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2019/02/19のBlog
2/18 「震災後文学の行方」
 ― 災害列島ニッポンの文学 ―

本日の講師は東洋大学文学部教授、石田仁志氏です。
「私は2016年の1年間、フランスに留学していました。そこで日本文学を学ぶ学生から、『大地震や原発事故は日本の文学にどのような影響を与えましたか』という質問を受けました。それが本日のテーマにした一つの理由でもあります」と前置きされ、以下のようなお話をして頂きました。

1.〈震災後〉という視座
 国内はもとより、世界を見渡すと自然災害、大規模な事故、紛争やテロといった出来事が日常化しています。そこに〈震災後〉という視座が意味を持っています。

2.「震災文章」というジャンル
大正12年、『文芸春秋』は関東大震災後、多くの作家に大震災に関する寄稿をもとめ、ここに「震災文章」というジャンルが生まれたように思います。
その中で、横光利一は「このような大災害をもたらしたのは地震ではない。それは人間の功利が生んだ文化だが、人間は生きている間にはその災難に合わないと思っている。 なぜこの災害が大きくなったのだろうか。それは人間が功利であったが故に、人々は大声を発して警告しあう暇を忘れていた」と。
また、芥川龍之介は「震災の我々作家に与える影響はさほど根深くないであろう。ただし、今まで作家が取り扱った人間の心理はどちらかと言えばデリケートなものであるが、今度はもっと線の太い感情の曲線を描いたものが新たに加わるかもしれない」と書いています。

3.村上春樹と震災
 『神の子どもたちはみな踊る』(6つの短篇を収録、2000年新潮社刊)
 短篇では直接には阪神淡路大震災の被災場面は描かれていない。すべて「震災後」の物語です。
 『カタルーニャ国際賞』受賞スピーチより(2011)
 「日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本語には『無常』という言葉がありますが、すべてはただ過ぎ去っていくという視点は、自然に逆らっても所詮はムダで、ある意味では仕方のないものとして受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのです」

4、東日本大震災後の現代日本文学
 数多くの作家が大震災を作品に描いていますが、代表的なものをご紹介します。
 ①川上弘美『神様2011』 原発事故と自分自身に対する怒り
 ②玄侑宗久『光の山』 高さ30mの汚染土の山、30年後は観光地に?
 ③垣谷美雨『女たちの避難所』 避難所内での差別、偏見、セクハラなどほぼ実話
 ④他に、高橋源一郎『恋する原発』、多和田葉子『献灯使』、津島佑子『ヤマネコ・ドーム』、桐野夏生『バラカ』、黒川創『岩場の上から』、よしもとばなな『スウィート・ヒアアフター』、いとうせいこう『想像ラジオ』など。

先生は以上のような数多くの震災後文学をご紹介くださったあと、今日のまとめとして、「坂口安吾の『堕落論』を借りて言えば、第2次世界大戦後のように、大震災や原発事故で人間は生き、人間は堕ちる。人間は上っ面の救済に頼るのでなく、絶望と向き合い、堕ち切ることによって自分自身を発見し、救わなければならない。もっと絶望すべきではないのか、それを直視してこそ本当の未来があるのではないかと思います。」と結ばれました。

私たちも「震災後」の文学を読み続けることで、災害の厳しい実態を学び、未来へつなげていくことが大切であると改めて認識したお話でした。 (佐藤明)
本日の感想からいくつかご紹介します。
 ・ついこの間の大震災のことなのに、知らないことが多いことにショックを受けました。ご紹介いただいた作品を是非読んでみたいと思います。
・大変興味深く拝聴しました。全般的に素晴らしく、ご紹介いただいた本は全て読みたいと思いました。
・文学(本)の力を改めて感じることが出来た。
 
2019/02/15のBlog
堤先生の連続講座“古典の恋歌”⑫
失われた物語の復元 ―散逸物語『かばねたづぬる』―
國學院大學講師・文学博士 堤康夫氏

今回は「平安・鎌倉時代には存在したが、長い年月の間に読まれなくなり、書き写されなくなり、現在はその作品のほとんどが失われ、わずかに一、二個所の断片だけが残されている作品を散逸物語といいます。そうした散逸物語の一つ、『かばね尋ぬる宮(死体を捜し求める宮様)』という作品を、残された和歌と『更級日記』にみえる若干の記事から復元してみたいと思います。いわば縄文式土器のかけらから元の壺を復元する作業にも似た、文学考古学とでもいう作業に挑戦してみましょう。」と話されて、次のように解説頂きました。

*(『更科日記』)から)姉がこどもを産んでから亡くなった。法要も済んで落ち着いた頃に親戚の人から、姉が探していたという本が送られてきた。姉が健在であれば喜んだであろうに、亡くなってから届くのは悲しい。届いた『かばね尋ぬる宮』という本は、ある女人に恋をした宮様が、その恋のために入水した女人の屍を探す物語である。宮様は結局亡骸を見つけることが出来ず、出家して女人を弔うストーリーである。死体探しなのに、亡骸が見つからないというミステリー作品に仕上がっている。

*この『更級日記』の記述を裏付ける内容が、『風葉和歌集』に存在する。
姉が亡くなって居場所が無くなった姉の乳母は、姉の墓所に参ったあと泣き泣き実家に帰って行ったという。妹は、野辺の送りをした場所は今は煙も上がらず、目印も無いのにどうして墓所を見つけることが出来たのかと訝る。

*これを聞いた父の愛人である継母は、「確かな見当は無かったかもしれないが、きっと流した涙が導いたのでは」という。『かばね尋ぬる宮』という本を届けてくれた親戚は、「人も住んでいない原野だから目印もある筈はなく、泣きながら訪ねて行ったのだろう」という。その兄は「火葬の煙はすぐに燃え尽きて無くなってしまった。どうやって乳母は訪ねることが出来たのだろうか」と訝しがる。

先生は「ここからミステリーの謎解きが始まります」と以下の興味深い推測を披露して講座を締めくくられました。

*荼毘に付した煙も無いのに、どうしてお墓が分かったのでしょうか。お墓だという目印も無いのに、なぜそこがお墓なのでしょう。そして『かばね尋ぬる宮』物語を送ってくれた親戚が、なぜこんなに口を挟んでくるのでしょうか。ひょっとすると、池で入水したから荼毘の煙も無く、だからお墓も無いのかもしれません。この姉のふるさとの奈良で入水可能な池と言えば猿沢の池(=去差和池)で、姉は猿沢の池に入水したのではないか、とも推定できます。

*もしかすると、妹や乳母や親類などは前もって『かばね尋ぬる宮』物語を読んでいて、この物語を踏まえた歌『風葉和歌集』で野辺送りをした、つまり『風葉和歌集』は亡き姉への大鎮魂歌だとも読み取れるのではないでしょうか。猿沢の池には、帝のお召しがなくなったのを嘆いて身を投げた采女を詠んだ柿本人麻呂の歌などが収容されている『大和物語』があり、今も、身を投げた采女をお祭りしている『采女神社』があります。

参加頂いた方からのご感想の一部です:
*更科日記に書かれたかばね尋ぬる宮という物語を筋にして、風葉和歌集のつながりから大和物語に采女が帝に恋い焦がれて猿沢の池に入水した事件に結び付ける講義の流れには、感心させられた。
*いろいろな物語から推測する面白さもある、と思いました。
*一般的な中学や高校の古文の授業では、きょうの先生のような物語の中の歌から他の物語との関連性を解説する先生が居ないのはなぜか?
2019/02/13のBlog
新春公開映画「この道」関連企画
第1部「『白秋+耕筰』を歌う」ソプラノ:塚本江里子さん
(ピアノ伴奏:清水瑞穂さん)
第2部「続『白秋と三人の妻』」講師:北澤和郎氏

北原白秋の波乱に満ちた半生を、山田耕筰との友情と共に描いた童謡誕生100年記念の映画「この道」(映画「この道」製作委員会)が、2019年1月に全国公開されました。この日の講座は、これに関連した特別企画で、ふれあい塾あびこ初めての2部構成講座でした。朝は雪交じりの寒い日でしたが、多くの方に受講していただきました。

第一部は北原白秋作詞 山田耕筰作曲の童謡を、塚本江里子さん(東京藝術大学大学院修了)に、清水瑞穂さん(武蔵野音楽大学卒業)のピアノ伴奏で歌っていただきました。塚本さんは、「童謡100年は、日本の童謡運動を主導した鈴木三重吉の児童文芸誌「赤い鳥」発行から数えたもの」と解説されたうえで、この2人による童謡のうち「この道」「ペチカ」「かやの木山の」「鐘が鳴ります」「からたちの花」「あわて床屋」などを、以下のような解説を交えてご披露頂きました。

*「この道」:白秋が晩年訪れた北海道と、母の実家である熊本、生家のある柳川の道がうたいこまれています。
*「ペチカ」:1924年発行『満州唱歌集』に収載されましたが後に削除。その後、いまに
歌い継がれています。
*「かやの木山の」「鐘が鳴ります」:白秋が一時寄宿していた小田原の住まいに、大きなかやの木があり、そこをモチーフに作詞しました。
*「からたちの花」:ミカン科のからたちは、白い花をつけます。養子に出されて夜学で
学んだ耕筰は、昼間のつらい勤労のたびに、からたちの垣根で泣いたとのちに語っています。耕筰のこの悲しい思い出を、白秋が作詞しました。
*「あわて床や」:カニの床やとお客のウサギ、滑稽な動きが時代を越えてなお歌い継がれています。

以下は、お客様のご感想です。
*とても楽しかったです、曲の説明もわかりやすく楽しかった。
*江里子さんの透明感あふれるいつもの歌声がありがたい、心が温まります。
*江里子ちゃんの澄んだ声、とてもよかったですよ。MCもとても上手ですね、解説もとても分かりやすかったですよ!! ブラボー!!でした。
*まるでミュージカルを見ているようで、素晴らしい歌、表情、お話を楽しませて頂きました。
*さわやかな歌声とダイナミックなピアノ伴奏、楽しませて頂きました。懐かしい曲ばかりで、もっと多く歌って頂きたかったです。
第二部は北原白秋の研究家である北澤和郎氏に、2017年4月の「白秋と三人の妻」講座の続編としてお話頂きました。白秋は大正2年に第1の妻福島俊子、大正5年に第2の妻江口章子、そして大正10年に第3の妻佐藤菊子と結婚しています。前回の復習の後、第2の妻章子の神出鬼没ぶり、などこの3人の妻について以下のような追加解説をされました。

*第二の妻「江口章子(あやこ)」は明治21年いまの大分県豊後高田市香々地の生まれ、最初の結婚は破談し、曲折を経て白秋と結婚、白秋を支えます。しかし白秋の肉親と折り合わず離縁となった後は<恋多き女><多情夜叉>の生活を送ります。最後は故郷に戻り他界しました。

*第一の妻「福島俊子」は明治21年三重県名張市の生まれ、隣に住んでいた白秋と情を通じ、姦通罪で獄に落ちた後、二人は結婚します。しかし白秋一族との生活はうまくいかず、離縁の後に今でいう孤独死を遂げます。

*第三の妻「佐藤菊子」は明治22年大分市に生まれ、大正10年に白秋と結婚します。
一男・一女に恵まれ、資料の整備や口述筆記で白秋を支えます。白秋の作品の多くは、この時期に作られています。菊子は白秋を押し上げただけではなく、江口章子への物質的支援も続け、93才で他界した<良妻賢母>でした。

以上の説明に対するお客様のご感想です。
*明るく多才でちょっぴり目立ちたがり屋の北澤さん、いつまでもお元気で。
*興味深い講演内容で、わかりやすい解説でした。
*歯切れのいい迫力満点のお話で、面白かったです。
*楽しいトークで、初めて知ったことばかりでした。
2019/02/05のBlog
新シリーズ「再訪・絵画を観る喜び」③ ルネサンス美術 その3
美術愛好家 長野一隆氏

長野一隆講師による大好評の絵画解説新シリーズの3回目は「ルネサンス美術」その3です。今回のテーマは、ルネサンス期の一方の旗頭ヴェネツィア絵画とラファエロが中心でした。
今回も長野講師が、40年近くにわたって訪問された42ヶ国、2112ヶ所に及ぶ美術館、博物館、美術品のある邸宅や教会などで実際に観てこられた世界中の名画のなかの代表作を130枚のスライドで写しながら、作者、作品の特徴、歴史的背景、収蔵施設、所在地などを丁寧に解説して下さいました。

*ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430-1516)は15世紀ヴェネツィア派の第一人者、父のヤーコポ、兄のジェンティーレ、義兄のマンテーニャも高名な画家、ジョルジョーネ、ティツィアーノは弟子であった。
「荒野の聖フランチェスコ」フリック・コレクション、ニューヨーク1480年頃124 x 142cm
「死せるキリストと天使達」リミニ市立美術館、イタリア1474年頃91 x 131cm

*アンドレア・マンテーニャ(1431-1506)はイタリア、パドヴァ近郊の生まれ、マントヴァ侯ゴンザーガ家の宮廷画家で初期ルネサンスを代表する画家、北イタリアの芸術全体へ強い影響を与えた、ジョヴァンニ・ベッリーニは義弟。
「墓場のキリスト」コペンハーゲン国立美術館、デンマーク1500年頃 78 x 48cm
「死せるキリスト」ブレラ美術館 イタリア、ミラノ 1480年頃 68 x 81cm

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1485頃-1576)はイタリア、ピェーヴェ・ディ・カドーレの生まれ。
星々を従える太陽、色彩の錬金術師、ヴェネツィア絵画を代表する画家。西洋絵画全体へ強い影響を与えた、王侯貴族を友に、栄光の後半生を送った。ヴェネツィア最大の画家と言われ、「ティツィアーノ」とファーストネームで通じる稀有な画家である。
「聖愛と俗愛」 ボルゲーゼ美術館、ローマ 1514年 118 x 279cm
「ヨーロッパの略奪」イザベラ・ステュアート・ガードナー美術館 1562年 178 x 205cm
「田園の合奏」 ルーヴル美術館、パリ 1510年 110 x 138cm

ジョルジョーネ(1477-1510) 本名はジョルジョ・バルバレッリ・ダ・カステルフランコ。ジョヴァンニ・ベッリーニの一番弟子で、盛期ルネサンス様式を確立した画家、後の画家達に多大な影響を与えた。
「眠れるヴィーナス」 アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン 1510年 108.5 x 175cm

ラファエロ(1483-1520) ルネサンス三大巨匠の一人で、盛期ルネサンス様式を集大成した画家である。西洋美術の規範であり、聖母の画家、大工房、教皇を最大限サポートした。
「システィーナの聖母」アルテ・マイスター絵画館、ドレスデン 1514年 270 x 201cm
「聖母子」 ラファエロの生家 1499年頃
「自画像」(16歳) アシュモレアン博物館、オックスフォード 1499年 38 x 26cm
「キリスト磔刑」 ロンドン・ナショナル・ギャラリー 1502-3年 280 x 165cm
「牧場の聖母」 ウィーン美術史美術館、オーストリア 1506年 113 x 88cm
「小椅子の聖母」 ピッティ宮殿、フィレンツェ 1514年 直径71cm
「アテネの学堂」 ヴァティカン宮殿、ローマ 1510年 577 x 814cm
「アテネの学堂下絵」 アンブロジアーナ図書館、ミラノ 1508年頃 274 x 792cm

ペルジーノ(1450-1523) 本名はピエトロ・ヴァンヌッチ、レオナルド・ダ・ヴィンチと同門で同時代の画家。
「神のごとき画家」と称賛されペルージャで活躍、ラファエロやピントゥリッキオが弟子
「マグダラのマリア」 ピッティ宮殿、フィレンツェ 1500年 47 x 34cm
「正義の旗」 国立ウンブリア美術館、ペルージャ 1496年 278 x 138cm
「慰めの聖母」 国立ウンブリア美術館、ペルージャ 1496-98年 183 x 130cm

ソドマ(1477-1549) 本名はジョヴァンニ・アントニオ・バッツィ、シエナで盛期ルネサンス様式を実践した最初の一人である。レオナルド・ダ・ヴィンチの影響を受け、その画風は優雅である。
「ゴルゴタの丘への行進」ボブ・ジョーンズ大学美術館、グリーンビル、アメリカ 1525年 202 x 156cm
「聖家族」市立美術館、モンテプルチアーノ、イタリア 1525-27年 70 x 47cm

ヴィットーレ・カルパッチョ(1465-1525)イタリア、ヴェネツィアの生まれ。ジョヴァンニ・ベッリーニやアントネッロ・ダ・メッシーナの影響を受け、ヴェネツィアの景観を描いた画家達の先駆者である。
赤を多用したところから、肉のマリネを(カルパッチョ)と呼ぶようになった。また全身の肖像画を初めて描いた画家でもある。
「風景の中の若い騎士」 ティッセン=ボルネミッサ美術館、マドリード 1510年 219 x 152cm
「二人の貴婦人」 コッレール美術館、ヴェネツィア 1490-95年頃 94 x 64cm
「ラグーンでの狩猟」 ゲッティ美術館、ロサンジェルス 1490-95年頃75.6 x 64cm

ティントレット(1518-1598) 本名はヤコポ・ロブスティ、ティツィアーノに師事し、ミケランジェロに傾倒した。劇的な構図と明暗の対比でヴェネツィア絵画を刷新、バロックを予兆した。ティントレットとは、染物屋という意味で彼のあだ名である。ヴェネツィアの地で、見ておくべき絵画であり、その作品も多いのがティントレットである。
有名なレオナルド・タ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、長テ-ブルに横に広がって描かれている。がティントレットの「最後の晩餐」は斜めのテ-ブルを上から俯瞰して描き、明暗がはっきりしていて動きのあるバロック調の絵として仕上がっている。
「最後の晩餐」サン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂 、ヴェネツィア1594年 365 x 568cm

パオロ・ヴェロネーゼ(1528-1588) 本名はパオロ・カリアリ、1553年以降ヴェネツィアで活躍し、ルーベンスやティエポロなど、後世の画家達に多大な影響を与えた。ティントレットより10歳若く、ティントレットよりも10年早く亡くなった。かつて絵の名前、作品名は画家本人がつけたことは無く、多くは後世の人々によって名前がつけられていた。ところがヴェロネーゼは、自分の作品に自分で名前を付けた最初の人である。
「レヴィ家の饗宴」 アカデミア美術館、ヴェネツィア 1573年 555 x 1280cm
「女性の肖像(美しきナーニ)」 ルーヴル美術館、パリ 1560年頃 119 x 103cm

参加者から頂いたご感想の一部です:
*有名な画家の人間関係や師弟関係を詳しく説明されるので、絵が師の影響を受けたところや、またはそれを打ち破った手法など、絵画を鑑賞する場合の参考になる。
*西洋絵画史の流れや背景が、実際の絵を通して理解できた。
*絵や美術館の写真も素晴らしいですが、豊富な知識から出てくるお話もすばらしいと思います。次々と話される逸話、挿話、エピソードに感心致しました。
*大変面白く、のめりこんで聞いておりました。あまりにも多くの知識がおありで、脱帽していました。それぞれの画家たちの生い立ちや、お互いのかかわりかたが良くわかりました。
2019/02/01のBlog
堤先生の連続講座“古典の恋歌”⑪
悲恋の行方 ―『大和物語』『発心集』―
國學院大學講師・文学博士 堤 康夫先生

「現実のままならない恋模様を反映して、文学作品には多くの悲恋物語が存在します。その結末には救いがあるもの、あまり救われないもの、様々なパターンがあります。きょうは平安、鎌倉時代の悲恋物語のいくつかを取り上げ、その類似点、相違点などを考えてみましょう」と前置きされて、次のように解説して下さいました。

*「大和物語」百五十七段
長年連れ添った男がほかの女に心を動かしてある日、什器備品の一切合切を持って立ち去ってしまう。後に残ったのは飼い葉桶のみ。この唯一の桶さえも取りに来た従者に女は『こんなことまでされて、これからどうやって暮らしていけばいいの?』との歌を託す。その歌に感動した男は、鞘を元に戻した。歌を詠む、という芸が身を助けた例である。

*「大和物語」百五十八段
長年共に暮らしてきた男が別に女を作り、あろうことか家の壁向こうに住まわせた。遠くから鹿の鳴き声が聞こえ、壁向うで「西の方に鹿がいるよ」と会話しているのが聞こえてくる。女は『昔は私も鹿のように可愛く鳴いて恋い慕われたのに、今は鹿の声を聞くのみの寂しい環境となってしまった』と詠んだ。この歌に心を打たれた男は、新しい女を送り届けた後に、もとの女のところに戻り鞘に納まった。

*「発心集ほっしんじゅう」巻第八―九
乞食をしている高年の尼がいた。もともとは四条の宮に仕えていたが、ある時男の任地に一緒に向かうことになった。方々に挨拶を済ませて男の迎えを待ったが、肝心の男が姿を現さない。聞けば男は正妻とすでに任地へ出発した、という。ならばと『正妻を殺してくれれば、この命を差し出しましょう。もし私のほうが生き残ったら、乞食をして無間地獄に落ちましょう』と願掛けをする。後日、正妻は亡霊の出現に悩まされ、重い病気でなくなってしまう。ところが願掛けをした女にも不幸が連続し、生き残ったがゆえに乞食の身となってしまった。女は「どうしてあんなに恐ろしい考えを起こしたのか」と悔やむが、今となってはどうしようもないと嘆く。
(堤講師は「これは実話ではなくて、こんなことをしてはいけないよ、という教訓を伝えるために鴨長明が創作した話です」と解説されました。)

以上の3様の悲恋の行方をお聞きになった受講者の方からは、次のようなご感想を頂きました。
*「大和物語」など学校でもあまり詳しく学ばなかったので、今回の悲しい立場に立たされた女性が歌を巧みに作り、自分から逃げようとした男を踏みとどまらせてもとの鞘に収まった歌を解説頂き新しい発見をした。
*古い時代、学校というものが無くましてやそれほど高貴でない女性が、男女関係の微妙な関係の恋歌を、どこでどのように勉強をしたのか?また歌の指導者は、どのような人たちだったのか?
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