーで、時間のたつのを忘れさせる豊かな90分となりました。

吉武優氏は福岡県のご出身で、東京藝術大学及び同大学大学院音楽研究科を修了されました。その後ベルリン芸術大学にてJ.ルヴィエ氏の下で研鑽を積まれ、国家演奏家資格を取得されて帰国。数々のコンク-ルで受賞され、名だたるオ-ケストラとも多く共演されています。そして現在は桐朋学園大学や東京藝術大学ピアノ科の講師などを務めておられます。

今回取り上げられドビュッシ-はフランスの作曲家で、1862年8月に生まれ。幼少期に詩人ヴェルレ-ヌの義母に音楽の基礎を学び、長じてパリ音楽院でバッハの「トッカ-タ」を弾いてピアニストの道に進むことになります。しかし学内のコンク-ルに立て続きに失敗してピアニストの道を諦め、1878年に現存する最古の曲「フ-ガ」を作曲します。以後世に名高い数多くの名曲を作曲し、1918年3月癌により55歳で亡くなります。亡くなった年から数えて今年はちょうど、没後100年にあたります。

このドビュッシ-の作品のうち、今回演奏してくださった楽曲は以下の通りです。
*アラベスク第1番(1888)
*ベルガマスク組曲 (1890-1905) より「前奏曲」「月の光」
*前奏曲集第1巻 (1909-1910) より「デルフィの舞姫」「帆」「亜麻色の髪の乙女」「西風の見たもの」 
(休憩)
*レントより遅く (1910)
*前奏曲集第2巻 (1910-13) より「妖精は良い踊り子」「変わり者のラヴィーヌ将軍」「花火」
*12の練習曲 (1913-1915) より「五本指のために」「組み合わされたアルペッジョのために」「オクターブのために」

これらの各曲演奏の間に吉武講師は、曲の特徴、曲の創作・演奏にまつわるエピソードなどを要領よく、時にユーモラスに解説してくださいました。例えば、“レントより遅く”については、「ドビュッシ-初期の作品は、アラベスク第1番やベルガマスク組曲の「月の光」などのように、淡い、美しい色合いの曲です。一方、後半に作られた曲は、その色合いに深みが増して、暗い色合いの作品となっています。その中間にあるのがこの“『レントより遅く”という作品です。演奏された回数も少なくて耳に馴染みの無い曲ですが、ハ-モニ-の運びにとても色気を感じる作品です」と解説されました。

以下は、お客様から頂いたご感想の一部です。
*通常のコンサ-トと異なり、演奏者の解説があり、楽しいだけでなく、勉強になりました。とくに、前奏曲集第1巻 (1909-1910) より「西風の見たもの」、12の練習曲 (1913-1915) より「五本指のために」「組み合わされたアルペッジョのために」「オクターブのために」など。また我孫子に来てください、他の作曲者での同様の企画をお願いします。

*ドビュッシ-の作品を年代別にたっぷりきかせていただき、楽しく気持ちのいい時間でした。特に、アラベスク第1番(1888)、前奏曲集第1巻 (1909-1910) より「西風の見たもの」、12の練習曲 (1913-1915) より「五本指のために」など。朝早くからありがとうございました。次はどの作曲家の作品を聞かせていただけるか楽しみです。

*11月の東京文化会館でのリサイタルの前に演奏が聞けるなんて、ぜいたくすぎます。特に、アラベスク第1番(1888)、ベルガマスク組曲 (1890-1905) より「前奏曲」「月の光」、前奏曲集第2巻 (1910-13) より「妖精は良い踊り子」「変わり者のラヴィーヌ将軍」「花火」、12の練習曲 (1913-1915) より「五本指のために」「組み合わされたアルペッジョのために」「オクターブのために」など。朝早くからありがとうございます。いつもすばらしい企画に感謝しております。
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